憑き人と悪魔
【簡単な説明】
ガルテン=平穏が取り柄の田舎街。東側を森に囲まれ、次の街まで数キロメートルはある。
悪魔=生き物の血肉や魂を貪る者。上級の悪魔は人に近い容姿をしている。
憑き人=魂などを悪魔などに食われ、己の体内でその者と共存、又は脳を浸蝕され全てを支配された者。どちらかの瞳が真珠を嵌め込んだように丸く、悪魔などはそこから出入りしている。
~etc.
此処はガルテン街。
四角い煉瓦建ての家が肩を揃えて立ち並び、そのほとんどが一階に店を構えている。
人間もまあまあ居て、他の種族の者も人に紛れて住む。
平穏が取り柄の、ただの田舎街だ。
此処で生きる者は他の村や町と同じように此処で生き、此処で結婚し、此処で家庭を営み、此処で死ぬ。
そんな繰り返し。
街の明かりが消え、月明かりが妖しく照らす夜。
一人の少女が窓から地面を見下ろしていた。
そこには誰も歩いておらず、ただ土があるのみ。
面白い物など何一つ存在していないのに、少女は濁った橙色の瞳と灰色の真珠を嵌め込んだような瞳で面白くなさそうにキョロキョロと辺りを見回す。
赤茶色の長い髪が窓際から垂れ、少女は整えられた前髪を息で吹き上げ暇つぶしをしている。
この少女は夜に誰かと待ち合わせをしているなどの約束事はしていない。
親の言い付けでもなければ、何か考え事をしている様子もない。
少女はただ、外を観ていた。
バサッ、
鳥が羽ばたくような音が聞こえた。
鳥類族ような大きな翼が羽ばたく羽音。
それは無音の街に向かっており、月光を背に黒い翼を広げていた。
昼間ならば誰もが空を見上げるが、深夜の為、皆寝静まっている。
当然少女もそれに気づき、小さな唇を半口開けて空を見上げた。
左の虚ろな瞳と右の何も映さない灰色の瞳が赤茶色の髪の下で揺れる。
その黒い物は確実に少女に近づいている。
そう直感した少女は窓を開けっ放しのまま、急いで中に入った。
その間も黒い物は少女との距離を縮める。
カタン。
黒い物は少女がいた窓に獣のように尖った爪をもつ足をかけ、その体に対しては小さい窓に獅子のような頭を潜らせ、長い爪を光らせる手を壁について中に入る。
よく見ると羊のように巻いた角が頭にある。
背中には大きな黒い羽が生えており、神話に登場しているかのような悪魔だ。
悪魔は窓際に設置されているベッドを跨ぎ、真っ正面で椅子に座る少女と対面した。
少女は足をパタパタと忙しなく前後左右に動かし、先程より打って変わり上機嫌だ。
人間なら普通、悪魔を見れば恐怖に顔を歪めるなり、絶叫なりするのだが、少女の反応はその真逆。
悪魔は遠巻きに少女を警戒した。
見つめ合う二者の異族。
それぞれ浮かべる表情の差はまるで炎と氷のよう。
少女は口元に笑みを浮かべ悪魔を伺っている。
悪魔は突っ立ったまま少女を見下ろす。
その距離は短い。
今すぐに悪魔が手を出せば、少女は逃げる隙も無く、悪魔に襲われ、魂も体も食い尽くされてしまうだろう。
何故そうしないのかは、目と鼻の先にいる少女の不気味さが、悪魔の頭の中で酷く警報を鳴らしているからだ。
沈黙が続く中、少女は悪魔が何も話さない事を不思議に思ったのか、可愛らしく頭を傾げ、
「どうしたの?」
と見た目相応の愛らしい声で尋ねた。
しかし悪魔は黙っている。
少女は伝わらなかったと思い、再度
「どうしたの?何処か痛いの?」
と心配そうに悪魔に問い掛ける。
すると悪魔は首を左右に振り、
「何も無い。」
とだけ答えた。
それだけの事なのに少女は笑顔を咲かせ、
「そっかぁ。」
と語尾を弾ませて言う。
この警戒心の無さ、悪魔は己や同胞以上に少女を気味悪いと感じた。
悪魔が腕を一振りすれば少女の命は呆気なく散る。
悪魔がその喉に食らいつけば、少女は死ぬ。
代わりに悪魔の腹は満たされ、また次の街や村で食料を探す。
ただ、それだけ。
なのに、悪魔は小さな命の前で躊躇っている。
それが自分でもわからない。
悪魔に情など無い。
それがさっき会ったばかりの人間なら尚更。
人間など所詮食料以外、ただの強力なエゴの塊だ。
他の生き物もそうだが、悪魔は一番は人間だと思っている。
「…。」
言い表せない強い威圧が、少女の方から悪魔に向けられている。
本能が告げる、これは己より強い。
こんなちっぽけな物に。
片手で簡単に潰せる物なのに。
血や魂を吸い尽くせば簡単に死ぬ物なのに。
自分は何をやっているのか、悪魔は自問自答を繰り返す。
それでも答えはみつからず、暫く己に同じ質疑応答をループさせた。
延々と少女をほっといて考えている悪魔を楽しそうに観察していた少女は、何を思いついたのか
「あ!そうだ!」
と声を上げた。
悪魔はそれに気づき意識をそちらに向ける。
少女は椅子から立ち上がり、小走りで部屋の隅に置いてあった鞄を両手で持ち上げ、悪魔の前に持って来る。
悪魔はベッドに腰を下ろし、目だけ少女を注意する。
少女は覚束ない足取りで荷物を運び終えると、ニッと人懐っこい笑顔を悪魔に見せた。
そして再び椅子に座る。
アグシュは街の者にするような明るい声で
「あたしアグシュ。明日から旅に出るの!お父さんとお母さんには秘密だよ?
悪魔さんの名前は?」
「ロホだ。」
「ロホかぁ!えへへ~。」
名前を教えてもらったのが嬉しいのか、ニヘラと表情を崩す。
荷物に目を落とすと、見た目は旅人が使うような肩掛け鞄で、アグシュが持つには大きい。
鞄の上には大きめのコートと、同じ色の帽子が乗せられていた。
小さな部屋を見渡せば、服は部屋の服掛けにかけられている。
ロホがそうしている間、頼んでいないのにアグシュは一方的に旅についての計画やら、準備の苦労やら、目的やらを語っている。
「ずっとね、うんと遠い所に行きたいの!あたしが見た事の無い物を見て、食べて、色んな国を訪れたいの!」
濁った瞳をキラキラさせて熱くかたるアグシュ。
朝日が昇る頃に足音を忍ばせて家を出るらしい。
ロホは正直、アグシュの話に興味が無かった。
ただ腹の虫が鳴ってしまわないか、それが心配だった。
空腹に堪える事は、ロホは苦手だ。
苛々するし、腹の虫が煩いし、力が足りなくなるし、何より、腹を満たした時のあの満腹感は堪らなく、背筋が震えるほど気持ちが良いのだ。
快感とも呼べるあの充実した時間。
獣とは違い、人間の体は悪魔にとって甘美。
それがまたロホを酔わせる。
食欲とは、恐ろしく素晴らしい生存欲だとロホは信じている。
…だが、その喜びが味わえない今は、苦痛でしかない。
もう欲に任せて襲ってしまおうか。
ロホは今だ喋り続けるアグシュの前で立ち上がる。
アグシュはそれに気づき、動かしていた唇を止め、キョトンとした顔で背の高いロホを必然的に上目遣いで見上げる。
その愛くるしい顔は、今のロホには通用しない。
危険を知らせる警報を、今は取り敢えず無視した。
スッと人差し指をアグシュに向け、
「今からお前を喰らう。抵抗は諦めろ。」
と残酷な言葉を宣言した。
アグシュはポカンとした表情でロホを見上げた。
状況が読み込めていないらしい。
ロホはもう限界だった。
早く腹を満たし、食後の余韻に浸りたいのに必死。
一歩、アグシュとの間を詰める。
アグシュは動かない。
慌てる様子もなければ、怖がるそぶりさえ見せない。
人間では“可笑しい”反応にロホはもう不審に思わない。
食べる、ただそれだけで頭はいっぱい。
「ロホ?」
アグシュが名を呼んだ。
ロホは構わずアグシュに手を伸ばす。
もう後僅かで食事にありつける、筈だった。
―だが、
グワッ!
「?!」
突如、アグシュの体から灰色の“何か”が現れ、二者の視界を遮り、ロホは反射的に後ろに跳びはねた。
“何か”はアグシュの右目と同じ灰色でアグシュを包み隠し、ユラリとその実体を現す。
ロホの目の前には、灰色の翼と髪を持つ、黒い瞳の男。
顔と胴体は人間と同じだが、他はロホと変わりなかった。
ロホの黒い尻尾とは違い、黒い瞳の男のは夜でも映えるほど白い蛇だった。
容姿から推定して二十歳くらい。
短く切られた髪の男は、頭に山羊のように尖った角があり、ロホと同じ尖った耳がある。
男はロホと同じ悪魔だろう。
…だが、ロホとは位が違いすぎる。
人の姿になれるという事は、相当上の位。
下位のロホなんかでは太刀打ち出来ない。
先程のアグシュとロホと同じように、簡単に殺される。
自分は殺されて死ぬ、全身がそう告げていた。
「…。」
目の前の男はその場に静かに佇む。
しかし、視界に捕らえたロホに、短く切られた前髪の下にある整った顔をしかめた。
有無を言わせぬ威圧はこの男のものだったのだと、激しい頭痛がするくらい本能が危険だと知らせていたのも、それを見て見ぬフリをし、欲に負けた事を後悔しても、全て後の祭り。
後ろの窓が開いているが、逃げようとしても背を向けた時点でロホの死亡は確定だろう。
手を出してはならない物に手を出した罰を、ロホは奥歯を噛み締め、受け入れる覚悟を決めた。
ヒョコ、と男の後ろでアグシュが顔を出す。
灰色の右目はぽっかりと穴が空いたように全部真っ黒に変わり、正直気味が悪い。
男はロホを視線だけで捕らえ、アグシュを背に隠す。
するとアグシュは反対から顔を覗かせ、今度は男を見上げる。
男はずっとロホを警戒しており、アグシュに顔を向けない。
ロホは気まずそうに顔を床に向けている。
アグシュは無言の二者をキョロキョロと交互に見回し、何を思ったかロホの元に駆け寄った。
その行動に驚く二者だが、複数の視線を浴びる彼女はロホの手を引いた。
そして男を指差して
「ロホ!あれはナザミ!えっとねぇ、アグシュの魂?を半分食べちゃって、アグシュの右目から体を出入りしているんだっけ?アグシュのね、親友なの!」
「アグシュ、こちらに来い。」
「ねえねえナザミ!ロホも旅に連れて行こ?アグシュ一人じゃ寂しいもん!」
ただをこねる子供のようにロホの腕に抱き着いて離れない。
ロホはアグシュの言葉に驚愕し、何より、少女と触れた事でやっと魂が不自然に欠けているのがわかった。
子供なのに体温が死者のように低い事も。
片頬を膨らませて拗ねるアグシュは右目を除けば普通の子供なのだが、何故“憑き人”だと気づかなかったのだろう。
何かが体内に存在し、共存、又は支配されている、そういう類の人間はロホでも大抵わかる。
それは上位の物に手出しして殺されない為に備えられた防衛本能。
弱い物はそれに逆らわず、かつ、的確に食事にありつく。
そうやってロホも此処まで生き延びてきたのだ。
…しかし、今回はレベルが高すぎてロホが気づかなかった。
運が悪かった、と言ってしまえばそれでおしまい。
だが、アグシュがとんでもない発言をしたので、ナザミもロホも茫然と少女を見下げる。
唯一の人間は両手に悪魔の手を取り、お互いの顔を確かめる。
彼女は本気だろう。
子供とは素直で真っ直ぐな生き物だ。
ナザミはギンッ!と己より小さいロホを強く睨み据えれば、悪魔はビクッ!と肩を跳ね上がらせ硬直する。
蛇に睨まれた蛙、悪魔に睨まれた人間、今まさにその蛙と人間がロホである。
ナザミは目をそのままにアグシュをロホから引きはがし、片手にフワリと黒い首枷を出す。
長い鎖を垂らせた、人間には大きいが、ロホくらいの大きなならピッタリだろう。
ロホは何をされるのか理解し、わなわなと体を震わせ、首がちぎれそうなほど左右に振り続けるが、ナザミはきかない。
「汝、どちらかが朽ちるまで我に忠誠を。」
ナザミは唱え終えると、ロホの首に向けて首枷を放った。
ガチャン!ジャラジャラジャラ。
長い鎖を垂らした首枷がロホの首を飾る。
何が起きたのか、衝撃が強すぎてロホにはわからなかった。
だが、
「…っ…ぁあああ…ああああああ……」
絶望の言葉が形にならずロホの口から漏れる。
全身を震わせ、泣く。
これは、地獄に伝わる忠誠の枷。
一度着けられたら最後、死ぬまで外せない。
そして、最期まで主の命に従い、服従を強いられる。
逆らう事など叶わない。
主の命は絶対、意思が逆らおうとも、体は勝手に動く。
そういう同胞を、ロホは何百と見てきた。
「ふん、喜べ。上位の我の従者だ。アグシュにもう何もできまい。死ぬまでアグシュと我に仕えろ。」
「ロホも一緒?そうなの!?やった!」
無邪気な笑顔で抱き着くアグシュに、ロホは何も出来ず、ただ涙を流した。
ナザミはまた鼻を鳴らし、直ぐさま姿を消した。
アグシュの右目が綺麗な灰色に戻る。
―しかし、ロホは今、それを気にしている余裕は無かった。
軽率な判断で後に退けない過ちをしてしまった事を、少女の一言のせいでこうなってしまった事を、これから自分に一生自由は無い事を、人間が食べられなくなるという事を、全ての後悔や悲劇や絶望を受け止める時間が、欲しかった。
その隣でアグシュが着替えている事さえ、ロホは気づいていない。
長い鎖がジャラリと床に着いている。
冷たい物が首を戒めている現実。
窓からは、もうすぐ朝日が顔を出そうと仄な光が窓ガラスを反射し、更に鎖を光らせた。
「ではでは、街の皆さん!行ってきまーす!」
街から少し離れた丘の上。
アグシュは両手を上に伸ばして朝日の光を全身に浴びる。
長い赤茶の髪は後ろで三つ編みをし、先をリボンで結んでいる。
コートと同じ色の帽子を被り、大きめのコートの先は手が出しやすいよう折られている。
肩にはあの大きめの肩掛け鞄。
可愛らしい容姿のアグシュの後ろに、アグシュの部屋の白いカーテンをとって全身に纏った、見るからに怪しい物はロホである。
足元には首枷の鎖が纏わり付き、動く度にジャラジャラと音をたて耳障りだ。
二者の表情は希望と絶望に満ち溢れ、だが同じ空を見上げている。
今日は洗濯物が早く乾きそうなほど晴れ渡っている。
アグシュは顔を緩め、ロホに振り返る。
「出発進行ー!」
布の間からロホの手を取り、悪魔を引き連れて歩く。
身長差がありロホは前屈みのまま無言で従う。
アグシュは次の街に着くまで、一度は自分を殺そうとした手を離す事はなかった。
―翌朝、ガルテン街で少女が行方不明になるという事件が起こったが、今だ少女の消息は不明である。
二者はこれからどのような旅路を歩くのでしょうか。そして、アグシュとロホに絆は芽生えるのか。二者の未来に乾杯。
ありがとうございました。