コリンナの魔法の料理教室①
コリンナは、お供を連れて仕事場に入ってくる男の子に目を惹かれていた。自分よりも年下の男の子で、お日様のような輝く金の髪をふわふわ揺らして、すました青い瞳はどこか可愛らしい小獅子のようだった。
女主人様達の昼食が終わり、いつもよりも随分と仕事が少なくなったお昼過ぎ。残暑が残った温かい日差しが調理場に差して、手が荒れるのも構わずに磨き上げた石の床が白く輝いていた。
コリンナはロサニエス城の台所給仕の一人だ。台所給仕は城の給仕の中でも一番下っ端の使用人。城の料理に関する従事者は、家令や料理長、配膳担当者、献酌係、食肉処理人、ソース係、各食料貯蔵庫管理官、その中には食料庫、パン、酒蔵、厨房に各管理官がおり、最下層に数十人の台所給仕達がいた。料理に関してだけでも五十人近い従事者がおり、さらに家事や守衛、庭園管理者、馬丁、城の道具を直す鍛冶屋、そのほかを合わせると城には常に数百人の使用人がいる。
そんなロサニエス城は使用人になるために非常に厳しい関門を突破しなければならない。毎年一度の求人は数多くの平民達の憧れの職業だった。他の職業よりもたっぷりでる給金、しっかりした寝床、昇進すれば個室が与えられる好待遇。読み書きもしっかりした中流階級が占める職業。
だが、コリンナは自分が場違いだと思っていた。彼女は身分こそ市民だが、蓋をあければ生活は貧民層と変わらなかった。彼女の母は昔、ロサニエス城でも台所給仕長として立派に勤め上げていた。結婚し、職を辞めて嫁いだが、彼女の夫は仕事の事故で亡くなっている。寡婦として生活するには花の都市クリューベでも非常に苦労をする。コリンナの母は再婚するには遅すぎる年齢だった。コリンナの家族は母が町の食堂で家族を養っていくのが精一杯で、自分の伝を頼ってコリンナを組合学校へ行かせて、なんとか読み書きを習わせることができた。長女であるコリンナは学校を卒業した途端に使用人として奉公に出た。それに対してコリンナは一切嘆きも疑問も抱いてはいない。母の負担を減らして、妹や弟達のために働くことは当たり前のことだったからだ。彼女はその後何度か奉公先を変えて、一通りのことを覚えるとロサニエス城の門を叩く。
そのことを後悔したのは、ロサニエス城の玄関大広間に入ったときだった。彼女が奉公した先は上流商人や下級貴族のお屋敷ばかりで、小さい頃より眺めていたロサニエス城へ胸を膨らませて入った途端に場違いだと痛感する。そこはあまりのも異世界過ぎた。家具や装飾品ひとつをとってもコリンナ家の家財道具すべてを売り払っても足下にも及ばない金額。もし壊せば、自分が一生お嫁にも行けずにただ働きになってしまうと思った。目がくらむほどピカピカ光る金と銀の装飾品や無数の色で描かれた一級品の絵画。その中を自分が薄汚れた灰色のコートと灰青色のスカートで歩いたとき、彼女自身、これは不合格だと身に染みて分かった。
しかし、これが全く予想を外れる。付き添いの母がまるで魔法の薬で若さを取り戻したように優雅に歩き出し、母を見た家令リヒャルトが彼女と抱擁を交わし挨拶すると、彼はコリンナを自分の娘のように嬉しそうに話しかけたのだ。コリンナはその時初めて、リヒャルトがコリンナの名づけ親で洗礼にも立ち合ったことを知る。
それからコリンナの思惑を外れて、あれよあれよという間に雇用の話がまとまる。家令は使用人の雇用を統括しているのだ。
それからというものコリンナの大変な城勤めが始まる。厳格なリヒャルトは例え知り合いの娘でも、彼女を一番大変な台所給仕にして他の使用人達と同じに扱った。
小さな屋敷の台所を任されていたが彼女にとっては慣習によって細かな用途に分けられた数十の包丁や鍋、他の調理用具を覚えることは大変で、毎日届く大量の食材は気が遠くなる下準備が必要だった。
台所給仕の新人の仕事は日が出る前から始まり、深夜遅くまである。守衛や使用人達の食事から客人やマリアーヌ公爵夫人やエリザベス公爵令嬢が夜遅くに頼む料理を出し、彼らが寝静まった後に片付けを行う。片付けと朝食の準備は彼女の大仕事。
その仕事をコリンナはよく思っていない。毎日毎日手が荒れてカサカサになるまで床や食器を磨き上げ、きっちりと元の場所に戻す。料理を食べることは何よりも好きだが、料理を作ることはもううんざりしていた。食べられない料理を、誰が食べているのかさえ分からずに黙々と汗を流して、時に怒鳴られて作る。その作業全てが決められ、自分はただそれを繰り返す人形のようにさえ思っていた。
そして彼女にとって切実な問題は、食事だ。彼女は同い年の女性達よりも遙かに身長が高くなりつつあった。使用人達の食事は量も内容も決められており、おかわりはできず、日々疲れた身体を癒やす甘い物は年に数回ある祝祭日のご馳走でしか食べられない。
つまり、彼女は何時もお腹を空かせていた。特に体力と根気がいる台所給仕の仕事の上に、彼女がすぐ手を伸ばせば食べられる甘い物への欲求は筆舌に尽くしがたい。
ロサニエス城のデザートは、最高級の食材と高級な白砂糖がたっぷり使われる一品。彼女は料理長が指示する道具を準備しながら漂ってくる甘い匂いにつられていたところに男の子が現れたのを目にとめる。その姿を見て、恋愛といった感情ではなく、昨日のお茶会と今朝の朝食のことを思い出していたのだ。
コリンナは今朝起きた大ニュースを思い返した。そのニュースは台所給仕達に驚愕とはち切れんばかりの歓声によって伝えられた。
その歓声は二種類の喜びをもたらしていた。ひとつは、使用人へのまかない料理の手間が少なくなったこと。もうひとつ、これが最も大きいが、彼女達が夢にまで見た貴族の料理を食べられるからだった。一切れでもコリンナの一家族の1日分の食事代になるような豪勢な料理を食べられる。彼女達は贈られたマリアーヌ公爵夫人達の朝食を堪能し終わり仕事をしていた。
コリンナは期待の目でその男の子―――ゼンを追っていた。ゼンは、大急ぎで調理場から出た料理長と何かを話し、調理場に招かれる。
「お仕事ご苦労様です。あ、私の事は気にしないでくださいね」
微笑みながらゼンが入ってくるのを台所給仕達は驚きの目で見て、慌てて自分たちの衣服の乱れを直した。その様子を苦笑してゼンは石の床をさっと歩き、調理場の奥へと進む。
―――今度は何をするんだろう?
コリンナは胸がわくわくする気持ちを抑えられずにそう思った。彼女にとって調理場を興味深そうに見ている彼は、楽しい悪戯を考える妖精のように見ていた。
ロサニエス城の主調理場は広い。貴族のお屋敷の大広間のような大きさに、石窯が四台、かまどは鈴なりに十二台、調理テーブルは八台、そのほかにも食料庫や焼き終わったパンを置くパン棚に見上げるような巨大な食器棚が五列、数々の香辛料が入った大きな麻袋や大水瓶が調理場の床に所狭しと並び、壁には干された薬草や木の実が入った麻袋が吊られ、生きた魚を入れる水槽まである。主調理場はさらに食肉貯蔵庫や地下の酒蔵、チーズ室などへ繋がる扉や通路があった。
料理長は帽子を脱ぎ、紛れ込んだ妖精に調理場を説明する。その間、彼女達は仕事を中断し姿勢を正して、その様子を眺めていた。コリンナもその例に漏れず眺める。
「今日のお茶会のお菓子はなんですか?」
調理場を一巡するとゼンは料理長にそう尋ねた。料理長はその質問を聞いて、胸を反らせて答える。
「今日は、季節の果物を使ったゼリーになります、閣下」
コリンナは料理長の言葉で手元にあった型を見る。
今日のお菓子はリヒャルドと料理長が相談して決めたゼリーだった。夏の暑さがまだ続く季節で、外で食べるにはさっぱりした物が良いとリヒャルドが自信を持って話していたことをコリンナは思い返していた。
「そうですか・・・。でもそれだとお皿が必要ですよね?」
「はい。今日のお皿は赤い染料を混ぜた硝子製の物を考えていますが・・・」
料理長がチラリと調理テーブルに重ねられた硝子のお皿を見る。料理長の目線を追ってゼンもまたそれを見て、少し考える仕草をしていた。
コリンナはその様子を眺めながら首を傾げた。
硝子細工の美しい紅玉のようなお皿は彼女が最も好きなお皿だ。硝子は昔ほど高価ではなくなったが依然として高級品であり、一皿がコリンナの三ヶ月分の給料になる。その美しい皿とラズベリーやイチジクがたくさん詰まったワインゼリーは、お菓子とお皿が一体化した芸術品だ。コリンナも型にこびりついたゼリーをなめたことがあるが、あの繊細な味は今思い出すだけでも涎が出る。
その素晴らしいお菓子を心ゆくまで食べられるのに何が不満なのか彼女には分からなかった。
ゼンは少し料理長の顔色をうかがいながら話し始める。
「それだと芝生の上で食べるのに割れたら怖いし、食べにくいかもしれませんね。もし良かったらお菓子の変更はできますか?」
ゼンの言葉に料理長は思案顔をする。コリンナは料理長の迷いが手に取るように分かった。自分のプロ意識と家令のリヒャルトの顔を立てるか、客人であるゼンを立てるかに迷っていた。しかし、コリンナは彼が決める答えを知っていた。この城で働く上で何より大事なのはハスクブル公爵家の主達だ。その意図を汲めない者が料理長などになるはずもなかった。
ゼンはマリアーヌ公爵夫人の寵愛を受けている。それは彼女が思いを寄せている男性の息子だからでもあるが、昨日と今朝の出来事があって、城の使用人達はそれだけではないと思っていた。ゼンには人を惹きつける何かを持っていて、彼が何をし始めるのか、使用人達は楽しみにしている。
城の一日は範を決められたように同じ繰り返しだ。何時から何をして、何時に終わるか。四季ですることが変わるが何年も務めている者達にとっては変わらない繰り返し。その繰り返しの中でゼンが行おうとすることは使用人達の日常を変えるような出来事だった。彼女達は繰り返される毎日に紛れ込んだゼンという非日常を楽しんでいた。
コリンナや給仕達が見守る中、料理長は唸るように承諾の声をあげる。
「んっっ。わかりました。変更しましょう」
その言葉にゼンはパッと明るく笑うと感謝の言葉を口にする。
「ありがとうございます。すみません無理言ってしまい」
「いえいえ、構いませんよ。それで何を作りましょうか?」
料理長がそう言うとゼンはチラリと食料貯蔵庫の方を見て答える。
「材料は・・・あると思うので私が作ります」
その言葉で料理長どころか調理場の給仕達も驚いた。
職業料理人は別として、ルーン王国の男は料理を一切しない。それは女性の仕事であり、それをするぐらいなら他の仕事をするほうがいいとされていた。台所給仕が最下級の使用人であるのはそう言った風習からだ。貴族の男子であればなおのこと。もし、貴族の家庭で息子が料理をするといえば、当主である父親は真っ赤になって怒るだろう。そのような事をさせるためにお前を育てているのではないと。
料理長は戸惑いの声をあげる。
「閣下、それはなりません。もしそれが奥様にしれたら・・・私どもはどのような罰を受けるか・・・」
その言葉はその場にいる全員の思いだった。ただ、奥様のマリアーヌ公爵夫人ではなく家令のリヒャルドによって城を揺るがすような叱責になるだろう。時たま揺るがす彼の叱責を思い出して全員が身をすくませる。
―――この人はなんてことをいうのだろう。
コリンナも胸のわくわくが風船のように破裂して、今度は息が詰まるような思いを感じていた。
だが、その言葉にゼンはくすり、と笑った。
「だったらバレないようにしましょう。どうやらリヒャルトさんはお茶会まで大変忙しそうなのでこっそりと作ればバレませんよ。アルガス、料理長と皆さんにあれを」
ゼンはそう言いながらくるりと振り返って付き従っていたアルガスに催促する。アルガスは短く返事をすると持っていた大きな革鞄から大きな瓶三本を取り出して料理長に渡した。料理長はそれを困った顔で受け取りながらゼンに尋ねる。
「閣下、これは何ですか?」
「その二つの瓶はリーンフェルト領でとれた一番いい蜂蜜ですよ。今から作るお菓子に使おうかと。もう一瓶は皆さんに飲んでもらおうと思った蜂蜜酒です。ちょっと人数が多いので後で数本お渡ししますね。秘密の賄賂という奴ですよ」
光に照らされた琥珀色の液体が詰まったのは蜂蜜と蜂蜜酒の瓶だった。蜂蜜は蜂蜜でも色が異なっている。一瓶は淡黄色、もう一つは赤褐色。蜂蜜は蜂がどんな蜜を集めるかによって色が異なる。淡黄色はアカシアのようなさっぱりした蜜で、赤褐色は栗の蜂蜜で風味が強く個性的だが独特の香ばしさと渋みが焼き菓子に珍重されていた。
実はロサニエス城は空前の蜂蜜ブームだった。ゼンがプレゼントした蜂蜜酒をマリアーヌ公爵夫人はいたく気に入り、リーンフェルト産蜂蜜の一種の熱狂的なファンとなって大量に購入している。マリアーヌ公爵夫人の朝食は蜂蜜入り香木茶となり、夕食の食前酒には蜂蜜酒、寝る前のお酒として寒い日には温めた蜂蜜酒、暑い日にはワインに蜂蜜を入れたものを好むようになっている。それにつられて使用人達も自由時間や休みの日には市場の蜂蜜酒や蜂蜜をなめるようになっていた。
ごくりとコリンナの喉が鳴る。コリンナもリーンフェルト産蜂蜜のファンだ。蜂蜜が無くなった瓶は使用人達のご馳走になる。その瓶にエールを注げばどんなに安くて薄いエールも極上の飲み物になり、先輩達の残りとして自分の元に回ってきた一滴でさえ一日の喜びだ。ただ悲しいことにリーンフェルト産の蜂蜜や蜂蜜酒は高級品で下級の使用人がおいそれと買うことはできない。
コリンナは蜂蜜と蜂蜜酒を物欲しそうな顔で見て、料理長ですらその蜂蜜酒に少し破顔した。料理長はそれに気がつき、表情を直しながら顔を強ばらせつつゼンに確認する。
「このようなことを申し上げるのは恐れ多いですが、私もこのロサニエス城の厨房を任せられた職人です。閣下はその・・・料理ができるのでしょうか?」
料理長は自分の消し飛びそうな勇気を燃やしてゼンにそう質問した。貴族の屋敷で働く使用人達にイエスとノー以外の答えはない。彼らの職務、それ以上に生活を握るのは常に貴族達。その貴族に対して疑問を挟むことも、反対することも許されない。しかし、彼もまた自分の職務に誇りを背負っている。素人に料理は任せられないとその言葉から彼の思いが見えた。
その料理長の言葉にゼンの隣にいたアルガスが苦笑し、ゼンは軽く微笑んだ。
「ご心配はいりませんよ。家では王都の食堂の料理もしていた母上から仕込まれましたからね。本職のような味は出せないかもしれませんが、母上の名にかけた料理を作ってみせましょう」
その言葉で料理長は抵抗するのを諦めた。もうどれだけいっても彼は料理をすることを決めていると心の中でため息を吐く。遊びにきたように見えて、ゼンは家令リヒャルトの様子を確認し、その上で蜂蜜と蜂蜜酒を持参してきているのだ。彼は用意周到に準備してきていた。
コリンナは心底、ゼンを不思議に思った。料理をする貴族は見たことがない。彼らは時折厨房に気ままにふらっと来ては自分の食べたい無理難題を伝えて遊びに出て行く。用意していた料理の準備を台無しにして、調理場が大混乱に陥ることだってしょっちゅうだ。その貴族、雲の上にいる人が自分たちの仕事場でウロウロされるのはたまったものではない。どんな顔で、どうやって仕事をすればいいのか彼女には見当も付かなかった。
でも、と彼女は少し期待する。
―――この人はどんな料理をするんだろう?
彼女は初めて調理場に立ったときの事を思い出した。まるで異世界のような高級食材に囲まれて、魔法のように手際よく素晴らしい料理を作る料理長と台所給仕達。彼らはよく互いの悪口を言ったり、喧嘩をすることもあるが、仕事の時だけは長年連れ添った夫婦のように息をピッタリと合わせて、次々と芸術品を作り出す。コリンナはそれを見るのがとても好きだった。
―――いつから私は料理が嫌いになったんだろう?
繰り返される毎日の中で魔法がただの作業となり、彼女の心をときめかせた日のことが遠い過去となっていた。コリンナはそう自分を反芻しながら、モノクロームに色あせた調理場に立つ金髪の男の子を見る。
―――見てみたい。彼が料理をするところを。
そう思ってコリンナがゼンを見たとき、彼はジャケットをアルガスに預けて、シャツの袖をまくる。
「では、調理場をお借りしますね」
ゼンはコリンナやそのほかの人達が茫然と見つめる中、気軽にそう言った。
リヒャルトが家令執務室で手紙や贈り物の選定と格闘している最中に彼の思惑とは違ったデザートが作られようとしていた。
彼の受難は着実に彼を飲み込もうとしている。
付録編を忘れていませんよ!
ネタはずっと考えていますw
ちなみに本編では伏せていましたがリーンフェルトの蜂蜜価格が急騰しています。ゼンがマリアーヌ公爵夫人や毛織物貿易で交流のある人達に配りまくっているからですねw彼は日本の知事よろしく名産品のピーアールを忘れていません。そして種類を増やすために直営農地の一部を栗、ロースィップ、他の様々な果実や花の蜂蜜の生産を増やしています。森林や農地がたくさんあるリーンフェルトは蜂蜜生産にうってつけの場所で、気候も蜂が活発に動きやすいです。一番喜んでいるのはトルエスですけどねw
ではでは付録集も本編と合わせてお楽しみいただけれれば嬉しいです!
何時もご愛読ありがとうございます!