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積年

 時は遡り、ダクエル要塞、辺境伯の執務室。

 番兵の制止を振り切って、父シドラス・デアホルン辺境伯が座す部屋へとバルシドは踏みこんだ。ゴブリンの王、ガブニエルが〝ダクエル越え〟を成し遂げる少し前、勇者の一行を〝人外の領域〟へ送り出した後であった。

 神聖なる〝人族の領域〟への軍勢の侵入を許した咎でシドラスが蟄居を強いられる以前であり、四十を超えたバルシドは辺境伯の補佐あるいは名代として〝北灯台〟から〝南の物見台〟まで十二の砦を定期的に視察し、指揮する立場にあった。

「父上、私の上申した作戦書には目を通していただけましたか」

 足音も高く押し入ってきたバルシドに、シドラスが眉をひそめる。

「騒々しいぞ。デアホルン家の跡継ぎともあろう者が礼儀を忘れたか」

「この機に乗じて〝人外の領域〟へと打って出ずしてどうするのです。勇者の奮戦を横目に見ながら防御を固めるのみとは武門の名折れではありませんか!」

 無礼を咎める言葉を無視して言い募る息子に、父親の表情が不機嫌に歪む。

 〝人族の領域〟から敵勢力を排除したのみならず、諸王連合の幹部や王を次々に仕留める勇者の一行の活躍はダクエル山脈の各砦まで響き渡っていた。しかし少人数の暗殺部隊である彼らは一所に留まれないため、一時的に土地を奪っても維持できない。勇者が去れば、諸王連合はすぐさま後釜に座るべき人物を送りこんでくる。

 必要なのは奪い取った土地を確保し、奪還しようと攻めてくる敵を撃退する軍隊だ。バルシドの作戦案は〝人外の領域〟への再進出に欠くべからざるものだった。

 しかし父であるシドラス辺境伯は、バルシドの提案を退けた。命令がないにもかかわらずダクエル要塞に帰還したのは、彼の真意を問いただすためだった。

「父上、お答えを。勇者の奮戦に我がデアホルン家はどのように報いるおつもりか」

「打って出て、どうなる」

 詰め寄るバルシドにシドラスが返したのは冷笑だった。

「お前は勇者にでもなったつもりか? デアホルンの兵は精兵なれど、か弱き人族の物差しで測った強兵に過ぎないと忘れたか? 要塞という地の利を捨て、平地での戦でいかにして諸王連合の軍勢を退けるのか述べてみよ」

「生まれ持った身体能力のみが戦の趨勢を決めるのであれば、人族以上に非力なゴブリンが領地を持てる道理がありません。勇者と連携し、確実に地歩を固めていけば再進出は決して夢想ではないと、なぜご理解いただけないのか!」

 持論を正しいと信じて疑わない息子に、シドラスが重苦しいため息を吐く。

「お前に預けた十二の砦は人族を守護する最後の防衛線なのだぞ。一時の熱に浮かされてどうする。外に目を向ける前に、内へと目を向けてみよ。目に付く敵は一掃したとはいえ、野盗が我が物顔に歩き回り、怪物どもに海を閉ざされた現状は何ひとつ変わっておらん。勇者に目が向いた今、真に貴様がすべきことを考えよ」

「考えたからこその作戦だと申し上げています」

 シドラスが細く長く息を吐く。度し難い愚か者めと言わんばかりだ。

 思案するようにしばらく机を指で叩いた後、辺境伯は重々しく口を開く。

「……バルシド・デアホルン。我が息子よ。なぜお前に砦を回らせ、その目で現状を知るよう計らったか……未だに理解できないとは失望の一言だ。満足に修繕も行き届かない城壁の中に詰まっているのは、中央から送られてきた犯罪者まがいの兵ばかり。まともに弓も引けないカカシの群れを一端の兵士に鍛え上げたところで、今度は中央の防衛のためにと引き抜かれ、新たなクズどもが送りこまれてくる」

 憎々しげに言葉を連ねるシドラスが、ふと悲しげな顔を見せる。

「……私はもう疲れた。華々しく出陣して戦場に散りたいという想いに駆られたのも一度や二度ではない。お前の作戦書を読んで胸が躍ったのも否定はすまい」

「であれば……!」

「であればこそ、だ。百年に渡って人族を守護し続けたデアホルンが破れるという意味を考えよ。中央の愚物どもは国境線が不動とでも勘違いしておる。百年、流しに流した血と汗への報いがそれとは、ずいぶん皮肉なものだと思わんか」

 偉大な父の引きつった笑い。思わず返すべき言葉を失う。

「……かつて〝白雪城〟と呼ばれた砦があった。お前も知っておろう。忌まわしくも〝亡霊城〟と名を変えた、あの砦を。冬ともなれば城へと通ずる全ての道が背丈をも凌ぐ雪で閉ざされ、暖炉の前で竪琴をかき鳴らす吟遊詩人の慰めとてなく、永遠とも思える暗闇の中、吹雪の唸りだけが耳を叩き続ける厳しき地に、あれは在る」

 それはデアホルン家に伝わる昔話だ。

「その年は酷く長い冬だったという。雪解けを待ち、酒と食物を携えた輜重が城を訪れた。常ならば歓声が上がるはずが、迎えるのは氷のごとき沈黙のみ。輜重兵たちが目にしたのは、殺し合い、食らい合い、凍り付いた兵士たちの姿であったと」

 そこで起きたことの詳細を知る者はいない。だがパンの欠片すら残っておらず、人が吊され肉が削がれた痕から事情は察せられた。誰が呼ぶともなく〝亡霊城〟と呼ばれるようになった砦では、今なお空腹と寒さに震える兵の幽霊が出るとされる。

「〝白雪城〟の兵たちがなぜ全滅したのか、分かるか」

「……想定外に冬が長く、食糧が尽きたからです。彼らには連絡を取る方法がなく、我らには窮地の友軍に食料を届ける術がなかった。苦い教訓を生かし、今では全ての城に使い鴉を置いて連絡を保ち、各砦の備蓄も増やすよう命じました」

 バルシドの答えに、シドラスは首を振る。

「浅い。あまりにも浅いぞバルシド。食料が尽きたのは十分な備蓄がなかったから。それはいいだろう。だがその程度のことが誰にも予見できなかったと思うか。備蓄がないのはそもそも運びこむべき食料がないから、食料がないのは土地が貧しく獣も作物も獲れないからだ。にもかかわらず、誰も攻めてこない砦に不必要な人間が詰めていたから。漠然とした不安からそれを命じた愚者がいたから兵は飢えたのだ」

 つまるところ。

 率いる者が愚かで無力だから人が死ぬ。

 シドラス・デアホルンがしているのはそういう話だ。

「まだ、その時ではないのだ。理解できるな、我が息子よ」

 道理を説くようにも、懇願するようにも聞こえる父の言葉だった。

 確かに勇者の快進撃に〝人外の領域〟への再進出を夢見て、賭けに出ることは可能だ。しかし失敗すれば貴重な兵士と物資を浪費した人族はそのまま諸王連合に滅ぼされかねない。その時、真っ先に犠牲になるのは国境に近いデアホルン領の民だ。

 そこまで言われて、ようやく理解できた。父が辺境伯として行ってきた数々の施策。秘密裏に〝人外の領域〟からの難民を受け入れ、要塞の東側の防備も決して怠らず、私財を投じて水路や風車の整備を行い、時に反感を買ってでも無能な人間を街や村の長から引きずり落とし、代わりに信頼できる有能な人物を送りこみ、反乱に対しては流血を伴う厳しい弾圧を行ってきた意味。

 全てはデアホルン領を強くするため。

 歴史の狭間ですり潰される事態を避けるため。

 我らを物言わぬ盾としか見做さぬ連中を見限る時のため。

 それは今ではない。だが、いつか必ず来るのだと父は無言で語っている。

 己の不明をバルシドは恥じた。

「……父上、お許しください。私が愚かでした」

 風雪を耐え忍ぶが如く〝王国〟に忍従する父を内心で軽蔑したこともあった。

 だがその胸には底知れぬ野望が、命を懸けるに値する夢があった。

 バルシド・デアホルンの人生はこの日、そこから始まった。

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