リアルシ殲滅戦
眼下に見ゆるは地を埋め尽くす軍勢。
人族のそれではない。
数百の戦象、数千の騎狼、それらを率いる数万のゴブリンで構成される軍だ。
少しでも軍事の分かる者なら、あり得ないとうめくだろう。
なぜなら、ここリアルシ平原は〝人族の領域〟の中心であり。
人族を守る最後の砦たるダクエル要塞は今なお健在だからだ。
彼らはいかにして〝人族の領域〟への侵入を成し遂げたのか。
現実を直視すれば、導き出せる回答はただひとつ。
ゴブリンたちは戦象と騎狼を連れ、豪雪に埋もれた道なき道を踏破し、あらゆる命を凍てつかせ冥界へと連れ去る冬のダクエル山脈越えを成し遂げたのだ。
そんなことが可能だと、この世界に生きる誰が考えただろうか。
だが、少なくとも一人はそれが可能だと考えたのだ。
偉大なる天才。ゴブリンの王、ガブニエル。
威風堂々、戦象に跨がる彼こそが。
前代未聞の侵攻計画を立案し、見事に成功へと導いた英雄であった。
後世において〝ガブニエルのダクエル越え〟として戦史に残る偉業を成し遂げた彼の視線は、眼前に展開する敵軍に据えられていた。人族の歩兵が一万と騎馬が一千。数で後れを取り、質も劣るその軍勢が人族の置かれた現況を端的に示していた。
人族の将兵は一様に悲壮な表情を浮かべている。
当初、人族の将は交易都市レドに籠城して野戦を避ける戦略を採っていた。ゴブリンは攻城を苦手とするからだ。しかし周辺の街や村が徹底的な略奪を受けたことで軍資金を出している貴族の突き上げを受け、野戦を挑まざるを得ない状況に追いこまれたのだ。お世辞にも士気は高いと言えず、誰もが手酷い負けを予感していた。
そんな戦場を、高台から俯瞰する者がいた。
巨躯の軍馬に跨がる少年だ。馬体は鋼鉄で覆われている。
並の軍馬より一回りは大きい乗馬とは対照的に、少年は軽装だった。
金髪に碧眼、整った容貌。旅に適した丈夫な服は、戦場には似つかわしくない。
だが戦場においてそのような事情が考慮されるはずもない。
戦場を一望できる高台はどちらの勢力にとっても無視できない要所だ。
そこに佇む人族を、ゴブリンの斥候部隊が見逃すはずもなかった。
警告もなく、クロスボウの矢が少年の背を目掛けて射かけられた。
同時にゴブリンの兵が茂みから無言で飛び出す。
しかし矢は鉄色の軍馬に跨がる少年には届かなかった。
鏃が少年の身体をえぐる直前、馬鎧が変形して防いだからだ。
否、変形したのは馬鎧だけではない。馬そのものが一瞬にして液状と化す。
馬の形状を成していたのは液状の金属塊だった。どろりと重い質感を伴ったそれが少年を包みこんで高台から飛んだ。振るわれる刃も、放たれる矢も、空中にある少年にはもう届かない。だが常人であれば助かりようもない絶壁だ。
地面が迫る。いくら鉄に覆われていようと激突すれば助からない。
しかし激突して少年の頭が砕かれる未来は訪れなかった。金属塊は意思を持つかのように急速に形を変えていく。横に大きく張り出し、人間大の厚みを持った二等辺三角形。先端と左右の等辺は触れれば切れそうな程に薄く、鋭く、優秀な鍛冶が手ずから鍛えたかのように滑らかなカーブを描いて全体へと繋がっていく。
学識のある者なら、ある種の投擲武器――ブーメランと呼ばれる――を巨人用に作り変えた代物とでも推測しただろうか。少年を包みこむ〝それ〟は、この世界においてあまりにも異質な存在であり、そのものを指す言葉は存在しない。
投擲武器などではないことはすぐに明らかとなる。巨大な三角形は回転することなく、突如として巻き起こった強風により浮き上がり、そして飛翔した。
ゴブリンの斥候が呆然と見上げる前で、三角形はさらに形状を変えていく。少年が収まっていると思しき中央の膨らみから、斜め下方に向けて槍状の物体が突き出る。木の葉が舞うような軽快さで巨体を翻した〝それ〟が真っ直ぐ突き出す双槍。
それがゴブリンの斥候部隊が見た、最後の光景となった。
雷光が迸り、轟音と共に小柄な悪鬼どもを打ち据える。
空気が灼ける、鼻を突くような臭いが辺りに満ちた。
痙攣する身体がくずおれると同時に、人間とゴブリンの両軍勢が雷鳴に気を取られて空を振り仰ぐ。虫や鳥はもちろん、飛竜とも異なる存在を彼らは目にした。太陽光に煌めく、磨き抜かれた鋼鉄の翼を持つ〝それ〟は優美な弧を描いて旋回する。
雷を放ったと思われる〝それ〟への対抗策を持つ者は、この場に存在しない。否、世界中を探したとしても、鋼鉄をその身に纏って飛竜よりも速く空を駆ける存在を捉え、地面へと引きずり落とせる存在などいたかどうか。
どう戦えばいいのか、それ以前に敵なのかどうかも判断が付かず、戦場に一瞬の混乱が生まれる。人族より知能と体力で劣るとされるゴブリンの大軍勢を率い、誰もが不可能と断じたダクエル越えを成し遂げたゴブリンの王、ガブニエルとて同じだった。戦象の上で目を剥く彼は〝それ〟が何かを射出するのを見た。
――まずい。
幾度となく命を拾ってきた己の直感を信じた彼は、戦象に鞭をくれて総攻撃を叫ぼうとした。一度動き出してしまえば、少なくとも眼前に展開している人族の主力は仕留められる。それだけは果たさなくては、当初の目的すら――
一瞬、思考が途切れる。
胸を強打された、とガブニエルは思った。
気付けば戦象の鞍から吹き飛ばされ、空中に投げ出されていた。
血飛沫が弧を描く。胸に空いた大穴から血が迸っていた。
背中から突き抜け、今まさに彼を絶命させようとしているものを視界に捉える。
それは大きさにして子供の腕ほどもある、鋭く尖った金属の円錐だった。
胸から抜けて飛び出したそれが、くるりと向きを変えて消えた。
死の刹那、ガブニエルが認識できたのはそこまでだった。
ずしゃりと湿った音がして、地に叩き付けられた彼を戦象が踏みつける。
骨と肉が砕け、偉大なるゴブリンの王が絶命する。
同時に軍勢は大混乱に陥っていた。
戦象の暴走だ。
ガブニエルを仕留めたのと同じ円錐が、無数に戦場を飛び回っていた。数百にも及ぶ戦象の尻や背など、致命傷にはならない箇所に円錐が突き刺さる。痛みによる混乱と憤怒で乗り手の制御を離れた戦象が、味方であるゴブリンを踏みつけ、蹴散らしていく。もはや総攻撃どころではなく、戦列が崩壊を始めていた。
潰乱する軍勢から、秩序を保って離れる一団もあった。
ゴブリンの駆る騎狼の軍勢だ。もはや勝ちの目はないと断じた彼らは、せめて一矢を報いるべく人族の軍勢へと突撃をかけた。騎狼は馬よりも小さく小回りが利き、人族よりも小柄なゴブリンが騎乗するのに適した動物種だ。
先頭を駆けるゴブリンの将が敵の遊弋する空を睨む。
彼とて王を討ち取った怨敵を殺せるものなら殺してやりたい。
だが敵は刀剣では決して届かない高みにあり、騎狼より弓矢より速く奔る。
苛立ちと憤怒をこめた雄叫びを上げる。彼に続く配下もそれに応えた。
人族の騎馬隊に動揺が走る。捕食者たる狼に馬が怯えているのだ。
騎狼の利点はここにある。騎馬に対して優位を得やすいのだ。
前方に黒影が差す。直後、鉄の雨が騎狼部隊を襲った。
空の敵だ。戦象を狂乱させた小型の槍が降り注ぐ。
その程度で止められるものか、と将は嗤う。
鈍重な戦象と違い、俊敏な騎狼と優秀な乗り手であれば降り注ぐ槍の回避も決して不可能ではない。数騎が貫かれて落伍したが、全体の勢いは止まらない。
もとより生きて戦場から逃れても未来はない。冬のダクエル山脈は雪と氷に閉ざされ、退路は完全に断たれている。機能を維持するための費用と労力では騎馬を上回る騎狼部隊が生き延びるためには、勝利し、奪うしかないのだ。
愛狼を棄ててまで生き延びたいと望む狼乗りなど世界中を巡っても存在しない。
ここが死に場所だ。言葉にせずとも、全ての部下がそれを理解している。
届く。力の限り暴れて、惰弱な人族に騎狼部隊の勇猛さを示す。
何人たりとも、我らの道行きを阻ませはしない。
空の敵。お前であろうとも。
槍をばら撒きながら追い抜いていった空の敵が、くるりと裏返って人族の軍勢へ向け急降下するのが見えた。あるいは無差別に攻撃を仕掛けるのかと期待したが、そうではなかった。地表すれすれ、人族の軍勢を庇うかのように空の敵が立ち塞がる。正面から見ると、薄く細めた目のようにも見える形状だ。
あれは一体、何なのか。
羽ばたきもせずに飛び、空を駆ける。
一部の虫や鳥、獣や竜が滑空するのとも異なる。
おそらく何らかの魔法の産物なのだろう、と推測は出来る。
いや、関係ない。
瞬きひとつで思考を打ち切る。
地上に降りてきたなら好都合。打ち破るまでだ。
騎狼の躍動と一体になる。全てがここにある。己が身を委ねる。
戦場にしかない、この感覚を得るために戦うのだ。
なればこそ、死を恐れはしない。
振り下ろした斧は、一瞬で眼前に迫った敵を確かに捉えた。激しく火花が散り、気付けば斧もろとも横薙ぎに両断されていた。空の敵は自身を巨大な刃と成して真正面から突撃。騎狼部隊を撫で切りにしていく。これでは回避のしようもない。
右腕と下半身を失っていた。じきに死ぬだろう。
無念ではある。だが悔いはなかった。
人族に味方し、諸王連合に敵対する新たな敵。
正体不明の〝それ〟と一合だけでも打ち合えたのだ。
彼の騎狼部隊を苦もなく鏖殺した敵が、空を駆け上がっていく。
緩やかに回転し、再び容赦のない雷撃と鉄槍を戦場に降り注ぐその姿は。
恐ろしくも、美しかった。
リアルシ殲滅戦。後世における、この戦いの呼び名である。
これこそ後に〝天騎士〟と呼ばれる少年、ソアル・エンペリオの初陣であった。