辺境伯
兵に案内され、ダクエル要塞の一室に通される。石造りで窓がなく、息詰まる感じのする部屋だ。ソファに腰掛けると、立ったままのソアルが黙って壁を示す。タペストリーが掛けられており、人の気配がする。裏に兵が伏せてあるのだろう。
伏兵に悟られないよう、リーエンも黙ってうなずく。手振りで二人も座るよう促し、軽く目を閉じて待つ。虎穴に入った以上、いまさらじたばたしても始まらない。
ソアルとザイアユーネがいる以上、人族の兵など何人いても問題にならない。重要なのは警戒されているという事実だ。殺気を隠そうともしない二人に挟まれて落ち着かない気分で座っていると、さほど待たされることもなく扉が開かれる。
「ろくな出迎えもできず、失礼した」
白髪に髭を生やした、穏やかな印象を受ける老紳士だ。分厚いキルトのダブレットに手甲と胸甲を身に付け、いつでも指揮を執れる戦時の装いながら、所作は優雅で落ち着いている。細剣の使い手で、馬上槍試合の名手としても知られる〝人領の盾〟バルシド・デアホルン辺境伯その人だった。
「いえ、敵軍への対応で忙しい中、貴重な時間を割いていただき感謝します」
ここまで案内される途中にも、要塞内の慌ただしい雰囲気は感じ取れた。ソアルが発見した軍勢への対応に追われているのだろう。敵勢はオークだ。身体能力に優れ、独自の武術と道具を使う知性、旺盛な戦闘意欲を持つ好戦的な種族。
「〝天騎士〟の代弁者を務めますリーエンと申します。卑賤の身でありながら直答する無礼を、そして〝天騎士〟に代わり兜を取らぬ無作法をお詫び申し上げます」
ソアルの公的な立場は一介の騎士だ。同じ貴族でも、王と大公に次ぐ格を持つ辺境伯とは天地ほどの差がある。兜で顔を隠すなど権威と位階を重んじる大貴族なら激怒してもおかしくない行為だが、バルシドは軽く手を振って鷹揚にうなずく。
「構わない。〝天騎士〟の素性を秘匿する意味は理解している。格式張ったことを言うつもりはない。それから、勇者のことは残念だったな〝勇者の斥候〟よ」
「……もしや憶えておいででしたか」
バルシドと会ったのは遠征のためにダクエル要塞を通った一度きりだ。彼ほどの立場にある人間が、一介の斥候ごときを記憶に留めていたのには驚かされる。
「君が〝人族の領域〟から〝天騎士〟を伴って現れたのには面食らったがね。監視の網を密にするよう、各砦に通達せねばならないかな」
密かに〝人外の領域〟から戻っていたのを、言外に責められているのだと分かった。辺境伯は微笑んでいるが、目が笑っていない。鋭い眼光に冷や汗が出る。
「恐縮です。こちらはザイアユーネ。腕利きの魔法使いです」
簡単に紹介を済ませる。バルシドはちらりと目をやってうなずいた。
「〝天騎士〟にザイアユーネ殿だな。心得た。では来訪の目的を聞こうか」
空気が変わる。主導権の取り方は流石の上手さだった。
「とある魔人を追えとの王命が〝天騎士〟に下りました。これから〝人外の領域〟へ向かいますので、我らに要塞を通行する許可をいただきたく参上した次第です」
決して嘘は言っていない。追っている魔人とはザイアユーネであり、現在は〝天騎士〟も彼女の仲間になったのを黙っているだけだ。
王都から〝天騎士〟を送り出したエリオール伯爵には、ソアルが〝人外の領域〟へ向かう旨を記した手紙を送ってある。こういうことはできるかと試しに聞いてみたら、いとも容易く手紙を挟んだ小型の銀槍を飛ばしてくれたのだ。
宰相のエリオールは勇者の価値を理解し、遠征を後押しした人物だ。王都の守りを一手に担う〝天騎士〟の不在を騒ぎ立てても敵を利するだけだと理解してくれるだろう。ましてや人族最強の戦力が離反したなどと表沙汰にできるわけもない。
国境の守りの要である辺境伯と中央の貴族たちの確執も考えれば、取れる手はひとつ。最初から〝天騎士〟の行動は予定通りとするしかない。そうして表向きだけでも〝王国〟の公認を受けてしまえば、人族を丸ごと敵に回すことは避けられる。
もちろん王都の守りを完全に放棄したわけではない。エリオールのところに飛ばした銀槍はそのまま手元に置いてもらい、危急の折には飛ばすように記した手紙を別に送ってある。銀槍は自動でソアルの手元に戻り、挟んだ手紙で状況を知ると共にソアルが急行できる仕組みだ。彼の機動力があれば最悪の事態は防げる。
この仕掛けは王にすら秘密だ。エリオール個人に宛てて送った手紙にはそのように記した。これによりエリオールは半ば強制的にリーエンたちと秘密を共有する関係となる。ひとつ密約があったのを認めれば、他にもあっただろうと疑心暗鬼に陥るのが人間だ。権力闘争に明け暮れる宮廷の魑魅魍魎どもは言うに及ばない。
しかし、事実を伏せたリーエンの言葉にバルシドは渋面を作ってみせる。
「あまり侮られるのも気分がよくないな」
「は……と、言いますと?」
「国境の防衛を預かる者として〝人外の領域〟の情勢把握は怠っていない。リーエン、私は君が〝勇者の斥候〟として果たした役割は正しく評価している。相手を読み切ったつもりで手玉に取ってみせるのはさぞかし気分がよいだろうな」
まずい方向に話が転がっていく。
「……なにか誤解があると思うのですが」
慌てて口にしかけた言い訳はぴしゃりと遮られる。
「口を慎め。確かに不快ではあるが、ここで交渉を打ち切るつもりもない。この私を前にして安易な嘘偽りを申すなと釘を刺しているのだ。心得たか?」
ただ利用されるつもりはない、という宣言だった。
そして、その上でまだ機会を与えてくれると言っている。
侮ってはいけない相手だと、改めて思い知らされる。
「……不誠実な態度を謝罪します。そして寛容を示していただき感謝します、閣下」
バルシド・デアホルン辺境伯。彼と彼を育んだデアホルン家があればこそ〝人族の領域〟は保たれているのだと実感する。対する自分は、ザイアユーネとソアル、強大な力を持つ二人がいれば敵はないと心のどこかで慢心してはいなかったか。
取り返しの付かない失敗をしたのでは、という恐怖がじわりと胸を満たす。
少し口と頭が回るだけの斥候に過ぎないリーエンが、物語の主人公のように何もかも想定して思い通りに事を運べるなどと思い上がりもはなはだしい。
どうするのが最善なのか。どこに落としどころを持っていけばいいのか。
事前の想定と準備で戦うリーエンの本能は、一も二もなく逃げろと言っている。
だが、嘘偽りを申すな、というバルシドの言葉が脳裏をよぎった。
ふと、どうにでもなれ、という気分になった。
小細工は逆効果、という言い訳が脳裏をよぎったのもある。
「正直に申し上げると、再び表舞台に姿を現すつもりはありませんでした」
これは本心だ。どう考えてもリーエンは世界の行く末を左右するような器ではない。何かの間違いで勇者と旅路を共にしたが、ただの成り行きに過ぎない。もっとふさわしい人物がいただろうに、自分がそこに居たばかりに勇者が死んだ。
「……ですが奇妙な縁あって、再びこの地を訪れることになりました。実を言えば先ほど申し上げた〝天騎士〟一行というのも口実に過ぎません。我らを主導するのはこちらの〝魔人の勇者〟ザイアユーネ。〝勇者の斥候〟リーエンと〝天騎士〟ソアル・エンペリオは、彼女の仲間としてこの場にいます」
ずっと黙っていたザイアユーネに目配せする。
事前に描いた筋書きを離れた時点で、隠しておけるものではない。
「リーエン、いいのですね?」
彼女は大人っぽい紫のドレスに着替えている。もう少し冒険者らしい格好をと説得しても、これだけは譲ってくれなかった。流れるような黄金の髪をハーフアップにまとめ、アメジストの髪飾りを付けた優美で洗練された装いだ。
気後れなど全く感じさせない微笑みを浮かべて、ザイアユーネは言う。
「わたしのリーエンをあまり侮辱するようなら痛い目に遭わせてやるところでしたが、特別に許してあげましょう。わたしは〝魔人の勇者〟ザイアユーネ。あまねく人を救う者、人に変革をもたらす者です。見知りおきなさい、辺境伯バルシド」
彼女の口上を途中で遮らなかった鉄の自制心を褒めて欲しい。
あまりに傲岸不遜、傍若無人な言葉にバルシドが目を丸くし、ふっと笑う。
「活躍は聞いているよ、ザイアユーネ君。なるほど〝魔人の勇者〟とは……妙な組み合わせだとは思ったが、その名乗りを聞けば納得できる部分もある」
辺境伯が激怒して交渉が打ち切りにならず胸をなで下ろすと同時に、聞き逃せない言葉があった。ザイアユーネの活躍という部分だ。おそらく〝人族の領域〟に入る前のことなのだろうが、何をしでかしたのかと彼女の澄ました横顔を見てしまう。
それ以前に、どうやらバルシドはザイアユーネの名前を知っていたらしい。思い返せば彼女の名前を出した時の辺境伯は微妙な表情をしていた気もする。ただの魔法使いだと紹介して誤魔化そうとしていた自分が道化に思えてくる。
リーエンが混乱する様子を見て取ったか、バルシドが言葉を継ぐ。
「魔人の第三位〝超越者〟モングレーズを討ち取り、成り代わったと聞いている。てっきり君が一枚噛んでいるものと思ったが、違うのかね?」
「いえ、知りませんが……」
首を振ってザイアユーネを見ると、見つめ返してにこりと微笑まれる。
「ええ。腕試しに、ちょっと」
「ちょっとって、君さ……」
要塞への道中では辺境伯との交渉で頭が一杯だったし、彼女の過去が話題に出るとは思っていなかったので聞き出せていなかった。忘れかけていたが、彼女はリーエンを諸王連合に勧誘するという口実で〝人族の領域〟を訪れていたのだった。
魔人の第一位、魔人王の意を受けて〝人族の領域〟へ潜入してきたのだから、それなりの立場を得ているのは想像していたが、第三位とは予想外が過ぎる。
情報を整理するために黙りこむリーエンを余所に、バルシドとザイアユーネが話す。
「モングレーズの奴隷貿易は従前より苦々しく思っていたのだ。やつめ、あろうことかこのダクエル要塞にまで人族の奴隷を売りつけに来おった」
「わたしとしては人族を家畜のように扱う所業は見逃せませんでした。話し合っても分かり合えなかったので、彼には当然の報いを与えたまでです」
「感謝する。国境を預かる者として〝人外の領域〟に住まう人族の保護は再三に渡って進言しているのだが、王都の愚物どもは聞く耳を持たないのでね」
噛み合っているようで噛み合っていない会話にひやひやさせられる。
「閣下にひとつお願いがあります」
ボロが出る前に本題に引き戻す。
「この場にいる三人を表向きは〝天騎士〟一行として送り出していただきたいのです。誰よりも真摯に〝人外の領域〟の現実と向き合ってきた閣下には申し上げるまでもありませんが、人族が現状維持に汲々とする間にも諸王連合は着々と力を付けています。このまま力の差が広がっていけば、いずれは堤防が決壊する事態となります」
こうも真正面から頼むことになるとは想定していなかったが、辺境伯の承諾が得られれば望外の成功だ。上手く運べば援助や連携も期待できる。
「揃いも揃って無礼な者たちだ。言うに事欠いて、このダクエル要塞を預かる辺境伯に向かって要塞が落ちるとは。手打ちにされても文句は言えないぞ」
語調は鋭いが、どこか笑みを含んだバルシドの言葉だった。言い訳を口にしたくなるのはぐっとこらえて、続く言葉を黙って待つ。
「ふむ。では問おう。諸君らの行動は人族の未来に資するものか」
人族の未来を守護し続けた〝人領の盾〟が問いかける。
ここが正念場と見て、真っ向から視線を受け止めた。
「必ずや」
「うむ。であれば構わない。存分にやりたまえ」
「……っ、は、はい。感謝いたします、閣下」
思った以上にあっさりと首肯されて、戸惑ってしまった。
ザイアユーネと顔を見合わせると、彼女は柔らかく微笑んだ。こうなるのは分かっていたとでも言わんばかりの信頼と親愛に満ちた表情。
そこに伝令の兵が息せき切って駆けこんでくると、バルシドに何事か耳打ちする。辺境伯は厳しい顔つきになると、素早く立ち上がって三人に告げる。
「オークだ。やつら、攻めてきたぞ」
まだ話したいことはあったが、どうやら時間切れのようだ。
戦が始まる。




