Vol.5
翌日摩子は用事があるから出かけたいと言った。
「どこに行くの?」
「うちを好きと言うてくれた人がいるんよ。遠いから車で連れてってよ」
摩子は次第に命令口調で物を言うようになっていた。
摩子が行きたいという工場とは、町はずれの山の麓にあり、ぽつんとその建物だけが建っていた。
「ここにうちを好きやと言う人がいるの」
摩子はいそいそと工場の事務所の中へ入って行った。
静香は車の中で待っていたが、なかなか出てこないのを不審に思い、事務所の戸を開けてみた。静香が戸を開けるや否や、男の怒鳴り声が耳に入った。
「ナニ言ってやがる!このろくでなし!」
若い男が摩子を外へ引きずり出そうとしているところだった。それでも摩子はガンとして腰を上げず、腕を引っ張る彼に掴みかかろうとしていた。
「うちのこと好きやと言うたんは嘘やったんか」
摩子は泣き声になって叫んでいた。
「おばさん、こいつ連れて帰ってくれませんか」
静香は招かれざる客だったんだと察して、静香は摩子を無理やり車に乗せた。摩子の厚い化粧は涙で流れ落ち、ひどい顔になっていた。
次の日の夕方、摩子は静香の、どこへ出かけるの、という声を後に、一人で出て行った。
静香の声が聞こえたのかどうか、あっという間に姿が見えなくなった。
何時間か後に、静香の家の電話が鳴った。受話器を取った静香の耳に甲高い声が響いた。
「おたく、摩子の親代わりですよね?」
押し殺したような中年女の声だ。
「親代わりではないですけど、摩子ちゃんがどうかしましたか?」
「いま、店で暴れて大変なんですよ。そろそろ客が来る時間なんで、引き取りにきてくれませんかね」
静香は夫に事情を話し、二人でその喫茶店に駆けつけた。店からは摩子の怒鳴り散らす声が外にも聞こえていた。
「ばっきゃ野郎!殺してやる!」
大声で泣き叫ぶ摩子の鼻から血が流れていた。
店のオーナーが、親代わりなんですよね、おたく、としきりに言う。
「親代わりではないんですが、この子の親に連絡しましょうか?」
「警察を呼ぼうとしてたんですがね」
「連れて帰りますから、それはやめてください」
静香の夫は摩子をなだめて車に乗せた。
その日の晩、静香は摩子の家に電話をして、摩子を連れに来るよう伝えた。
摩子の母親は「すみません。ご迷惑をおかけして……明日参ります」
と謝っていた。
翌日早々に摩子の母親がやってきた。
ご迷惑をかけまして……、何とお詫びを申し上げていいやら。摩子、うちへ帰ろう!」
「うち、帰らんよ。ここにいる。二度と来るな!」
激しい口調で母親をののしる摩子に、母親はびくびくしているふうだ。
「先生に迷惑かけるぐらいなら病院に電話して連れにきてもらうからな」
母親も意を決したのか、そう言い放った。
「どうにでもしやがれ!このくそばばあ!はよ、帰れや」
摩子の母親は、
「一度帰りまして、どうにかいたしますのでそれまでよろしうに」
と言って静香の家を後にした。
その2時間後、精神病院の車が静香の家の前に止まった。有無を言わせず病院の看護士に抱えられて車に乗せられる摩子の後ろ姿を、静香と夫は見送った。
静香は何もしてやれぬ無力を感じていた。親でさえも為すすべもなく、放棄せざるを得ないわが子。
後日、摩子の母親は連れ合いと一緒にお礼にやってきた。これ少しばかりですが、と封書を差し出した。中には数万円入っていた。
金を渡すことで、精一杯の侘びと感謝の気持ちを込めていたのだ。数日経って、静香は金を返しがてら、摩子の母親を訪ねた。
「大変ですね」と言う静香のねぎらいの言葉に、母親は言った。
「自分の子ですから……」
そして母親は言った。
「ずっと病院で預かってもらえばわたしはほっとします」
あの言葉を聞いてからもう数年経った。風の便りによると、摩子は今でも病院へ入っているとのことだった。以来、静香は摩子の母親には会っていない。
完




