第5話
母は、イジメにあったことで自室に引きこもり始めたスグルの部屋の前で毎日泣いていた。
毎日毎日鬱陶しいと思っていたその泣き声はいつの間にか静かになり、声の主はもう二度と部屋の扉の前に来ることは無かった。いつもうるさかった声がなくなり少し気になった彼は、泣き声の主を探しにリビングへ向かう。何日ぶりだろうか、リビングにはいつも取り込まれた洗濯物の香りが広がっている。この匂い、柔軟剤のいい香りが…
初めはそれが何なのか分からなかった。
部屋の奥に大きな塊が吊るされている様だった。
その塊はポタポタと汁を垂らし紐を括り付けてある細い部位からはまるでしめったゴム人形のような軋んだ音が聴こえてきた。
彼はその時、絶望という言葉の本当の意味を理解し始めたのかもしれない。
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目の前の泣き崩れる少女にいつかの情景を、トラウマを重ねてしまう。
エリーの言葉からして、外に出たのはゲインズで間違いないだろう。なぜこんな夜中に、あの危険な外に出るのだろうか。
「エリー、何があったの?」
泣き崩れている少女に問いかける
「お父さん。もう何年も夜中に街に出て魔族を見つけては殺してまわっているの。こんな危険なことを続けて、いつ母さんみたいにいなくなってもおかしくないのに!私を1人にしないで!!」
もはやそこにいるのは少女では無かった、無口な笑顔の下にいつも不安を抱えながら生きできたのだろう。そしてこの日、彼女が溜め込んだ怒りと、悲しみと、哀しみが他者に初めて吐き出されたのだ。
少女と呼ぶには余りにも背負うものが大きすぎたのだ。
なるほど、夜中は結界によって外の音はほとんど聞こえないのになぜ殺されかけていたスグルをゲインズが救うことができたのかやっと理解できたのだ。
「今連れ戻して来るからね」
泣きじゃくる少女に優しく言って聞かせると
スグルは玄関へ向かい、掛けてあったフード付きのマントで身を覆うと、すぐに扉を開け外に飛び出した。
危険は承知の上だった、これ以上自分の近くで優しい人を悲しませるくらいならば、1度は自ら絶った命だ、惜しくは無かった。
暗い街に雨が降る。またあのバケモノと遭遇するのかと思うと、生物的な反射だろうか、全身の筋肉が痙攣するのを感じる。
10分ほど道の端を走り続けていたその時だった、鉛が弾けるような破裂音が夜の街に響き渡った。
すぐ近くだった。
石畳でできた幅の広い馬車道の向かいに体格の大きな人影が短めの重心の銃を持っていた。アレがロフという武器なのだろう。
ショットガンのような高威力の武器
状況からして間違いないだろう。
ゲインズだった。
恐ろしかった、声をかけなくては連れ戻すことなど不可能なのだが、それ以前にアラクネに間違われて殺されてしまう危険性だってあるのだ、
足がすくむ、一歩が踏み出せない。
悔しかった、肝心なところで声を上げることのできなかった自分が、今ここで怖気付き、悲しむ人の力になれていない自分が。
”もう後悔はしたくない”
頭の中に過ぎったそれはスグルの全身に力を与えた。
「ゲインズ!!」
とても響く声だった。それに気がついた男はスグルの方に振り向くと驚いた顔でこちらを凝視した。
「おじさんとアラクネたちの間に何があったのかは知らないよ!けどさ!それって毎晩娘1人家に残してすること?エリーの気持ちも考えてよ!」
「ボウズ!!知ったようなことを言ってんじゃねぇ!今すぐ家に帰れ!」
そう言うとゲインズは再び歩き出そうとする。
「エリーは泣いてたぞ!こんな危険なことを毎晩繰り返して!あんたは自分の娘から最後の家族まで失わせるつもりかよ!」
男は止まった。
「泣いていたのか。」
「うん。」
「そっか。」
「ボウズ、悪かったな。娘泣かせるなんざ、親父失格だぜ。」
「そんな事ないと思うよ。帰ろ?」
「そっか。ボウズは優しいのな。帰ってエリーに謝るぜ」
そう言うとゲインズはのそのそとこちらに近づいてきた。
近づいて来る男の左手には何かサッカーボールほどの大きさだろうか、四つほどぶら下がっていた。
「ねぇ、ゲインズ、その手に持ってるのって…」
ゾッとした、思わず吐き気をもよおしてしまうほどに。
それは全て男性の生首であった。
「おお!すまねぇすまねぇ、アラクネの首なんて汚ねぇもん持って家に帰れねぇもんな!」
そう言うとゲインズはポイポイと道の端にその首を投げ捨ててしまった。
怪物の首であるのは確かなのだろう。だがやはり外見はほとんど人間そのものであるため、どうしてもそこに気持ちの悪さが残ってしまう。
「おじさんって強いんだね、」
この気持ち悪さを話をして紛らわせたいと思い口にした。
「おうよ!おりゃあ現役時代はこのロフだけで支部長まで上り詰めた強者だからな!」
ゲインズは自慢げに右手に持っていたロフを肩に掛けてニカっと歯を見せて笑ってみせたのだった。
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帰り道だった。隣の退役兵が口を開いた。
「エリーの母親はアラクネに食われて死んだんだ」
「…」
何と応えていいのか分からなかった。否それが正解だったのだろう。
ゲインズは続けた
「エリーの母親は俺の姉貴でなぁ、身寄りの無くなったあいつを俺が引き取ったんだ。」
初めて聞く話、実の親子だと思っていたこともあり内心驚きを隠せなかった。
「エリーはな、最初に出会った時のしかめっ面な俺に笑顔で近づいてきてよ、笑った方がカッコいいなんて言ってきやがるもんだからさ。こっちが恥ずかしくなっちまったもんだ。あいつの方が俺よりもずっと辛かっただろうによぉ、本当にいい娘だぜ。そんな姉貴の形見を悲しませちまったんだ、これ以上泣かせるのは恥ってもんだ!姉貴の仇と思って狩り続けてたんだが、姉貴がやめろってゆーならやめるのが筋ってもんだよな!」
涙腺が壊れそうになるのをグッと堪える。
家に着いたらエリーとゲインズにちゃんと話をさせよう。そしたらきっと今よりも二人は幸せに暮らし…
ひり付くような緊張が肌をかすめた。
ゲインズだ、彼の表情が強張っているのが分かる。冷や汗をひたいに浮かべながら目と鼻の先にある自分の家へと視線を向けていた。
「なぁボウズ。逃げな。この感じだとこの辺りにもう'他の魔族'はいないはずだからよ、走って逃げて朝を待ちな。来る途中にアラクネの一体も居ないのは変だと思ってたんだが、そーゆーことか。」
何を言っているのは分からなかった。だが、何か尋常ならざる脅威が目の前にあるのだと、その事実だけがハッキリと伝わってきたのだった。