第1話
耳元で水が蛇口から流れている音がする。血が無くなっているのか、身体に力が入らない。少し左手が痛む、お湯の中に身体はつかっているようだ、伸びきった前髪でほとんど隠れて見えはしないものの、水面が赤くなっているのは薄れていく意識の中でも充分に認知することができた。
”あぁ、そっか、そーいえば手首切れてるんだった。”
水面が上がって来て口を隠し、徐々に鼻に水が入ってくる。だが苦しくは無い。むしろ血が抜けていく感覚の心地よさとやっとこの生から解放されると思うことで生まれる安堵で頬を緩めて小さく笑ってしまいそうな、そんな気さえしていた。
今こうして死にかけているスグルだが、2年前まで日常生活で苦労することはなかった、なにひとつ不自由のない暮らしをしていたのだが、ある日を境にイジメの対象になり、もう2年も学校に行くことなく16歳を迎えていた。否16歳にして人生の終わりを迎えることになったのだ。
引きこもりになったスグルのことで思い悩み最後には首をくくった母と、その原因であるスグルを毎日のように殴り続けて来た錯乱した父。
崩壊した家庭の中で自分で選んだ選択肢が今である。
”父さん、起きて来たら僕の死体を見てどう思うんだろう。悲しむのかな、それとも壊れてしまうのかな、だとしたらそれはとても悪いことだな、
僕はきっと地獄行きだ。”
親より先に死んだ子供とゆうのは親不孝者として三途の河原の石拾いをするのだと聞いたことがある。ましてや自殺なのだ、極刑は間逃れないだろう。
だとしても今自分の置かれているこの世よりも最悪な地獄などないのだとスグル確信していた。
気づくというよりも、ここまでくると感覚でぼんやりと分かると言った方がいいのだろうか、自分の身体が湯船に完全に浸かりきったのが分かった。まぶたの皮の上から僅かに感じるはずの光もなくなっている。僅かに耳元で水が蛇口から流れている音がする。
命の流れ出る音がする。
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雨の中
スグルは目を薄っすらと開けた。
すぐに先ほどまでの状況とは違うということを認識した。
「ここが、地獄なのか?」
湯船の生ぬるいお湯の中から一転して冷たい雨の中で尻餅をついていることに動揺はしたものの、死後の世界であると思うと、自然と納得した。
薄暗いところからして、夜なのだろうか、周りには一戸建ての家のような大きさの四角い建造物がずらりと並んでいるのが分かった。
四角い建造物は少しだけ光を発しているように見えた。それは、光と言うにはあまりにも微々たるもので、目で見えているとも違い、なんとなく、ぼんやりと光を帯びているような、そんな不思議な感覚だった。
腰を上げ、ゆっくりと周りを見渡すが、人影は無い。周りにある四角い建造物の一つに近づいてみると、扉がついていることに気がついた。
こーゆーところを見ると、本当に家なのだろう。中に人がいるのだろうか、はたまた、地獄の鬼だったりするのだろうか。どちらにしてもスグルはその扉をノックする気にはならなかった。
人と関わりたくないと思って死んだのに、今更人に会おうと思うことの方が難しかったからだ。
とはいえ暇である。しばらく辺りを歩き回って見ることにした。30分ほど歩いただろうか、辺りの景色はたいして変わることがない。無機質な四角い建造物が多くあり、それはまるで生きていた世界の住宅街のような佇まいさえあった。
そんなことを頭に浮かべていると、数メートル前方に人影があることに気がついた。
長い前髪が邪魔で、見にくかったが、道の真ん中で、どうやら男性がうずくまっているように見えた。
すると、その人影はこちらに気づいたのか、バッ!っと効果音が付きそうな速さでこちらに振り返り、スグルの姿を確認するとニタリと笑って
ゆっくりと立ち上がりこちらに近づいて来ようとしているようだ。
その一連の動作を見ているて、スグルは直感的に命の危機を感じた。死んでいるはずなのに、命の危機というのはとても可笑しなはなしではあるのだが、そーとしか表しようのない何かが、スグルの全身を駆け巡っていた。
”逃げなきゃ”
男が前に出てくるのに合わせるようにスグルも後ずさりをする。ゆっくりと迫ってくる男の圧力のようなものに怯えながら後退りする。
小さい頃によくみんなで遊んでいた鬼ごっこを思い出したが、違った。肉食獣に追い詰められた貧弱な小動物のような、そんな感覚。
「こんな夜中に外を出歩いてるのが悪いんだよ〜、しかも食事中の俺に出くわすとか運の無さもなかなかだねぇ、とりあえずデザートにしてやるからおとなしく捕まんな」
男はそう言うと、目をギラつかせてニヤニヤとした口元を指でなぞった。
”食事??何か食べてたの??
デザート!?僕を食べるってこと??”
混乱した頭の中を必死に整理するが間に合わない。
男はこちらに向かって走り出していた。
男の手が伸びる、肩に当たりそうになるところで雨で濡れた地面を足がすべり尻餅を突く、
襲われているという現状だけしか把握できなかった、否、今はそれだけで充分だった。
”逃げなきゃ”
尻餅を突いた状態から滑る手足をバタバタさせ、中腰の姿勢で慌てて男の横を通り過ぎる。
中学の時はバスケをしていたせいか、思っていた以上に身体が動いたことに内心で感心すると同時に、スポーツを真面目にしていた時期の自分に感謝した。
バチャバチャと濡れた地面を蹴って男の後ろへ走って逃げる。
「おい!逃げんじゃねーよ!今捕まえて楽にしてやっからよ!まだ腹減ってんだ早く食わせろや!」
男は乱暴な口調が後ろから聞こえてきたが、気にしてはいけない、今は逃げないと。。
「っツ!!」
走っている最中に何かにつまずいて転んでしまった。足を少し擦りむいて血が滲み出てきていた。雨がしみるが興奮状態の今痛みはぬほとんど感じない、男は近づいてきているもののまだ距離があるのを確認する。
その時、妙にすえた臭いがすることに気がついた。
足元からだ、見ると、雨で半分ほど流されてはいるものの、靴にベットリと肌色と黄色のマーブル色に赤い筋のようなものが混ざった粘液のような粘ついた物体が付着しているのに気がついた。
臭いはその物体からだった。
最初、それが何なのか分からなかったが、どこか見覚えのある白い玉が一つその物体に浮かんでいるのを見て気がついた、
”あぁ、コレ人なんだ”
酷く落ち着いていた、否、現状だけを把握していた。本来人の顔にあるはずの目玉が、肌色のドロドロの物体の中に浮かんでいるのだ、人が溶けたとしか思えない。
”人を溶かして食べる鬼?”
考えるだけで嫌悪感しか湧かない。そして、その化け物が目の前に迫る今、自分という存在の終わりを確信した。
腰が抜けてしまって立ち上がることはできない、
今思うと、一度は自ら命を絶ったはずなのに、つい2分ほど前は生きようと必死になっていた自分がおかしくて仕方がなかった。
”あぁ、なんか、、、”
「や〜っと捕まる気になったかよデザートちゃん」
男が追いついてゆっくりとそのボサボサの頭をスグルの頭の上に寄せて、クンクンとニオイを嗅いできた。
ゾクっと寒気を感じた。いつどの瞬間に殺されるのか分かるようで分からないこの感覚は例えようのない不快感と恐怖を与えてくる。
”なんか...”
「んじゃいただきます」
男が口を開いて中から管のようなものが見えてくる。その瞬間
「んなぁぁああああ!!!!ににたくないぁああああああああ!!!!!!!」
なんとも情けないような、だだをこねる低学年の子供のような叫びを放つと、男はこれまで静かだったものがイキナリ出す大音量に少し驚きビクっと一瞬動きが止まったかと思うと、
「んだよ〜驚かすなよ〜」
と怪訝な表情で言いつつスグルの口をガッチリと手で覆ってしまった。
「んぉごぉおおおお!!!!」
手で塞がれて声にならない音が辺りに小さく漏れてくる。再び男の口が開き、中から細い管がのぞいている。もうここまでかと思い、静かになりだしたスグルの頬が管の先端から垂れた液体に溶かされてジュッと音がなる。痛い、痛くて熱い
「んんんんん!!!!!!」
悶絶する。頭の中が真っ白になり手足をバタつかせて抵抗しようとするが、両手ともガッチリと男の片手に握られ、足は身体が硬いせいもあって男にカスリもしない。
”終わった”
スグルは目を閉じた。
ドンッ
……ん?
静かになった。男の動く気配がない。
目を開けて状況を確認したいが、まぶたの筋肉が痙攣して上手く開くことができない。
するとすぐ隣からバチャバチャ足音が聞こえてきた。
「大丈夫かボウズ」
”助かったのか…”
そう思った瞬間に意識は深い闇の中へと落ちていった。