電波に乗って
彼はしきりに動かしていた指をはたと止めた。スマートフォンの画面には長々と綴った文字たちが表示されている。彼はじっとその画面を見ると、文字たちを一気に消した。もどかしさを払しょくするように乱暴にポケットへ突っ込む。
自分の中にいつも感じているはずの感情を伝えようとしているだけなのに、どうしても言葉にするとどれもこれもしっくりこない。気持ちをうまく伝えられない葛藤は彼の中で常に渦巻いていた。
彼の持っている言葉の辞書はページ数も多く、多くの言葉が収録されている。それは彼が生きてきた年数の分増えてきたのだから当然だ。にもかかわらずそれを唯一扱えるはずの彼自身がうまく扱えないでいた。辞書に収録されている気の遠くなるような量の言葉たちをもてあまし、そのほとんどをちゃんとした形で使うことができない。
ある時は何とか自分の思っていることを伝えようとしてあっちこっちから言葉を引っ張り出して繋げていくうちに長さだけが増していき、本当に伝えたいことが埋もれていった。
またある時は、言おうとしたこととは違う言葉を間違えて引っ張り出してしまい、誤解を招いた。
そして、今回は本当に言いたかったことを伝えるための言葉を見つけられなかった。
彼が辞書をうまく扱えなくなってしまうのは、ある一人の女性に対してだけだった。普段友達や職場の人間と話している分にはすぐさま出てくるはずの言葉が、彼女に対して特別な感情を抱いた時から、うまく機能しなくなってしまった。彼女の前では辞書から検索ページがごっそりとなくなり、頭が真っ白になって何も言えなくなってしまうのだ。
それでも何とか自分の想いを伝えたくて彼は試行錯誤する。時には長い時間をかけて考えることもあるが、あれこれと考えた末に、想いを伝えるための言葉はたった一言しか見つからない。果たしてその一言で本当に自分の中にある気持ちのすべてを余すことなく伝えられているのか彼はしばしば疑問に思った。
どうして日本語というものは言葉数が多いにもかかわらず本当に必要な単語が少ないのだろう? 彼女に対しての特別な感情を表す言葉がたった二文字しかない事が腑に落ちないのだ。この二文字ばかり使いすぎていたのでは、いずれ文字が薄れて消えてなくなってしまうのではないかと不安になる。
ふと上を見上げる。長雨続きで陰気だった一週間は週末になってようやく晴れ間がのぞき、彼の見上げる先には夜空に一筆書きで描かれたような細い月が浮かんでいた。
漆黒の夜空に浮かぶ細い月は儚さを感じさせるほどひっそりとそこにあって、自分の存在を誰かに知ってもらいたくて一生懸命に自分を主張しているにも関わらず、その灯りがとても暗いがゆえに誰の目にもとまらない。きっとこの瞬間もあの月を見上げている人は限りなく少ないに違いない。
それでも、久しぶりに姿を現した月はとても綺麗に見えた。
きっとあの月も彼と同様口下手で、言葉少ないのだろう。それ故にどんなに頑張っても薄暗い灯りしかともせないが、夜空に浮かんだ姿はこうも美しく見える。もしかしたらあの月は言葉は少なくとも自分の存在を一番美しく見せるための言葉を持っているのかもしれない。そう思った瞬間、彼の感じていたもどかしさはすっかり消えていた。何故だかわからないが、あの月のようにどんなに薄い灯りしかともせないのだとしても、それはきっと誰かの目に留まってくれる。そう思えたからなのかもしれない。
言葉なんて単なる文字の組み合わせに過ぎないのに、あれこれとくっつけていくうちに膨大な長さになってしまう。でもいつだって本当に伝えたいことは至って簡潔で鮮明だ。
彼女に対する感情を表す言葉をいくら探したって見つからないのは当然だったのだ。何故ならそれはたった一つの言葉に集約されているから。それ以外の言葉がないのは、それ以外に必要がないからなのだ。
だとするならば、彼の辞書の中にあるその言葉も、何度使ったとしても使い減りすることもなければ薄れて消えることもないのかもしれない。いや、元々辞書なんか必要ではなかったのだ。その言葉を彼は常に持っていたのだから。彼の中にいつも感じている感情。彼女に出会った時から常に彼の中に満ち溢れていた想い。それこそが彼が本当に伝えたかったことに他ならなかった。
彼はおもむろにポケットからスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで見慣れたアドレスを開いた。薄暗い月明かりの下、スマートフォンの光はとてもまぶしく感じた。
ありとあらゆる言葉が頭に浮かんできたが、彼の指はそんなことはお構いなしにスムーズに画面をタップする。そして今夜も想いを乗せてメールの最後に二文字の言葉を添えて夜空に飛ばす。きっと久しぶりによく晴れた今日ならいつもよりも多くの想いをこの二文字は届けてくれるだろう。そう願って。