ペリエスとの再会
翌朝、夜が明けても商人は部屋から出てこなかった。
扉をノックすると、何やら唸り声が聞こえる。
「入るよ」
果たして、商人は寝台で苦悶の声を上げていた。
念のため、バンダナで口と鼻を覆ってから近付く。
「起きられそうかい」
「……ああ、リーエンさん。これはどうも……無理そうですね。昨日の晩、食事を摂ってから急に腹痛に襲われて……熱もあるようだ。酷く喉が渇く」
病状を説明する彼の声には力がなく、舌がもつれていて言葉も途切れがちになり、身体を起こすのも辛そうだった。とても旅立てる状態ではない。
水差しを手渡そうとして、商人と指が触れそうになる。
とっさに避けてしまい、水差しは床に落ちて割れてしまった。
「ああ……悪い、手が滑った」
「はは……やはり、伝染病をお疑いですよね。無理もない。昨日、宿の主人が言っていた症状にそっくりだ。さあ、移らないうちに出て行ってください」
「……分かった。じゃあここでお別れだ」
「ええ、お達者で」
食堂に向かうと、朝食を終えて旅立とうとする一団と、皿を片付ける主人の姿があった。主人を手招きして、商人の病状を告げてから数枚の金貨を押しつける。
「彼のことを頼む」
リーエンが頭を下げると、主人がさっと顔色を変える。
「ちょっとあんた、病気になった連れを見捨てていくのかい!」
「彼は雇い主で、護衛の契約を結んでいた。この先の護衛も頼まれていたけど、彼が動けない以上、契約は反故だ。ここに留まる理由はもうない」
「だからって、伝染病の人間を連れこんでトンズラされちゃ困るよ」
「おい、それは聞き捨てならないな。昨晩の食事が原因じゃないとどうして言える。彼は食事の後に腹痛を訴えたんだぞ。同じものを食い、会話をしたこっちも感染したかも知れない。ああ、さっきからどうにも腹が痛いし、熱っぽいような気もするな。ここに留まると、じきに病人が二人に増えるがそれは構わないんだな」
「いや、そういうわけじゃ……」
適当にハッタリを混ぜつつ凄んで見せると、宿の主人がたじろぐ。
同時に、二人の会話を聞きつけた旅人の一行がそそくさと出て行こうとする。
「ご主人、金は置いといたからな」
「釣りはいらないぜ。世話になったな」
「あ、ちょっと!」
主人が慌てて金の確認に向かい、リーエンから注意がそれた。
これ幸いと宿を出て、口元を覆っていたバンダナを外して空気を吸いこむ。どこからか焦げた臭いが漂い、爽やかな朝の空気とはいかなかったけれど。
歩きながら、商人がどの時点で感染したのか考える。
彼のためではなく、自分が感染しているかどうかを知るためだ。
おそらく宿で出た食事が原因ではないはず。同じものを食べたリーエンと、同時刻に食事をした旅人の一行が誰も感染していないからだ。
交易都市に着いてから感染したというのも考えにくい。その場合、感染から発症までの時間は長くて数時間。感染力が強く、症状が出るまでの時間も非常に短い、厄介な伝染病ということになる。しかし、それでは辻褄が合わない。
昨日は宿に直行したから汚染が疑われる物には触れていないし、宿に汚染源があったと仮定すると同じ宿にいた人間が発症していないのはおかしい。すなわち接触感染ではない。接触感染したとすれば、都市に着く以前。疑わしいのは村だ。
では、空気感染する可能性はあるだろうか。
これも過剰に恐れる必要はないだろう。空気感染するならそれこそ同じ宿にいた人間に感染していただろうし、都市に着く以前から感染していたと仮定するなら一緒に旅をしていたリーエンも感染しているはずだから諦めるしかない。
つまり、現状からふたつの推測が成り立つ。
ひとつ、感染したのは全滅した村を訪れた時点。
ふたつ、この伝染病は接触感染で広がっていく。
ならば、さっさと交易都市を離れれば当面の危険はない。
問題は移動手段だ。ここまで商人の馬車で来たので、当然ながら馬はいない。彼が死ぬことを見越して盗む手もないではなかったが、奇跡的に彼が回復して馬泥棒の嫌疑をかけられるリスクは避けたかったし、それでなくても良心が痛む。
この状況では王都までの馬車も期待できないから、優に一〇〇キロは歩く羽目になるだろう。とはいえ王都と交易都市を結ぶ主要な街道なので、川には橋が架かっているし、石畳が整備されている箇所もある。順調にいけば三日の道程だ。
一刻も早くこの都市を離れたい。王都に向かおう。
そうと決めたら行動あるのみ。王都方面に向かうためにはネト大河を渡る必要があり、そのためには交易都市レドを経由してレド大橋を渡るのが手っ取り早い。人気のない大通りを足早に進むと、正面に石造りの立派な城塔が見えてきた。
レド大橋は四頭立ての馬車が優にすれ違える巨大な橋であり、その両端には監視と防衛のための城塔が設けられている。交易都市にはある程度の自治が認められているが、都市内部と繋がる大橋を王領とすることで王家は莫大な通行料を得ると共に、交易都市の反乱や裏切りを未然に防いでいるのだ。
大橋の袂には多数の王国兵がいた。彼らは槍と鎧で固めた完全武装で、橋に近付く人間を威嚇している。迂闊に近寄れば、殺気立った様子の彼らに警告なしで刺されかねない。十分な距離を取って、笑顔を取り繕って話しかける。
「兵隊さん、橋を渡りたいんだけど通してくれないかな」
「下がれ、レド大橋は王命により封鎖されている。伝染病の収束まで、何人たりともここを通ること罷り成らん。分かったら速やかに引き返すのだ」
「ふうん、王都はまだ無事なんだ」
「なればこそ、ここで食い止めねばならん。旅人よ、まだ病に倒れていないのなら速やかに都市を離れよ。我らとていつ倒れるか分からぬ状況なのだ」
いくつか想定した中でも悪いパターンだった。
干魃で水位が下がってなお、ネト大河の川幅は一〇〇メートルを下らない。原因不明の伝染病が蔓延している状況で、生活排水が流れこむ汚れた川を徒歩で渡る選択肢はない。接触感染が疑われる状況ではなおさらだ。
渡し船を探すにしても、通行税を取り立てるために表向きには禁じられている。闇ルートに心当たりがないではないが、取り締まりを避けるために上流か下流へ大きく遠回りする必要がある上、彼らが伝染病にかかっていない保証もない。
「仕方ない。言われた通りにするよ」
幸い、魔法水は革袋に半分ほど残っている。これで水を浄化して飲み水を確保しつつ、来た道を戻っていけば干涸らびる前にダクエル山脈に辿り着ける。その先はいわゆる〝人外の領域〟だが、リーエン一人なら生きていくのに問題はない。
方針を決めて、踵を返そうとしたところで頭上から声がかかる。
「そこの旅人、少しお待ちなさい。もしやリーエンではありませんか」
聞き覚えのある生真面目な声。
嫌々振り返ると、城塔の窓から見覚えのある顔が手を振っていた。
*
逃げようとしたら捕らえろ、と王国兵たちに命令されてしまっては逃げるに逃げられず、リーエンは否応もなく城塔の応接間に通されていた。調度品は豪華で、椅子のクッションも効いている。一介の旅人を遇するには過分な部屋だった。
ため息を吐いて、差し向かいの椅子でにこにこと微笑む男に挨拶を投げる。
「出世して腹が出たね、ペリエス」
「貴様、司教様に向かって……口の利き方を弁えよ!」
「いえ、構いませんよ」
気色ばむ王国兵を抑えて、ペリエスが微笑む。
彼とは助祭の頃から付き合いがあり、顔を合わせるのは数年ぶりだった。中年に差しかかり、突き出た腹を豪奢な司教服に包んでいるが、人を食ったような笑みを顔に貼り付けているのは相変わらずだ。
「そういう貴方は変わりないようだ。今までどちらに?」
「……ちょっと遠くでぶらぶらと」
回答を濁すと、ペリエスの背後に控える王国兵が顔をしかめる。
そういう反応になるのは予想できたが、素直に話せば余計に話がこじれる。それを察してか、ペリエスも表情で悪かったと伝えてくる。
「ともあれ、ご健勝で何よりです。すでにご存じでしょうが、交易都市を含む広大な地域が原因不明の伝染病に見舞われています。今は何より、病の治癒に繋がる情報が欲しい。リーエン、貴方が見聞きし、考えたことを教えてくれませんか」
「……さて、どこから話したものかな。知ってるかいペリエス。丸くて金色のものを噛むと、口の回りが滑らかになるそうだよ。どうだい、有益な情報だろう」
リーエンの不遜な返答に、王国兵が再び激高する。
「無礼者、司教様が御自らお尋ねしているのだぞ!」
「こいつ、下がらせてくれないかな」
リーエンが舌打ちして言うと、ペリエスはあっさりうなずき、背後を振り返って彼の護衛役を務める王国兵に告げる。
「君、ご苦労でしたね。部屋の外で控えてください」
「ですが司教様、このように粗野な輩とお二人だけにするわけには」
「リーエンは古い友人で、信頼できる人物です。しかし、どうしても信用できないと言うのなら仕方ありません。この場では君の同席を許しますが、友人を酷く侮辱されたことは君の上役に告げなければなりません。非常に悲しいことです」
ペリエスが大袈裟にため息を吐くと、王国兵は分かりやすく狼狽する。
「も、申し訳ありませんでした!」
せめてもの抵抗でリーエンにひと睨みをくれた後、彼は部屋の外へと姿を消した。それを見届けると笑いをこらえるのも限界になり、二人で吹き出す。
「相変わらずだね、ペリエス」
「そういう貴方は、少し険のある顔になられた。何か悩みを抱えているのでは?」
「告解の真似事はやめて欲しいな。ここにいる目的はそれじゃないだろ」
「確かに、私は交易都市と周辺の村落における伝染病の拡大阻止と原因の特定、並びに治療法の発見という王命を帯びてここにいます。ですが、暗闇に惑う者の道標となるのも同じくらい大切なことです。どうして時間を惜しみましょうや」
慈悲深い笑み、少なくともそう見える表情をペリエスは浮かべる。
「だとしても、必要ない。金と引き換えに情報は提供するけど、それだけだ」
ペリエスはゆっくり瞬きをして、表情を普段の作ったような笑みに戻す。
「分かりました。十分な対価を用意させましょう」
「決まりだね。じゃあ、交易都市の前に訪れた村の話からしようか」
村の状況や商人の行動、交易都市に着いてから商人が発症したこと。そこから推測できる伝染病の性質について、順番に説明していく。
ペリエスは聖職者だが、その本質は現実主義者だ。教会には、伝染病は悪徳への天罰だとか、治療には祈祷が役立つとか、教義ありきで現実を解釈する人間も多い。そういった人間が上に立つと余計に被害を拡大させる恐れがあるので、彼が責任者として送りこまれてきたのは交易都市に住まう人々にとっても幸いだった。
「――だから、感染者との接触に気をつければ急速に広がることはないと思う。それからスライムの駆除も進めた方がいい。面倒だけど、死体もスライムも必ず焼却してね。教義には反するだろうけど、死体を増やすよりはマシだろうから」
どうせ墓地も墓掘り人も足りないだろうし、という言葉は飲みこむ。
「貴重なご意見をありがとうございます。感染源となり得るものの焼却については徹底させましょう。しかし、接触感染ですか……ううむ、となると……」
考えこむペリエス。情報は伝えたので、後は彼の仕事だ。
「さて、もう行くよ。できたら馬を借りたいんだけど、いいかな」
「おお、そうですね。ところで、どちらへ向かわれるのですか」
「王都へ。ネト大河を渡らないことには、伝染病で仕事も無さそうだし」
「ほう、王都へ。しかし困りましたな。私の使命には感染拡大の防止も含まれます。つまり交易都市の側から来た人間を素通りさせるわけにはいかないのですよ」
わざとらしい困り顔を作ってみせるペリエス。憎たらしい。
「感染してないってば」
「潜伏期間というものがあると我らに教えたのは、リーエン、貴方でしたね」
「じゃあ、しばらくここに留まればいいだろ」
「それもできません。もし貴方が感染していたら、そこから兵たちに広がる可能性がありますので。そもそも、貴方をお通ししたのも私の独断に過ぎませんし」
「だったら、もうちょっとだけ融通を利かせて見逃してよ」
「はっはっは。神が見ておられますので」
ペリエスが白々しく笑って見せる。
思わず舌打ちしてしまった。
「……要するに」
この先を口にしたくはなかったが、言わなければ話が進みそうにない。
「橋を渡りたければ伝染病を何とかしろ、と」
「なんと、我々に協力してくださるのですか。これは心強い」
目を丸くするペリエス。白々しいにも程がある。
「嫌な駆け引きが上手くなったね。昔からその片鱗はあったけど」
「お褒めに預かり光栄です」
にっこり笑って嫌みを受け流したペリエスが、不意に真面目な表情になる。
「実際のところ、感染源の特定や治療法の発見といった調査を任せられる人員は貴方を置いて他にいないのですよ。我々も啓蒙と育成に努めてはいますが、勇者の一行において斥候を務めた貴方の知識と観察眼にはまだ遠く及びませんので」
勇者。その単語を耳にした瞬間、息が詰まる。
「……買いかぶりだよ、ペリエス」
やっとのことで口にした言葉は、我ながら弱々しい響きだった。
「そうは思えません。現に貴方は今日、貴重な情報をもたらしてくれたではありませんか。この半月あまり、我々は感染を恐れて大橋の防備を固め、近付く者を追い返すことしかできなかった。しかし、空気感染の可能性が低いとなれば対応策も立てられます。戦うために必要な情報を得る、斥候の面目躍如と言えましょう」
「途中で脱落して、みすみす勇者を死なせた役立たずの斥候だ。そんなやつの情報を前提に動いて、何もしないより酷いことにならないといいけどね」
吐き捨てるように言うリーエンを、悲しそうな目でペリエスが見つめる。
「リーエン。貴方が勇者の一行に加入したのは五年前でしたね」
「……さあ。憶えてないけど」
嘘だ。忘れたことはない。
「それから四年。彼が勇者として活動した四年半の内、貴方は四年に渡って斥候を務めた。裏を返せば、貴方抜きでは勇者と言えど半年しか持たなかったのです。貴方の有能さを物語る証拠として、これ以上の言葉が必要でしょうか」
「そんなの、ただの偶然だ」
「いいえ」
ペリエスは断固として首を振る。
「あえて言わせてもらいましょう。本心から偶然だと思っているのなら、なぜ貴方はそんなに辛そうにしているのですか。勇者の死、その原因の一端がご自身の不在にあると思えばこそ、こんなところで燻っているのではありませんか」
「うるさい、黙れ!」
それ以上は聞いていられなくて、感情的に叫んでしまう。
声を聞きつけて扉から王国兵が顔を出すが、ペリエスが手で制する。
それをいいことに、言ってはならないことをリーエンは口にした。
「ダクエル山脈を越え〝人族の領域〟の外へと踏み出したことのないお前に何が分かる。勇者に同行を請われたのに、それを辞退した臆病者のお前に……」
リーエンの罵倒を、ペリエスはじっと黙って聞いていた。
だが、痛切に歪むその表情が彼の心中を雄弁に物語っている。
分かっている。彼は怯懦ゆえに同行を拒んだのではない。
勇者の敗北。今や現実となった、人族にとっての悪夢。
人族と敵対する種族は数多く、いずれも難敵だ。
ゴブリン、オーク、コボルト、ノーム、リザード、ワイバーン、ドラゴン、フェアリー、オーガ、魔人、その他の未知の種族。これらの種族は人族と友好関係にない。不用意な遭遇が即座に命の取り合いに発展する、敵対的な種族だ。
一定の友好関係を結んでいるエルフやドワーフにしても、交易などの経済的な繋がりが主であり、軍事的な同盟を結ぶには至っていない。他種族と全面戦争になれば、よくて中立、悪ければ敵に回る程度の信頼関係しか存在しない。
勇者は人族としては隔絶した力を有していたが、あくまで個としての力であり種族を根絶やしにするような能力は持たなかった。必然的に、各種族を束ねる指導的な立場にある人物の暗殺によって人族の領域を守るという目的を達成するしかなかったのだが、当然そのようなやり方はやられた側の激しい憎悪を引き起こした。
皮肉なことに、勇者の存在はそれまでいがみ合っていた各種族が同盟を結ぶきっかけとなった。勇者に勝るとも劣らない人族の英雄が集った勇者の一行だったが、最期は諸王連合の大軍に追い詰められて壮絶な死を遂げたと伝えられている。
ペリエスは限定的な蘇生すら可能とする熟達した魔法の使い手だが、勇者にはあえて同行しなかった。彼は物語のように劇的な勝利に期待をかけるのではなく、勇者の敗北をきっかけに王国が亜人と魔物の連合軍に攻め入られ、地上に残された人族による最後の国家が消滅することを危惧したのだ。
そう、人族の王を戴く国家など、今や〝王国〟ただひとつ。
この世界は亜人と魔物に牛耳られ、人族は滅びの淵にある。
最悪の可能性を案じたからこそ、ペリエスは別の道を歩むことを選んだ。
王国と教会の橋渡し役を務め、後進の育成に励み、人族の領域と人外の領域とを隔てる天然の要害たるダクエル山脈に巨大な要塞を築いたのだ。どれも人族にとって欠かせない役割であり、それを果たせるのはペリエス以外にいなかった。
だが、彼が勇者に同行しないという決断を後悔しなかったはずはないのだ。
ペリエスの蘇生魔法さえあれば、勇者は生きていたかも知れないのだから。
勇者の死に責任を感じているという意味では、リーエンと彼は同類だった。
「……悪かった。さっきの言葉は全て撤回する」
「いいえ。私が安全な場所に留まり続けたのは事実ですので」
場に沈黙が落ちる。勇者がいれば、きっとこんな風にはなっていない。
彼はとっくの昔に都市へと出向き、事態の解決に当たっていただろう。
しかし、勇者はもういない。失われたのはあまりに大きい存在だった。
重苦しい雰囲気を、ため息を吐いて誤魔化す。
「……分かった。調査を引き受けるよ。その代わり、報酬は期待していいよね」
「もちろんですとも。必要なものはおっしゃっていただければ用意します」
「じゃあ地図と魔法水、それから人手も欲しい。区域ごとに感染が始まった時期と人数を把握したい。傾向を掴みたいだけだから、正確さより早さを優先して」
「分かりました」
ペリエスは控えていた王国兵を呼ぶと、的確な指示を与えていく。
地図と魔法水もすぐに用意された。有事には王都防衛の前線基地としての機能を持たされている交易都市の詳細な地図は一種の軍事機密なので、くれぐれも紛失しないようにと念を押される。大丈夫、ここから持ち出すつもりはない。
「これ、書きこんでもいいよね?」
リーエンが問うと、ペリエスの笑顔が固まるのが分かった。
「……貴重な地図だと理解した上での発言だと受け取ります。ええ、必要ならそうしてください。ただし、可能な限り最小限に留めてくださいね」
「うん。じゃあ、偵察に出た兵が戻ったら患者のいる場所と人数、感染が始まった時期を記入させて。治療に当たっている医者や薬師がいたら、それも分かるようにしておいて。どこから発生して、どれくらいの速さで広がるのかを把握したいんだ」
「……いいでしょう。他に要望はありますか?」
「そうだね……評議会や衛兵隊に話を通してもらえると助かるかな」
伝染病による多数の死者で、街には不穏な空気が漂っている。
怪しげな傭兵が街中をうろつき、探り回っているのを見咎められれば、住民の吊し上げに遭いかねない。逃げるだけなら簡単だが、継続して調査するなら物事がスムーズに進むよう、思いつく限りの手は事前に打っておきたかった。
しかし、ペリエスは難しい顔で首を振って言う。
「衛兵隊に協力を頼むのは難しいかも知れません。伝染病であることが明らかになる前にスライムの大発生が起きて、対応に当たった衛兵の多くが感染したのです。衛兵隊長を含め、統率者の大半が陣頭指揮を執っていたのも災いしました。指揮系統を失った衛兵隊は評議員の一人が再編しつつありますが、現在はどこからか湧いて出るスライムの駆除に手一杯で、脱走者も後を絶たないと聞いています」
「こんな状況じゃ仕方ないかな……兵を再編してる評議員は信用できるのかい」
「イング評議員は王国軍人としてダクエル要塞の部隊長を務めた経歴があります。数年前、父君を継いで評議員になることを期待されていた兄を流行り病で亡くしたのを契機に退役。政界に身を投じ、都市の防衛強化を提唱してきました。実績も人望もあり、離散しかけた衛兵隊をまとめ上げた実力は確かです」
「ふうん……居場所は分かるかな」
「都市中央の政庁を拠点としています。衛兵隊の宿舎は感染者で溢れているため、まだ動ける衛兵もそこに集まっているという話です。昼間はスライムや死者の対処で動き回っていますが、夜になれば戻って書類仕事をしているはずです。私の名前を出せば面会も叶うはずなので、必要があれば訪ねてください」
「分かった。で、評議会はどうなってるの?」
「貴族や大商人は真っ先に都市から逃げ出しました。評議員もです」
微笑みの裏に憤怒を滲ませるペリエスを見て、怒る気も失せた。
「まあ……請け負ったからには最善を尽くすよ」
簡単に別れを告げて、城塔を出た。




