魔法と願い
リーエンが逃げるようにレドを発って丸一日。
反逆者の汚名を着せられ〝魔人〟ザイアユーネと共にダクエル山脈を越え〝人外の領域〟を目指す我が身を省みて、なぜか笑えてきてしまった。
「楽しそうですね、リーエン。わたしと共にあることがそんなに嬉しいですか?」
冗談なのか本気なのかよく分からない言葉を投げてくるザイアユーネ。触れただけで汚れてしまいそうな純白のドレスをまとった彼女だが、今はためらいなく切り株に腰を下ろし、食事の準備をするリーエンを眺めてにやついている。
彼女は一日に何度も装いを変えている。乗馬に適した軽快な服装であったり、深森には似つかわしくないドレスであったり様々だ。同じような服に見えても、前に見た時とはデザインが違っていたり、装飾品や髪のくくり方で印象を変えたりもする。
着替えるのは一瞬だ。ふと目を離した隙、瞬きひとつの間に装いを変えているのが常だった。はちみつ色の金髪と翠玉色の瞳は変わらないが、変えてみてくれと頼んだら容易く変えてくれるのではないだろうかと思わせる雰囲気があった。
変幻自在で捉えどころがないかと思いきや、強烈な自信と嗜虐心を滲ませた態度と表情が彼女自身であることを常に主張し続けている。覇気やカリスマとはこういうものを指すのだろう。美しい横顔は正直、見ていて飽きない。
「気になってたんだけど、その服ってどこから出してるの」
「どこからも何も、自分の姿くらい自分で決めるのが当然でしょう?」
本気で言っているのか、という呆れが顔に出たのだろう。
「冗談です。察しの通り、魔法で着替えています。人族が好き好んで惨めで無様で不格好な装いをしているわけではないことくらい、ええ、知っていますとも」
無邪気な様子で楽しげに笑うザイアユーネ。
裏を返せば、そう思っていた過去があるということではないのか。
「旅の汚れとは無縁ってわけだ。うらやましいね」
「リーエン、貴方も魔法が使えるのでしょう。手解きして差し上げても構いませんよ。わたしが言い出したことですから、もちろん貸しなどとは言いません」
真っ直ぐにこちらを見据える視線。からかっているわけではないらしい。
「教えてもらったところで無理だよ。レドで魔法を使うところを見ただろ。無いところから物を取り出すような現実離れした魔法は使えやしないさ」
「貴方の言う〝現実〟とはなんですか?」
優雅に足を組むザイアユーネの姿が、焚き火の向こうで揺らめく。
「そりゃ……魔法を使えない大多数にとっての……」
「わたしも貴方も魔法が使える。今、この場においては魔法の存在こそが現実です。わたしの言っていることに間違いがありますか?」
「竜と人を並べて、どっちも生きてるって言うようなものだ。力の差は歴然だろ」
おもしろい喩えだとでも言いたげに笑みを深めるザイアユーネ。
「いい機会です。そもそも貴方は魔法をどう認識しているのですか?」
「個人の認識を世界に押しつけるもの。その力の強さが、すなわち魔力と呼ばれる。一般的な認識とそれほどズレてはいないと思うけど」
「浅い理解ですね。人族が魔法を不得手とするのもうなずける話です」
ため息を吐くザイアユーネ。何かまずいことを言っただろうか。いや、人族から切り捨てられた今、人族の不利になる情報を漏らしたところで何が悪いのか。
「自身が肉体という牢獄の内にあることも知らずに生まれ、手の届く範囲だけが世界だと思いこんで生き、そして死ぬ。人族とは、哀れな生き物ですね」
「魔法が使えたって、叶わない望みの方が多いだろ。ちょっと手が長いか短いか、それだけだ。ザイアユーネくらいの魔法の使い手なら違うのかも知れないけど」
悔し紛れに口を突いて出た言葉だった。
しかしそれを聞いたザイアユーネは笑みを深める。
「ええ、その通りですね。わたしの願いに、わたしの魔法は〝まだ〟届かない。貴方の力を求めたのもそのためです。やはり貴方の感性は好ましい、リーエン」
「分からないな。大して魔法も使えない人族に、君が何を求めているのか」
今度はリーエンがため息を吐くと、ザイアユーネが少しむっとする。
「過ぎた卑下は感心しません。わたしが求めたのは貴方の思考、そして行動。リーエンという人族の在り方に価値を認めたからこそ、わたしはここにいるのですよ」
胸が詰まるような気分になり、もっと大きなため息を吐きたくなった。
どこまでもついて回る〝勇者の斥候〟の呼び名に、いい加減うんざりする。リーエンがやった仕事のどれを取っても、より上手くこなせる人間がどこかにいたはずだ。勇者やその仲間が優秀だったから、たまたまボロを出さずに済んだだけだ。
「まあ、飯と寝床くらいは用意できる。魔人だって腹は減るだろ」
話を逸らしたのを見透かされたか、ザイアユーネがすっと目を細める。あえて無視して、できあがった今晩の食事を手渡した。
バゲットにソーセージと野菜を挟み、とろけたチーズをかけた簡単なサンドだ。ペリエスが気を利かせて、金と一緒に食材も持たせてくれて助かった。追っ手がかかっていては途中の村に立ち寄る暇が無いだろうし、レドよりダクエル山脈寄りの村々はスライム熱に汚染されている可能性が高く、食材の補給も期待できない。
それより追っ手のことを考えると頭が痛い。王都の防衛を担う〝天騎士〟が派遣されたのは予想外だったが、それだけ〝魔人〟ザイアユーネが危険視されているのだろう。無事に逃げ切れるかどうかは見通しが立たない。
だが、よく考えてみれば〝天騎士〟の派遣も納得がいく。
彼女は交易都市レドを滅ぼすだけの力を持っているし、実際に滅ぼしかけた。交易の要であるレドが機能停止すれば〝人族の領域〟の物資は滞り、食料が入らなくなった王都は自然に干上がるから、広い意味では王都の安全が脅かされたとも言える。人族最強の〝天騎士〟が事態の収拾に乗り出したとしても不思議ではない。
馬よりも早く空を駆け、万軍を単騎で相手取るという〝天騎士〟のことをリーエンは伝聞でしか知らない。彼が名を上げたのは〝勇者の一行〟が〝人外の領域〟での活動を始めた後だからだ。ダクエル山脈越えを果たしたゴブリンの軍勢を退けたリアルシ殲滅戦と王都を急襲した古竜と一騎打ちを演じた〝赤竜舞踏〟が特に名高い。
「ザイアユーネは〝天騎士〟と戦って勝てる自信があるのか」
ソーセージサンドにかぶりついていたザイアユーネは、もくもくと口を動かし、ごくりと飲みこんでから事もなげにリーエンの問いに答える。
「当然です」
こっちが居たたまれなくなるような自信に溢れた笑顔だった。
「こちらにはリーエンがいるのですから、どんな相手であれ、わたしが倒します」
わざと手を抜いて、彼女が〝天騎士〟に負けるよう仕組んだりしないか疑わないのだろうか。なぜ魔人である彼女が、会って間もないただの人族のリーエンにそこまで信頼を置くのか。彼女と話していると、時々眩しさに目を背けたくなる。
「物語の中では、反目していた相手と時間をかけて徐々に信頼を築いていき、最後にはお互いに背中を預けられるようになる展開が王道です」
ザイアユーネは確信に満ちた口調で続ける。
「ですが、わたしは思うのです。最後には信頼し合わねば達せられない目的があるのならば。最初から全幅の信頼を置いてしまった方が成功の確率は高いのではと」
いきなり〝魔人〟に全幅の信頼を寄せられるしがない人族の身になって、どれほどの不信感を抱くか、ぜひ知ってもらいたいところだった。
「君の言う目的を教えてもらえないことには、信頼するのは難しいな」
たとえ裏切られたとしても、自分は人族のリーエンだ。
命を賭ける義理はなくとも、利敵行為に走るほど恨みがあるわけでもない。
ザイアユーネの目的次第では、彼女を敵と見做さざるを得ないだろう。
「貴方は前にも同じことを尋ねましたね、リーエン。ですから、わたしも同じ答えを返すとしましょう。人族を捨ててわたしのものになる覚悟ができたのなら、わたしの大願を包み隠さず教えて差し上げます、と。いかがですか?」
「……悪いけど、まだ君のものにはなれないな」
「はい。ですから、わたしを信じてくれとは言いません。ただ、わたしが貴方を信じるだけです。まさか、信じるなとは言わないでしょう?」
言いたいところだったが、言えば彼女は機嫌を損ねるだろう。
だから、黙って首を振ることで返答に代える。
「食ったらもう寝よう。できるだけ早くダクエル山脈を越えたい」
リーエンの言葉が終わる前に、ザイアユーネが立ち上がって虚空を見つめる。まるで自分たちの姿を覆い隠す梢を抜けて、空を見据えるような。
空。まさかと思いつつリーエンも素早く立ち上がり、焚き火を蹴散らす。今夜はちょうど新月で、雲も出ていて星明かりすらない。いくら〝天騎士〟と言えども夜の飛行はしないと踏んで、森で遮蔽を取った上で焚き火をしていたのだ。
ザイアユーネの装いは、いつの間にかウェディングドレスのような純白から、鮮血で染め抜いたような紅のドレスに変わっていた。ふわりと広がる優雅な衣装から、身体のラインに沿うすらっとしたそれへ。生死をかけて戦う者だけが持つ、研ぎ澄まされた殺気が放散され、次第に高まる魔力が大気へ満ちていく。
どこかで聞いた覚えのある、不気味な音。
鋭く研ぎ澄まされた翼が空を裂く、風切り音だった。