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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

遠野物語「石苔」

作者: あると

若干グロテスクな表現がありますので、ご注意ください。


虫の音がやむ頃、娘は母屋からそっと抜け出した。薄雲を通して降り注ぐ月光が、彼女の顔をおぼろに照らした。若々しい黒い瞳と、張りのある頬が夜に浮かんでいた。

引き締まった素足が数間先の厩に向かう。

母屋から出たときと同じように、娘は静かに厩の中に消えた。

娘の顔は、女の顔だった。


さんはどうした?」

馬を引いた田子作は、娘の姿を探した。

「洗濯さ、行ってる」

田子作の妻の松が、刈り取った荏胡麻えごまの束を棒で叩いて種を落としていた。そうして落とした種を乾燥させ、油を作るのである。

「そうか」

野良仕事を終えた田子作は、仕事仲間の馬を厩に引き入れ、農機具を片付けた。

「きのこでも、採ってくるか」

松は頷き、ザルに落ちた種と虫をより分ける作業を始めた。


洗濯を終えた燦は、籠を小脇に抱え、額の汗を拭った。

「お父さん」

燦の指の爪が白い。籠を強く握っている。心なしか、肩を縮めていた。

「洗濯は、終わったのか」

「はい」

田子作のねっとりとした物言いに、燦は視線を地面に落とした。

「少しばかり、遅くなっても構わねえ」

汚れたわらじが目に入り、娘は目を背けた。

近寄ってきた父親の汗の臭いが、嫌が応にも男を感じさせた。


燦は唇を噛みながら、川の水で身体を洗った。

残暑から初秋へと変わる季節である。水はぬるくもあり、冷たくもあった。

川面に顔を出した石の苔に指を立てた。ぬるりとした感触は苔だ。それをこそげ取り、水に流した。石から苔がなくなるまで、それを繰り返す。爪は黒くなり、ひびが割れる。血が滲んでいた。

「綺麗に」

石の表面を撫で、ぬめりが消えたことを確認して、ようやく水から上がった。燦の身体は、さすがに冷えきっていた。

数年前から続いている行為だった。嫌なことがあった時、燦はいつもそうしていた。最近は特に多くなってもいた。

「誰?」

何かが聞こえた。

魚の跳ねた音のようでもあり、人の笑い声のようでもあった。

しばらく耳を澄ませていたが、せせらぎ以外の答えはなかった。

燦は着物を身に纏い、洗濯籠を持って川を後にした。

野鳥が石を落としたのか、水面に小さな飛沫が散り、すぐに消えた。


「遅かっただねえか」

母の問いに、燦は下向いた。

「ごめんなさい」

「ずっと川にいたのか?」

小さな頷きに、松は暗い表情になった。

「水も冷たくなっているだろ」

はっとする彼女の様子に、松は優しく、そして悲しい笑みを見せる。

「手もこんなに冷えてるでねえか。女は腰を冷やしたら、よくねえんだ」

燦は、わかっている、と言って家に入った。

「わざと、冷やしたいのか」

松は自分の手の甲を見た。

燦の若い肌とは違い、皺が目立っていた。


燦は、自分と同じ黒い瞳を見つめ、頬をすり寄せた。

「あなたは綺麗ね」

短い毛並みを撫で、太い首筋にすがりついた。獣の臭いが彼女の鼓動を早める。

「あたたかいわ」

彼は頭を下げてされるがままになる。

「お願い」

嫌なものを掻き消したい。その願いは、毎夜繰り返されていた。

燦が寝わらに膝をつくと、彼も膝を折った。

扉の隙間から差し込む光が、一瞬だけ、途切れた。


畑の外れに桑の木がある。

田子作は木陰に腰を下ろした。馬も縄を結ばれている。農作業の合間の休憩だ。

「夜は深いな」

独り言を言った。そばには馬しかいなかった。

「だが、月は明るい。見えなくていいものが、見えちまう」

田子作は、馬に顔を向けた。黒い瞳と視線が合った。田子作はぎょっとして目を逸らした。

「化け物め」

田子作は、太い枝に引っかけていた縄を引き絞った。くつわが引っ張られ、馬は口を大きく開けてもがいた。

「獣の分際で、燦と何をした!」

木に引っかけていた縄を、枝と幹に固く結びつけた。馬の力でも、容易には取れないようにする。

「見たんだぞ。お前と燦がやっているのをよ」

田子作はくわで馬の尻を叩いた。馬はいなないた。

「燦は、俺のもんだ。お前にはやらねえぞ」

血走った目の奥に、怒りと怯えがあった。田子作は狂ったように鍬を打ち据え、恐怖を追い出そうとした。鍬が毛並みを破り、肉を裂いた。

田子作の手も赤くなった。皮膚がこすれ、血が出る。汗で鍬がすっぽ抜けるまで、彼は容赦ない打擲ちょうちゃくを加えた。

やがて、馬は動かなくなった。痛みから逃れようと暴れたせいで、縄が馬体を締め上げていた。

田子作は荒い息をつき、瀕死の馬を蹴った。馬体が震えた。田子作は悲鳴を上げた。

あやかしめ! まだ生きているか。お前の化けの皮を剥いでやる」

泡を吹いた馬に、鉈を差し込んだ。血が飛び散り、馬の身体を染めた。

田子作は唇を引きつらせながら、鉈を入れ続けた。それは、馬が完全に息絶えるまで続いた。

「醜い姿だな。これで、燦も近づかないだろう」

赤い肉が剥き出しになっていた。目を覆うような醜悪な姿だ。獣の美しさはどこにもなかった。

「ひっ」

動かないはずの瞳がぎょろりと睨んだ気がして、田子作は尻餅をついた。

「驚かせるな」

瞳に血が垂れていた。色の変化で、目玉が動いたように見えたのだ。


「早かったでねえか」

松は荏胡麻の種を天日に干していた。

「今日は気分が悪い。ちと横になる」

田子作は家に入り、薄暗い部屋の中で身体を横たえた。眠ろうとしたが、馬の瞳が目蓋に浮かび、目を閉じることができなかった。

「妖め」

ぎりりと奥歯を噛み、ぶつぶつと何かを呟き続けた。


「お母さん。彼を知らない?」

娘の問いかけに、松は首を振った。彼が、何を指しているのか、松は知っていた。

「お父さんに聞いてみるがいい。昼間、一人で戻ってきたんじゃが、どうもふさぎこんでしまったようで」

燦の顔が白くなった。

「畑に行ってくる」

飛び出した娘の後ろ姿を見て、松はもう一度首を振った。

「もう、手遅れじゃないかね」

松は、田子作から血の臭いが漂っていることに気づいていた。

荏胡麻の作業に戻り、松は地面に蠢いていた虫を踏み潰した。


桑の木の下に、馬の変わり果てた姿を見つけ、燦は膝を折った。

「どうして」

醜い姿をさらした馬に、燦は抱きついた。首筋を撫でると、手が赤黒く染まった。頬をこすりつけると、ぬるりと肉の感触が伝わった。

燦は、着物が汚れるのも構わず、彼をなで続けた。そうすることで、綺麗な身体に戻ると信じていた。

「燦、離れろ!」

田子作が鉈を手に、怒鳴り声をあげた。

燦は父親をきっと睨み付け、首を振った。

「いや、近寄らないで!」

「離れるんだ」

鉈を振り上げる田子作を見て、燦はよりいっそう馬の亡骸に抱きついた。

「離れるもんか! お父さんこそ、どうして、あたしたちの邪魔をするの」

涙を流す娘を見て、田子作は怒りを覚えた。

「お前は、妖に魅入られてるんだ。ちゃんと、人間を見ろ。俺を見るんだ」

田子作は強引に娘を引き剥がした。燦は地面に転がった。

「死んでもなお、娘をたぶらかすか。こうしてくれる!」

鉈が、馬の首を抉った。田子作が狂ったように腕を振り下ろした。血と肉が飛び散り、田子作の顔を濡らした。

「やめて!」

田子作の鉈が、飛び出した娘の背に吸い込まれた。

「燦!」

娘の着物がたちまち赤く染まった。

田子作は鉈を取り落とし、馬の背に倒れた娘へと手を伸ばした。しかし、介抱の手は、途中で止まってしまった。燦の頭が斜めに傾いでいたのだ。絶命しているのは明らかだった。

桑の木の根元で、血の池が広がっていった。燦の血と、馬の血が混ざり合っていた。

「なんてことをしてしまったんだ」

田子作は叫び、頭を掻きむしった。

「すまん、燦よ。すまん」

手をついて謝っても、誰も答えない。

田子作は、涙が涸れるまで泣き続けた。


夫婦は静かに暮らし始めた。

田子作は、村人の伝手つてを頼り、新しく仔馬を買った。

まだ、農作業の手伝いには物足りないが、大切に扱うと決めた。厩と母屋の天井と壁を繋ぎ、いつでも様子を見られるようにもした。家族と同じような扱いだ。

まぐさは足りているか」

仔馬に娘と同じ名前をつけ、田子作は馬を可愛がった。本当の娘よりも、我が子に対する優しさに溢れていた。

松は、夫のまともでいて、まともでない態度には、何も言わなかった。

「洗濯に行ってくる」

燦がしていた仕事をしなければいけなくなり、松は忙しく働いた。

川に行くと、もうすっかり水が冷たくなっていた。

ようやく洗い終えて籠を持ち上げ、赤い手を揉んでいると、上流のほうで水音がした。魚にしてはやけに大きかった。

「川の主だろうか」

それならば見てみたいと、好奇心が湧いた。木々の間に身を隠し、そっと川面を覗き込んだ。

しばらくして、川面から突き出た岩の上に、何かが這い上ってくるのが見えた。

「ひっ」

松は悲鳴を上げ、腰を抜かした。

子供くらいの大きさの人間だ。ただ、普通ではない肌の色だった。顔も、身体も、真っ赤なのである。

冷たい水につかって赤くなったのではなかった。とても人間とは言えない異様な風体だ。鳥のくちばしのような口と、禿げ上がった頭、白目のない黒い瞳を持っている。

化け物は、一心に岩の肌を掻いていた。指の間に、水かきのような膜があった。

「か、河童」

松の声に、岩の上の河童が驚いて水に飛び込んだ。

「あの目は……燦?」

黒い瞳は、娘とよく似ていた。

「それとも」

頭に浮かんだ獣の姿を、松は打ち消した。

今日見たことを、すべて忘れようと思った。

何も見なかったことにすれば、静かに暮らせるのだ。

娘と、夫と、馬とが、どうなろうとも、自分だけは普通でいられるはずだった。

「何も見てない。見いない」

大きな水音がした。

「ひいっ!」

松は這いつくばって逃げようとした。呼び声を聞いたが、耳を塞いだ。

いるはずがない。

燦は、あの時、長い間冷たい水に浸かっていた。少し膨れた腹が、それで小さくなったのだ。

生きているはずがない。

再び、声がした。

「バアチャン」

水を掻く音がすぐそばで聞こえた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 元の話は割と美談っぽいのに和風ホラーに仕上がってますね。水の中って何か潜んでいそうで本能的な恐怖を感じます。 河童の子供はかわいそうですけど…
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