やさしい多重人格
今日は、やさしい人になろうと思う。
ふと、そう思ったのだ。
昨日はどんな事を考えていただろうか。そんな事も思い出せない。
いくら考えても分からないのだ。
この訳の分からぬ感情の正体は一体何なのだろうか。
……そうだ。
S氏に聞こう。
彼はよく私の悩みを聞いてくれるよき友人だ。
彼なら何か分かるかもしれない。
「S氏、私はあの感情の正体が知りたくて、知りたくて堪らないのだよ。おかげで、夜も眠れないのだ」
そう質問すると、彼は困ったと言わんばかりに黙り込んでしまった。
――――と、しばらくして彼が顔を上げたかと思うとゆっくりと息を吐くようにして口を開いた。
「それは……私が思うに、人が心の中で何人もの人を飼い慣らしているせいで生まれる感情なのだと思う」
人を、飼い慣らす……?
彼が何を言っているのか、私にはさっぱり分からない。
「飼い慣らすとは一体どういう事なんだい?」
「いいかいM君? ゛人゛というのは、その場その場で自分の中で最も相応しい人格を選びながら、状況に合わせて呼び出しているんだ」
「はぁ……」
「我々は゛感情゛という名の人格を、何人も心の中で飼い慣らしているんだ」
ダメだ、まだ何を言っているのかよく分からない。
「もっと簡単な言葉で説明してくれないか?私には君が何を言っているのかさっぱり分からないよ」
「それは、困ったなぁ………… そうだ!」
どうやら妙案を思いついたようだ。
「例えばなんだが、君は今、やさしい人になりたいとする」
まさにその通りだ。
「ほうほう……それで?」
「しかし、今この瞬間、目の前でとても許せない事が起きたとする。すると怒りが込み上げてくるんだ。だが、その感情を君が消化することが出来ない。さあ君はどうする?」
私には出来ないことをどうするかだって? それはーー
「他の人に任せるしかないでしょうな」
「そうだM氏。人に任せるしかないのだよ。そこで君の中に生まれるのが、゛怒る゛事の出来る人格だ」
ふむふむ、何となく分かってきたぞ。
「君は、その彼に怒りを受け渡し、消化してもらうという寸法さ」
更にS氏は言葉を続ける。
「心というのは、感情という名の同居人たちが、互いに協力しあいながら成り立たせている物なのだよ」
ほうほう、そういう事か。
「……つまりは、私がやさしい人になりたい、と思うことも私の中の誰かの考えの一つであって、決しておかしい事では無い。そう言いたいんだね?」
「おぉ、そうだ。分かってくれた様だな。しかし、稀に飼い慣らしきれずに自身と同じまでに成長してしまう感情も存在する。すると、互いに主張し合い、どちらが本物だったか分からなくなるという事もある」
そうか。
この感情は私の中の一人なのだな。
胸の辺りにつっかえていた何かが、溶けて消えてゆく。
…………そういえば、私は心の中にどれだけの感情を飼っているのだろうか。
また、新たな悩みが生まれてきた。
仕方ない。これもS氏に相談するとしよう。
「S氏、私の中の感情についてなのだがーー」
§
今日も重い体を揺するようにして、目を覚ました。
「……もう朝か。君のような悩める人を飼い慣らすというのは、やはり相当苦労するね」
今日もあまり寝られなかった。