人族について
青に染まった単調な空の下、馬上のリーエンが額の汗を拭う。
〝天騎士〟ソアル・エンペリオから逃げるため置き去りにした二頭の馬は、幸いにもくくり付けた荷物や金袋ごと回収できた。目指すダクエル山脈まで、残すところ馬で一日の距離だ。ソアルやザイアユーネに抱えて飛んでもらえば短縮できなくもないが、自分の力ではないものに頼るとどこかで足をすくわれるのが世の常だ。
ザイアユーネは鞍の後ろでリーエンの腰に手を回して、ぴたりとくっついている。正直ちょっと暑苦しいのだが、なぜだか上機嫌でいてくれるのはありがたい。暑さも我慢できる範囲なので、彼女の好きなようにさせておく。
遮る雲ひとつもなく、じりじりと日差しが照りつける空を見上げる。
高空を旋回している〝天騎士〟を視界に捉えると、巨大なブーメラン状のそれが視線に気付いたように翼を傾けて旋回、突如こちらを目掛けて急降下してきた。異様な風切り音に馬が怯え、棒立ちになる。慌ててなだめ、何とか落馬は回避した。
リーエンが馬を御するのに四苦八苦している最中、自在鉄で構成された〝天騎士〟の武装〝飛行騎〟から何かが投下された。機首を上げて上空へと戻っていく鋼鉄の飛翔体から落ちてくるのは、驚いたことに生身の〝天騎士〟ソアル本人だった。
「ユカリ!」
自由落下しながら、満面の笑みでソアルが叫ぶ。
そのまま地面に激突するかと思われた瞬間、落下傘でも開いたかのように急減速。無数のナイフを仕込んだコートをぶわっと広げて、柔らかく着地して見せる。馬上のリーエンを見上げるように胸を張り、鼻息も荒く偵察の結果を報告する。
「敵影なし、待ち伏せなし。安心して進んでいいですよ」
「偵察ありがとう。あー、それから、その呼び名なんだけどさ」
「はい。なんですか、ユカリ」
好きに呼んでいいとは言ったものの、かれこれ十年以上は耳にしなかった名だ。どうにもむずがゆく、呼ばれる度に落ち着かない気分になってしまう。
「これから〝人外の領域〟に向かうに当たって、真名を使い続けるのはリスクがある。誰かに呪われないとも限らないから、リーエンって呼んで欲しいんだけど」
「は? ユカリを呪うやつがいたら、僕が殺してやります」
童顔のソアルが歯を剥き出しにして敵意を露わにする。
人族最強の呼び名も高い〝天騎士〟が狂犬だったとは、笑えない事実だ。
「守ってくれるのはありがたいけど、万が一を考えるとね。こっちは君やザイアユーネと違って魔法への抵抗力が低いから、万全を期したいんだ。頼むよ、ソアル」
「むう、ユカリ……いえ、リーエン、が言うなら仕方ないですね」
不服そうに口を尖らせながらも、ソアルが同意してくれる。
「よかった。よろしくね」
精神衛生上の問題はひとつ片付いた。次は先送りにしていた問題に取り組む必要があるだろう。馬から下りて、ザイアユーネが下馬するのを手助けする。
もちろん、空を飛べる彼女に対して必要の無い行為ではある。しかしザイアユーネはご満悦の様子でリーエンの手を取ると、ふわりと地面に降り立つ。
「ありがとうございます、リーエン」
はちみつ色の髪を揺らして、ザイアユーネがにこりと笑う。今日の彼女は涼やかな若草色のワンピースにリボンで飾られたストローハットを身に付けている。優雅な仕草も似合っていて、どこぞの貴族のお嬢様のようだった。
「さて、この先はデアホルン辺境伯領……国境の要、ダクエル要塞を預かるバルシド・デアホルン辺境伯の領地だ。〝人族の領域〟の西端だけあって、それなりに警戒も厳しい。休憩がてら、どうやってダクエル山脈を越えるかも相談しておこう」
リーエンの言葉に〝魔人〟が目を細め、〝天騎士〟が首をかしげる。
「嵐に乗じて通り抜ければいいのではありませんか?」
「そんなの僕がリーエンを抱えて飛べば、ひとっ飛びですよ」
当然のように力業での突破を提案した両者が視線で火花を散らす。
「はい、喧嘩しない。確かに〝人外の領域〟へ抜けるだけならどっちでもいいよ。けど、せっかく〝天騎士〟ソアルが仲間に加わったんだ。この三人以外はまだそれを知らないのを活かして、もうちょっと上手く立ち回る方法がある」
「流石ですね、リーエン。ぜひ聴かせてください」
「僕は何でもやるよ。遠慮なく命令して」
仮にダクエル要塞を更地にしろとリーエンが命令すれば、この二人は躊躇なく実行しかねない。向けられる感情と背負わされる責任の大きさに目眩がしそうになるが、言うことを聞いてくれないより遥かにマシだと自分に言い聞かせる。
深呼吸して心を落ち着けてから、ダクエル要塞の抜け方と各々が果たす役割について説明していく。一種の賭けだが、リスクに見合うメリットが見こめる策だ。
リーエンの説明を静かに黙って聞いていた二人が、大きくうなずく。
「必要性はともかく、リーエンがそう判断したのなら異存はありません」
「ザイアユーネだっけ。あんた、リーエンの言うことが素直に聞けないわけ?」
「けしかけられて噛みつくだけが能の犬ころ風情では、わたしとリーエンの揺らがぬ信頼関係を理解できないのも仕方ありませんね。怒ったりはしませんよ、ええ」
「こいつ、言わせておけば……」
相性の問題なのか、それほど長く過ごしたわけでもないのに反目しあう二人。本気で揉めれば周囲一帯が焦土になりかねないだけに頭が痛い。
「ソアル、噛みつかない。ザイアユーネも煽らないで」
まだ話は終わっていないのだ。これ以上うやむやにしておけない問題がある。
「ザイアユーネ。差し迫った脅威がないこの機会に確認しておきたい。君の目的のことだ。君は〝魔人の勇者〟として、あまねく〝人〟を救う、と言っていたよね」
「はい」
「君の考える〝人〟の定義を聞かせて欲しい」
例えば魔法を使える〝魔人〟のみを人と見做すような選民主義を掲げるのであれば、同意できない。仲間として力を貸す以上、曖昧な推測で命を預けるわけにはいかなかった。事は人族の滅亡に直結する以上、目的の定義は必須だ。
「〝他種族と繁殖し、その形質を受け継ぐことを可能とする種族〟」
視線を真っ直ぐに受け止め、きらきらと瞳を輝かせてザイアユーネが答える。
「それがわたしの考える〝人〟の定義。純血の人族などという虚構と欺瞞を剥ぎ取り、人の可能性を十全に発揮できる世界にすることこそ〝魔人の勇者〟となったわたしの大願です。リーエン、貴方には〝勇者の斥候〟としてそこに至るまでの筋道を付けていただきたいのです。わたしと貴方なら、ええ、きっとできます」
やはり。半ば予期していたが、その目的の遠大さに頭が痛くなる。
「では、諸族との混血による魔人化を推進すると……?」
一口に魔人と言っても文脈によって指し示すものは異なる。単に〝人外の領域〟に住む人族を指す場合もあれば、人族以外の諸族との間に生まれた者を指したり、人族の水準から考えれば桁外れに強い魔法を使う者に対して畏怖をこめて〝魔人〟と呼ぶ場合もある。身近なところではザイアユーネがそれに当たる。
また〝天騎士〟ソアル・エンペリオのように後天的に魔法を使えるようになった者も広義では魔人と呼ばれる。魔人狩りを至上命題とする〝教会〟の聖騎士団がソアルを見逃していたのは、人族の守護者として絶大な力を振るったソアルが替えの効かない存在だったからに過ぎない。人族を裏切り、リーエンについたことが判明すれば、遠慮なく〝教会〟からの刺客が差し向けられることだろう。
単純な戦闘力ではザイアユーネやソアルに及ぶべくもないが、〝教会〟の実行部隊たる聖騎士団は決して侮れない存在だ。魔人狩りに特化した彼らの組織力を過小評価したために敵地であえなく命を落とした魔人は数知れない。
ザイアユーネは、そうした人族と魔人の垣根を取り払うと言っている。人族至上主義を掲げる現〝王国〟および〝教会〟を真正面から否定する形だ。
しかし、予想に反してザイアユーネは穏やかに首を振った。
「いえ、繁殖は個人の自由意志に任せます。また魔人至上主義を掲げるつもりもありません。人外の血が濃くなればなるほど異種族間での繁殖力は落ちるのでしょう? 新たな血を受け入れる可能性の担保としての純粋な人族は重要な存在です」
「なるほど。人族を丸ごと魔人に置き換えるつもりはないわけだ。けど、具体的にどうするつもり? ザイアユーネが王位を簒奪でもする?」
リーエンにできるのは目前にある問題の解決であって、遠大な理想を実現へと導くための構想を描くことではない。それは王族や政治家の仕事だ。
「ええ、必要とあらばそうしましょう。ですが、きっとそうはならないと踏んでいます。わたしが思うに、病的なまでに潔癖な人族至上主義を掲げる〝教会〟とやらが人族の飛躍を妨げる悪性の病巣なのではありませんか?」
「……まあ、否定はしないかな」
人族が諸王連合と敵対した理由も詰まるところそれだ。妥協も交渉もできない相手とはとことんまで殺し合うしかない。人族の逼迫した現状はそこに起因する。
「あの、尋ねてもいいですか、リーエン」
黙って聞いていたソアルが、なぜか赤面しながら口を挟んでくる。
「人族以外は、その……こ、子供を作れないんですか、異種族と」
「原則としてそうだね。基本的に異種族間で子供は生まれない。オークとゴブリンみたいな特定の近縁種の組み合わせなら不可能ではないけど、子供ができる確率は低いし、生まれた子供は繁殖力を失ってしまうから先がないんだ」
人族だけが、他種族に子を孕ませ、他種族の子を孕む。
魔人もまた似たような性質を持つが、一般に人族以外の血が濃くなればなるほど繁殖力は落ちるとされる。緩やかに人族の血が濃くなる側へ淘汰圧がかかり続けているとも言える。
諸族には、人族のそうした性質を卑しさの表れと蔑視する者も少なくない。
「へえ……そうなんだ。でも、それって重要なんですか?」
「リーエン、彼の認識は一般的なものなのですか?」
眉を寄せるソアルを余所に、ザイアユーネが的確な質問を投げてくる。
「そうだね。普通に〝人族の領域〟に住んでいれば諸族と接触する機会は少ないから必要の無い知識だし、何より人々の教育を担う〝教会〟が教えたがらない。人族が他種族と繁殖できること、他種族同士では上手くいかないこと。これらは限られた知識層や〝王国〟と〝教会〟の上層部しか知らないんじゃないかな」
「はあ……せっかく有用な武器があるのに、片手を縛って戦っているようなものですね。辺境に逼塞しているのもむべなるかな、です。そうは思いませんか」
「おい。僕がリーエンと話してるのに、難しい言葉で邪魔するなよな!」
噛みつきそうな勢いのソアルに、ザイアユーネがあからさまに舌打ちした。
「学のない犬ころは、黙ってリーエンの護衛をしていればよいのでは?」
「あんたに言われなくてもやってるだろ!」
「やって当然のことに感謝と報酬を期待するから犬と呼ばれるのです」
恨みがましい声を上げるソアルに、ザイアユーネが冷淡に応える。
ソアルが〝王国〟で都合よく使われていなかったか心配になるやり取りだった。自身が明確な方向性を持たない力ほど予想が付かず、状況を狂わせるものはない。
「分かった。このままじゃ人族に先がないって認識にも同意する。人族が存続するための道筋を探すって目的なら、この先も斥候としてザイアユーネに協力できる」
「はい。頼りにしていますよ、リーエン」
人族の在り方そのものを変えようと企む〝魔人〟が屈託なく笑う。
「まずは、人族の裏切り者なんて不名誉な称号を返上しなきゃね……」
「リーエン、なんか悪い顔してる……」
ため息を吐くようにソアルが言う。
パーティの未来に心を砕いているというのに、なんて心外な。




