act.8 がんばろーね!
帝凌中攻撃陣が怒涛のごとく押し寄せ、向ヶ丘の対応が後手にまわる展開となっていた。
絶体絶命の危機に、ふわりと上がったラストパスを、みさきがジャンプして頭でクリアする。
みさきの身長は一六○センチそこそこだったが、その運動神経と跳躍力は十センチ以上の上背のハンデすらものともせず、いっぱいに伸び上がって、自分よりも背の高い相手に何度も競り勝っていた。
菱木よろしく、さらさらの髪をかき上げ、気持ち良さそうにみさきが風を受け止める。
涼しげに笑うと、藤色のユニフォームをひるがえし、すぐさま駆け出した。
近くに海が見えるグラウンドには、絶えず巻き込むような風が吹いていた。
海からの風。
みさきの好きな風だった。
この風と一体になった時、みさきは誰よりも速くグラウンドを駆け抜けることが出来る。
そして誰もみさきを止められない。
その時、みさきは風になった。
「止めろ、止めろ! 十三番だ」
「く!」攻撃のために前線まで上がっていた菱木は、瞬く間の形勢逆転に、戻るタイミングを見誤った。
みさきの後ろ姿がどんどん遠ざかって行く。
「止めろ、そいつを止めろ!」
ノールックでのパスを味方に通し、すぐにみさきが受け取る。
今度は、菱木はいない。
左サイドをドリブルで突破するつもりだった。
敵DFがみさきのチェックにやって来る。
カバーでもう一人が待機しているが、それほど離れてはいない。
みさきはDFの前で数回切り返しのフェイントを行い、十分に引きつけておいてから、二人の間を一気に突き抜けていった。
「あっ!」と言う間もなく、二人がお見合いする形となる。
追いながらのディフェンスは、恐れるに足りなかった。
「くそ!」
危険を察知したGKが、シュートコースを消すために飛び出して来るのが見えた。
一対一の状況で、ペナルティエリア外からみさきが強烈なシュートを放つ。
ぎりぎりのタイミングでGKが手で弾いたボールはバーに当たり、再びみさきのもとへと舞い戻って来ることとなった。
後方、ワントラップする間に追いつける距離に相手DFがいた。とは言え、落下地点に飛び込むには間合いが悪すぎる。
それが自分の守備範囲であることを確信してGKが笑みを作った。あとは手を伸ばすだけでボールをキープできるはずだった。
しかしみさきは微塵も動じてはいなかった。
「?」GKが我が目を疑った。
みさきがボールを後ろに残したまま、前方に飛び込んできたのだ。結果、ダイビングヘッドを空振りする格好になり、GKはみさきが目測を見誤ったのかと思った。
次の瞬間、彼はさらに信じられない光景を目にすることになる。
スピードののったボールが彼の脇を抜け、そのままゴールネットに吸い込まれていったからだ。
誰も触れられないはずのボールが。
ゴールを告げる主審の笛の音。
それを聞いてもしばらくは誰一人動けずにいた。
起き上がり、ユニフォームの土を手ではらう。それからみさきは笑ってみせた。
「何やったんだ、あいつ……」
宗一郎が呟き、裕太と顔を見合わせた。
「オウンゴールじゃねえか」
「追いついてないだろ」
「いや、キーパーの」
「キーパーのか?」
「おお……」
「……」
お互いに馬鹿を見るような表情だった。
「やりー!」
顔を向けると、腕をグルグルまわして走り回るみさきの姿が目に映った。
そして宗一郎達は、ようやく自分達が帝凌中から得点したことを理解したのである。
「うおおおー、やったぜー!」
「やった、やったー」
みさきに向かって走り寄って行くチームメイト達。
通常ならばここで、仲間同士の喜びの抱擁のシーンが見られるはずだった。
「やり~」
みさきが飛び込んで来る。
それまで大喜びしていた裕太達が、ふいに直立した。
みさきの性別を思い出したからである。
「どうしたの?」
「いや、別に」平静を装って裕太。
顔を見合わせた。
「なあ」
「なあ」
「?」不思議そうにみさきが首を傾げ、そんなことなどおかまいなしに裕太達に抱きついていった。「やたー!」
「ちょ、ま、みさきちゃん!」
「がんばろーね! みんな!」
「うん、まあ……」裕太が中腰になった。「……ぽかぽかしちゃう」
「な、く……」帝凌ベンチで拳を握りしめて稲森が立ち上がった。その全身が打ち震えていた。「スコーピオンだと……」
「スコーピオンシュート?」
隣にいた選手が信じられない、といった表情で稲森の顔を見上げる。
稲森はギリギリと歯がみしながら、それ以上何も言おうとしなかった。
ボールの落下するタイミングが悪く、ヘディングがワンテンポずれると判断するや、みさきは咄嗟に前方に倒れ込み、大きく振り上げた両踵をそのままボールに叩きつけたのである。
ろくに練習すらしたことのないアクロバチックなゴールを、ここ一番の集中力でものにしてしまった。
稲森が驚くのも無理はなかった。
わざわざリスクの高い大技を繰り出す必要はなかったのかもしれない。が、しかし、味方の士気を高め、相手の戦意を削るには効果抜群だった。
「くそ……」菱木がぐっと唇を噛みしめる。「あいつ、何者なんだ……」
げんなりする帝凌中フットボーラーズ。
悔しがるのはまだ早い。
本当に試合が動くのはこれからだった。
後半十分。
向ヶ丘に再びチャンスが訪れようとしていた。
帝凌中FWの放ったシュートを宗一郎が見事セービングする。
大きく前線に蹴りだしたパスは、ハーフウェイラインを越えてみさきの元へと到着した。
先の反省もあり、カウンターを警戒して帝凌守備陣はあらかじめ戻っていた。
中盤も守備に向かい、当然のことながら、みさきにマークが集中することとなった。
しかしみさきは最初の相手に背中を向けると、くるくる回りながらあっという間に三人のマークを振り切って、走り抜けて行ったのである。
その鮮やかさに、再びギャラリーが沸きかえる。
敵も味方もなかった。彼らは皆、みさきのサッカーに魅了されてしまったのだから。
誰よりも驚いたのは、仲間達の方だった。
裕太が立ち止まり、宗一郎の前で表情もなく呟く。
「なんだ、あの技は?」
「あ、あ、あ……」信じられないものを見たとばかりに、宗一郎が振り向いた。「知らん」
「なんだあのルーレットは!」両拳を握りしめ、稲森が立ち上がる。鼻息を荒げ、かなり興奮していた。「三回、いや、四回か! あんな連続ルーレットは見たことがないぞ! マラドーナの生まれ変わりか!」
「まだ生きてますよね……」
「そんなことはわかっとる!」
三人の選手の位置を正確に把握した上で、みさきはマルセイユ・ルーレットの連続で全員を抜き去っていた。しかも最後に追随した選手を左右の切り返しでSの字に揺さぶり、軸足を見失った相手を完全に置き去りにしてみせたのだった。
そこまでを一連の流れでやってのけ、相手が勝手に自滅するように仕向けたのである。
ゴールエリアの手前まで、みさきは一人だけで持ち込んでいた。
ほぼ中央。
ゴールとの間に、敵DFが二人と自軍の選手が左右に一人ずついる。
同じ轍は踏むまいと、GKは深く位置どっていた。
敵の一人がタックルをしかけてくるところをひょいとかわし、みさきが左サイドの味方にパスを出す。
もう一度みさきに返そうとしたものの、追いついてきたみさきへのマークがきつく、彼はパスコースに窮することとなった。
そこへノーマークの選手が飛び込んで来るのが見えた。
「ららららら~っ!」
裕太だった。どフリーである。
思わず裕太への山なりパス。
「どけっちゅうにー!」(たまたま)奇跡のセンタリングに、相手DFですら反応できない。そのボールを裕太はヘッドで、「どんぴしゃっ!」当然空振りした。
「もらい!」
裕太がスルーしたそのボールに素早く反応したのはみさきだった。
すでにDFの裏を抜けて右サイドへと展開済みであり、ハーフバウンドの難しいボールに、右四十度の角度から倒れ込みながらオーバーヘッド気味のボレーを蹴り込む。
一瞬とは言え裕太に反応してしまったGKは、それに追随できようはずがなかった。
キーパーの背後を抜け、反対側のサイドネットに深々と突き刺さる豪快なシュートに、ワッと沸き起こる歓声。
それはアップ中に菱木が見せたシュートより遥かに難易度が高く、華麗なものだった。
もはや誰もが、みさきの存在を認めずにはいられなかった。
「すげえ、すげえぞ!」
興奮してゴールを飛び出していった宗一郎が、眼中にない裕太をなぎ倒した。
「んげ!」
「宗一郎ーっ!」
みさきが走り寄って来るのが見える。興奮しまくり、何やらそこいら中を暴れ回っていた。
「よし、みさき!」
「やったあ」
「!」
みさきが宗一郎に抱きついて喜ぶ。困惑したのは宗一郎だった。
「ば、ば、ば、ばか、やめろい」
「いいじゃない」
「こら、へそが見えてるぞ!」
喜びを身体いっぱいで受け止めていた。
もはや性別などどうでもよく、全員が抱き合いながら歓喜に酔いしれていた。
その中心でみさきが満足そうに笑った。
「もしかしたら俺達は……」ベンチに静かに腰を下ろして稲森が呟く。眼鏡がずり落ちないように押さえ、声のトーンを落とした。「俺達は十年に一人の天才と戦っているのかもしれん……」
「裕太君、ナイススルー」
みさきが裕太に笑いかける。
すると親指を立てて裕太がウインクした。
「狙いどおりだぜ、みさきちゃん」
「あそこでスルーされちゃ、相手はたまんないよね」
「たまんねえだろ、っちゅーの」
すれ違いざま、仲間達が裕太の背中を次々に叩いていく。
「よ、ナイス空振り」
「空振りだよな」
「空振り、空振り」
「結果オーライだ。くよくよすんな」
「狙いどおりだっちゅーに!」
試合再開前、帝凌中のメンバー交替を告げるプラカードが上がる。
後半残り時間は十五分少々だった。
「菱木」
交替した選手に呼びかけられて菱木が振り返った。
「なんだ、太田」
「監督からの伝令だ」
「?」
「もう攻めなくていい。おまえは十三番のマークにつけってよ」
「!……」