act.9 俺達の負けだ
みさきに対する、菱木の執拗なマークが始まった。
以前のような華麗なスタイルは消え去り、ラフプレーでファウルを何度も宣告される。かろうじてイエローカードを免れているのは、菱木のうまさだった。
「あんのやろー」
倒されたばかりのみさきに、裕太が歩み寄って来た。
「だいじょぶかよ、みさきちゃん」
「ん、大丈夫」
立ち上がってぱんぱんとユニフォームをはらうみさき。
「やたらめった、ラフく出てきやがったな」
「向こうも必死なんだね」にやっと笑う。「でも、いい加減腹立ってきた」
両チームの地力の差は雲泥と呼べるほどの開きがあり、それをみさき一人でどうこうできるほどサッカーは甘くはない。
だが、たった一人の加入が戦局を変え、何より味方達を奮い立たせたのは確かだった。
百メートル競争をすれば、菱木の方がみさきよりも確実に速い。おそらくは帝凌のほとんどの選手がそうであろう。
小学生ならいざ知らず、成長期以降の男女の体力差はいかんともしがたいのは事実だった。
しかしサッカーは駆けっこの速さを競うスポーツではない。たとえマッチアップで相手を抜き去っても、ボールを奪えなければ何の意味もないのだ。
緩急のメリハリで相手をオーバーシュートさせる技術では、みさきは菱木をはじめとする帝凌の選手達をまるで寄せつけなかった。不用意にあたれば、いやむしろ、みさきを止めるためにはファウルをおかす以外に手がなかったのだから。
一人で三人以上のマークを振り回し、なおかつ一瞬の隙をついて、あっという間にシュートまで結びつける個人技は、もはや反則レベルとも言えた。
それを目の当りにした相手から、次元が違うと言わせるほどに。
突破力を警戒して相手DFはどうしても引いて構えることとなる。パスという選択肢も何度もちらつかせていたので、フォローする選手達も常よりやや引き気味のポジションとなり、結果それまで前だけを向いてプレーしていた前線のプレイヤーが頻繁に振り返らざるをえない状況に陥っていた。
普通にやれば必ず勝てる相手なのに、みさきを意識するがあまり、連携に乱れが生じ始めていた。
かつて他のチームが菱木に感じていた脅威を、勝手に浮き足立ち、それ以上のプレッシャーとして帝凌は受け止めていたのである。
当のみさきにしても、常にそのレベルで戦えていたわけではない。
いつもはここまでの力を出す場面すらなかったというのが本当のところだった。
菱木達のように強い相手だからこそ、ここまでのポテンシャルを引き出せたとも言えた。
何よりこの状況を一番楽しんでいたのは、みさき本人だったのだから間違いではない。
ボールをキープし、広いフィールドを隅々までみさきが見渡す。
それから風を感じ、楽しそうに笑った。
自らも風となって。
後半十九分。
一点差のまま膠着状態に突入し、帝凌中がオフサイド・トラップを多用し始めた。
最前線のみさきにパスを送ろうとすると、すっとディフェンスラインが上がるのだ。それでもパスが通った時には、菱木の矢のようなタックルが容赦なく襲いかかってきた。
ボールに触れてもいないのに、菱木がガンガン当たってくる。
オブストラクションの反則に、ちっと舌打ちして、宣告された菱木がみさきから離れていった。
そのシルエットをジロリと睨みつけ、ついにみさきの中で何かが弾けたようだった。
後ろ髪に殺気を感じて菱木が振り向く。その原因が何であるのかを確認した時、今度は菱木の背中を悪寒が走り抜けていった。まるで触れられたくない過去を暴かれるかのように、思い出したくもない埋もれた記憶を無理やり引きずり出すように、その瞳は菱木の視界を独占して放さなかった。
もう遅い。
弾けてしまったのである。
みさきは。
フリーキックがみさきへ渡るや、すぐさま菱木が近寄って来る。
その時、みさきがブスリと突き刺した。
「あいかわらずセコいよね、ヒジキ」
「!」
「そんなことだから、ケロンパスのエースに勝てなかったんだよ」
はっとなって菱木が立ち止まる。
その一瞬のスキをついて、みさきが走り抜けた。
「ちょっとまて!」菱木が後ろからみさきの肩をつかむ。「何故そんなことを知っている! おまえ、何者だ!」
明らかなホールディングの反則。
だが菱木は驚きの表情を浮かべたまま、その手を離せずにいた。
無意識にみさきが発した、きゃっ、というかわいい声に反応したためだった。
「てめー!」
憤激し、駆け寄る向ヶ丘イレブン。こっちの方面なら任しておけ。
乱闘寸前。
が、しかし、その直前に響きわたった菱木の声が、彼らの動きを制したのだった。
「おまえ、ひょっとして……」
「……」うっ、ついにバレた、という宗一郎の顔と拳。
「オカマちゃんか!」
へなへなと全員の勢いがなくなった。
みさき一人を除いて。
ほっとしたのもつかの間。
「はあ! 何言ってんの! こんなかわいいオカマちゃんがどこにいるっていうの!」
「!」
「こら、みさき、やめろ……」
「だってさ!」
「あ、……女か、おまえ……」
「……。……君はだにを言っでるんだい」
「遅いだろ……」
「……オネエかと思った」
あちゃ~、の向ヶ丘イレブン。
だがそんなことなどすでにみさきには関係なかった。不用意な菱木の発言に反応する。
「誰がオネエだ! 失礼でしょうが!」
「ある意味それも失礼だぞ、おまえ」
「だってさあ! 女の子に向かって!」
「あ、ごめん……」ぽかんとなった菱木が本来の趣旨を思い出した。「いや、そんなことより何故おまえが俺のあだ名を知っている」
「はあ! 忘れちゃったとか!」とにかく引くことを知らない。「この顔、見覚えあるんじゃないの! ない! 忘れちゃった! 三年前、あんたをすっごく苦しめた、永谷ケロンパスエイトのエースの顔なんだけど。まあ、あたしは忘れてたけどね!」
「あ!」思わず、はっとなる。「……えっと、確か、夕暮れ……」
「夕凪だよ!」
「あ、そうだ」
「わざと!」
「いや、ごめん……。……?」
腑に落ちずに首を傾げる菱木を、仁王立ちのみさきが鼻息を荒げて見据える。腰に手をあて、まったくもう、という仕草だった。
「……。永谷のホマレちゃんか?」
「そうそう、そのホマレちゃんよ。……。自分で言うのも恥ずかしいわね!」キッと睨みつける。「そして今は朝日丘レディースのエースストライカーにして、向ヶ丘中サッカー部の秘密兵器、夕凪岬とはあたしのことよ。なんだかあの時とおんなじシチュエーションだけどね、あっははは!」
秘密を全部自分からばらしてしまった。
「ゆうなぎ……」そのカミングアウトに誰よりも大きな驚きのリアクションをとったのは、帝凌中サッカー部総監督の稲森だった。思わず腕組みをして唸りまくる。「あいつがそうか。やはり、そうか。あれが朝日丘レディースの天才サッカー少女の夕凪……」
「反則負けだ!」
はっと我に返り、いきり立つ帝凌イレブンが、容赦ない罵声を次々に浴びせかけ始めた。
「おまえら恥ずかしくねえのかよ」
「女に助太刀してもらってやがる」
「そうまでして勝ちたいのかね」
言葉もない向ヶ丘陣営は塩をまぶしたナメクジのごとく、はたまた恥ずかしがり屋のお嬢さんのように、しゅんと縮こまるだけだった。
しかし、みさきは負けない。
「やかましいわね! その他大勢!」
「おおっ!」
「あんた達そろいもそろって、あたし一人に手も足も出なかったくせに。女に助太刀されて負ける方がはるかに恥ずかしいじゃない! おっかしい! ちゃんちゃらおっかしい。笑っちゃう、ははははあーん、だ! おほっ、おほっ! ……むせた」
なんて生意気な奴なんだ、とそこにいた全員が思った。宗一郎達も含め。
「女はマネージャーでもやってろよ」
無鉄砲かつある意味かわいそうな帝凌メンバーの火種に、みさきのダイナマイトが爆発した。
「セクハラ!」ビシッと人さし指で相手の鼻をブタにする。「レッドカード! あんた、退場!」
そんな権限はないはずだ。むしろ暴力行為で訴えられてもおかしくない。
「だいたいねえ、女が駄目って、誰が決めたの!」
みさきが常套手段に出た。
「そんなこと決まってんだろ……」
口ごもる帝凌中特攻隊長。
それを黙ってやり過ごすような優しさは、当然みさきにはない。
「何が決まってんのよ。どこにそんなこと書いてあるの。証拠を見せてよ。ねえ、早く見せてよ」
「……俺、何か今、あいつに同情しちゃった」
「……俺は痛いくらいにあいつの気持ちがわかるぞ」
裕太と宗一郎のひそひそ話。
言うまでもなく、あいつとは、みさき以外の方を指す。
「やってらんないわねえ、まったく」
腕組みをしてふんぞり返るみさきが、勝ち誇ったように、ふんと憤りの鼻息をもらした。
その時、何者かがポンとその肩を叩いた。
「ここ読んでみなさい」
「へ?」
みさきが振り返ると、小冊子を開いた主審が難しい顔で立っていた。
「ここに男子に限るとちゃんと書いてあるねえ」
みさきの目が点になった。
「……。へ?」食い入るようにルールブックを睨みつけ、当然のことながらみさきが黙り込む。
「……小学校の時はよかった、よ?」
「小学校の時はね」
「……」
「おあとがよろしいよな」裕太談。
「ちゃんちゃんだな……」宗一郎談。
ところが突然開き直った。
「だったらどうだってのよ!」
ひゃ~、とドン引きの一同。
「女のどこがいけないって言うの! なんで差別すんの。そういうのって今一番やっちゃいけないことなんじゃないの! 誰がそんなこと決めたの!」
『だからルールブックに書いてあるのに……』
誰もそう言おうとはしなかった。すでに皆、げっそりとしていた。言ってわかるような相手なら、苦労はない。
その理不尽さは、もはや言葉でどうこうなるものではなかった。
「あいつ、なんてイヤな奴なんだ……」
「なあ……」
これまた宗一郎と裕太だった。
そこへ頭を抱えながら、二村がやって来た。
「やばい、おしまいだ。やばい、やばい、やばい。やっぱり、おしまいだ」
やっぱりとはどういう意味なのか。
「とにかく退場だ」菱木が冷静に吐き捨てる。「こんな試合無効だ。おまえらさっさと棄権して帰れよ」
「んだあ~!」
「もういい」
ドスのきいた一声が場内を鎮圧する。
ベンチから立ち上がった稲森だった。
「おい、帰る支度をしろ。これ以上こんな馬鹿げた試合を続行する必要はない」おろおろとうろたえる二村をじろりと見て、さらに威嚇した。「向ヶ丘さんには失望しましたよ。すぐに試合を放棄なさい」
「それはもう……」
「ちょっとまってください」
聞き分けのいい二村の返事をかき消して、宗一郎が前へ出る。
「逃げるんですか、俺達に負けそうだから」
その挑発に稲森がカッとなった。
「馬鹿を言うな! くだらん茶番につき合っているほど、うちは暇じゃないと言ってるんだ。こんなのは何の意味もない、遊びだ。よそでやれ!」
「遊びなんかじゃない」
「ば、馬鹿、浅見、やばい……」
再び二村を無視して、宗一郎が続ける。
その表情はあくまでも真剣そのものだった。
「俺達真剣です。真剣に考えてあいつを出した」みさきを指さす。「実際、あんたらの中で、こいつにかなう選手いないでしょう。あんただってわかってるはずだ。そこの菱木よりも、みさきの方が上だってこと」
菱木がぐっと奥歯を噛みしめた。
「俺ら、こんな大会なんて別にどうだっていい。負けたっていい。ただ最後までやりたいだけなんです。いつも最後までやってきた。だから、途中で放り出したくないんです。試合は俺達の負けだ。ルールを破ったのは、事実だから……」
事実を真摯に受け止め、塞ぎ込む向ヶ丘陣営。
それでも宗一郎の態度は毅然としたままだった。
「頼みます。最後までやらせてください。お願いします。こいつのためにも。こいつ髪まで切ったんです。俺ら勝たせたくて。こんな背中まであった髪の毛、ばっさり切ったんです。わかりますか、こいつの気持ちが!」
宗一郎の真剣なまなざしに、稲森がいつもの迫力を失う。
その後ろから睨みつけるみさきの瞳にも、それ以上の輝きを認めていた。
「……わかった」ぶすっと背中を向ける。「勝手にしろ。どうせあと十分くらいだろう。だがな、こんなことは何の意味もないぞ。やるだけ無駄だぞ。どのみち没収試合だからな」
「ありがとうございます」
珍しく宗一郎が深々と頭を下げた。
ちっ、と舌打ちする菱木。
選手と言わず、観客と言わず、そこにいた全員が宗一郎の心に打たれ、試合は再開された。
が、その気持ちをあまり解していない選手もいた。
「あー、もう、バレたー」癇癪を起こしたようにみさきが唸る。「せっかく髪切ったのにぃ。もう、切んなきゃよかった! どうせバレちゃうんなら」自分からばらしたくせにおさまらない。「あー、悔しい!」
「……」
複雑な表情の宗一郎だった。




