act.6 新記録だな…
向ヶ丘中のスターティングメンバーを見渡して、帝凌中の監督稲森が不満そうな声をもらした。
「なんだ、あの十三番は出んのか。少しはましな試合が出来るのかと思ったが」
同様なことを二村も思っていた。稲森よりもはるかに切実に。
「何故岬を出さん!」脳天からドカンドカンと憤慨していた。「これでは話にならんだろう。やばいぞ!」
「こいつ、スタミナないんです。だから後半から……」
横にいた部員がフォローする。古田のかわりである。
「だあああ、おしまいだ。百対ゼロだ」二村が頭を抱え、情けない声を出す。試合前に稲森に言ったことを思い出した。「やばい。あんなこと、言わなきゃよかった!」
「ほらー! チェック、チェック」情けない二村の声を吹き飛ばす、みさきの応援。「遅いよ、木村先輩! 十番来てる。だあー、宗一郎、何やってんの!」
そんなみさきをまじまじと眺め、ぼそっと二村が呟いた。
「元気そうだな……」
「裕太君、違う、右、右!」
「これでスタミナないのか?」
「たぶん……」自信なさそうにさっきの部員が頷いた。
「ああー、もう! また逆ゲット! こんにゃろー!」
ゴールを告げる長いホイッスルが響き渡る。
三対〇。
もちろん帝凌中のリード。
三十分ハーフの、まだ十一分を経過したところだった。
「新記録だな……」
二村の一言に、みさきが一瞬動きを止める。
「まだまだ、これからだからあー!」
すぐに気を取り直したものの、その表情はやや不安げだった。
「ふ」帝凌中ベンチにでんと腰を下ろし、ほくそ笑む稲森。とても本選とは思えない。まるで前哨戦だ。そう思った。
景気がよければ次に弾みがつく。だがここまでひどいと次の試合に影響が出そうだ、などとも考え始めていた。
「太田、アップしとけ」
傍らのサブメンバーに声をかける。滅多に使わない選手だった。
稲森には監督就任以来、決してかわることのないポリシーがあった。公式戦の緒戦には必ずベストメンバーを揃えるというものだった。ただし勝負の見極めが確定するまでの話である。
もしもの事態を考慮して大抵はハーフが終了するまでは交替は控えるようにしていたのだが、しかし今回は……
「試合は決まった。練習のつもりでいけよ」
「はい」
稲森がメンバー交替のために指示を出そうとした時だった。
主審の笛が鳴り、ゲームが中断する。
「ちょっとまて」
交替メンバーを制して、稲森がそれに注目した。
向ヶ丘陣内だった。
「てめー!」
ゴール前で宗一郎が菱木につかみかかっているのが見える。
その近くで右足を押さえながら、古田が倒れ込んでいた。
「わざとやりゃあがったな!」
「そっちから当たってきたんだろ」汚いものを見るような目つきで、菱木が吐き捨てた。「一生懸命なのはいいが、こっちの身にもなってくれよ。今日で引退のおまえらとは違うんだからな。俺らにはまだ県大も全国もあるんだ。相手にハットやられたくない気持ちはわかるけど、ルールくらい守れよな」
「なんだと!」カッカとさらに炎上する宗一郎。「どういう意味だ、そりゃ」
「全然歯がたたないからって、勝負捨てて汚いマネするのはやめろって言ってるんだ」
「んだ~!」
「こら、やめろ」
ようやく主審が止めに入り、宗一郎にイエローカードを差し上げた。
「く!」
「ははっ、ざまみろ」
解放されたユニフォームをはらって、主審には見えない角度で唾を吐く菱木。それから見下したように宗一郎を眺めた。
「もうやめなよ。これ以上恥かきたくないだろ。棄権した方がいいよ、あんたら」
「てめっ!」っと、再び飛びかかろうする宗一郎の足首を何者かがつかんだ。勢いあまってつんのめる。「だあっ!」転んだ。
古田だった。
「やめろ、バカ。もう一回イエローカードもらったら退場だぞ」
「でもなあ、あんな憎ったらしい……」
「俺のかわりなら何とかなっても、おまえいなくなったらどうするんだよ。それで退場だったら、一人減っちまうんだぞ」
額に脂汗を浮かべ古田が声をしぼり出す。必死に苦痛にたえているようだった。
選手が退場を宣告されると、プレー再開時メンバーの補充は認められない。宗一郎が退場となった場合、向ヶ丘は残りの時間を十人で戦わなければならないのである。
「でもよ」
「おまえ、キャプテンだろ!」
「古田……」宗一郎が気を鎮める。チームを思い懸命な様子の古田を前に、態度を改めたのだった。「おまえ本当に足……」
「今さら嘘つくかよ」腫れ上がった右足首を押さえて、呻くように古田が言う。「おまえらのおせっかいのせいで、こっちだってやっとやる気になってきたっていうのに……」
「……いいのか」
「しようがないだろ。ちょっと残念だけどな」真顔の宗一郎を見て、にやりと笑った。「一抜けで悪いけど俺はここまでだ。実際、これ以上点差開いたらキビシいだろ。ちょうどいい頃合いだったんだよ」
「勝手にリタイヤしといて、ほざいてんじゃねえぞ」淋しそうに顔を伏せる宗一郎。「ばろー……」
後輩に抱えられて古田が退場して行く。
ちらりと振り返り、宗一郎に言った。
「宗一郎」
「あん?」
「ごめん。なんか、俺、感動しちまって、張り切り過ぎちまった。ははっ、かっこわる……」
「ばろぉ……」
すうっと深呼吸して宗一郎がフィールドと向き直る。数分前までとはまるで別人のような、落ち着き振りだった。
目の前でストレッチをしているみさきに目をやる。
「みさき、頼むぜ」
宗一郎の声にみさきが振り向いた。
「まかしといて」
ふっとみさきが笑う。
それを見て宗一郎もにやりと笑った。
「うっし、行くぞ。こっからが本当だ。俺らの力……」
「あたしの力、見せてやる!」
宗一郎の声をかき消して、みさき。
恥ずかしそうに宗一郎が咳払いをした。
「ようやく出て来たか」元気に動き回るみさきをベンチから眺め、稲森がニヤリと笑った。「まずはお手並み拝見といこうか。一応」
帝凌中、フリーキック。
ゴールを守る宗一郎から向かって斜め右、約二十メートルの距離、四十五度の角度からの、直接フリーキックだった。
そのままゴールに蹴り込むことも出来る。
菱木ともう一人がボールの前にいて、どちらが蹴るのかはわからなかった。
向ヶ丘の選手は最前線の裕太達までも含め、全員守備に戻って来ていた。
対して帝凌中は、カウンターの可能性もほぼないのに、ハーフウェイ・ラインの付近に二人ほど置き、残りのメンバーが攻撃に参加しようとしていた。
数的優位ではあったが、驚異的な攻撃力を誇る帝凌中の攻めを回避するのは、向ヶ丘にとって至難のわざだった。
ユベントスのユニフォームになぞらえた白と黒の縦縞は、それだけで相手に威圧感を与える。それにまるで気後れすることのない自信に満ちたたたずまいの集まりが、帝凌の帝凌たる強さそのものと言えた。
ボールから約九メートル離れた場所で、シュートコースをなくすために裕太達が壁を作る。菱木のキック力を警戒して七枚つけた。
その後方、宗一郎の前に、みさき達DFが三人入った。
中央から一人が走り込もうとしているのが見える。向かって左からは、二人チャンスをうかがっていた。
ホイッスルの音とともに、キッカー候補の一人が向ヶ丘から見て右に向かって走り出す。
菱木だった。
キッカーが菱木に向けて蹴ったグランダーのパスは、完全に向ヶ丘の裏をつく軌跡となった。
セオリーではない。彼らはチャレンジを仕掛けているのだ。
もはや勝敗からは切り離されたこの試合で、何とかモチベーションを保つために。
相手に対する尊敬も興味も失った今、プレーを楽しむことしか試合の意義を見つけられなかったからだ。
どうせ相手はカカシのようなものなのだから、と。
だが、それに追随した選手がいた。
みさきだった。
みさきは他の選手がすべてダミーであることを見破り、ボールが渡る前に、菱木目がけて駆け出していたのだ。
途端に菱木の顔色が変わる。
一旦左のエンドに振っておいて、角度のない場所からセンタリングを上げるのが、菱木のイメージだった。
それをわずかなアイコンタクトで見破ったのである。
「く!」フリーだと思い込んでいた菱木が焦りの色を浮かべる。
みさきのチェックは執拗かつ、効果的だった。相手に攻め入る隙をまるで与えない。
菱木にここまでプレッシャーを与えた選手は、少なくとも県内には一人もいなかった。
センタリングを上げるどころか、菱木はいつの間にかラインぎりぎりまで押しやられていた。
執拗なチェックを受け、スーパーエース菱木がどんどん追いつめられていく。
たった今替わったばかりの、ベビーフェイスの一年生に。
『こいつ……』頭に血が上る。
みさきの思うつぼだった。
「な~んだ」菱木をちらと見て、みさきが意地悪そうに笑った。「案外たいしたことないんだね」
「このチビ!」
エンドラインぎりぎりから放たれた左足のシュートが、向ヶ丘ゴールのサイドネットに突き刺さる。
ギッと睨みつける菱木をさらりとかわし、みさきが、ふう、と一息ついた。
「よくやったぜ、みさき」能天気に喜ぶ宗一郎の声。「一点もうかった」
しかしそれをみさきは素直に喜べなかった。
菱木のシュートは決して苦し紛れのものではなかったからである。
サイドネットにぐさりと刺さったそれは、みさきがいなければ宗一郎の脇を抜けて、見事ハットトリックを確定していたことだろう。
危ないところだった。
油断は禁物であるとあらためて思い直すみさき。
他にも気になることがあったが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「これからだよね」
気を取り直して、みさきがふっと笑う。
それに宗一郎も笑顔で答えた。
「おう」
試合が動くのはこれからだった。