江戸編 第十話『百日草の籠城』
霧が深く立ち込める夜だった。
それは湿り気を帯びた土の匂いと、鉄錆の混じった血の臭いが混ざり合った、死の溜まり場のような場所。
黒ずんだ城門の前で、夜の帳を切り裂くように杖の音が響く。
カツ、カツ、と乾いた音が石畳を打つ。
死装束の旅人は外套を翻し、霧の中に身を溶け込ませるようにしてその場に現れた。
手に持つのは、いましがた摘み取ったばかりの瑞々しい百日草の花一輪。
死の気配は、いつでも私の好奇心を刺激する。
城内からは、主を失い、行き場を失った魂の断末魔が静かな悲鳴となって漏れ出していた。
懐からぼろぼろに裂けた古文書を取り出し、誰に聞かせるでもなく呟く。
「さて、昔話を一つ聞かせてやろう。血と無常、そして、あまりにも矮小な執着が織りなす幕引きの話を」
城はすでに死に体だった。
敵の怒号が壁の外を埋め尽くし、内側では絶望に支配された侍たちが、誇りを守るためと称して我先に腹を切っている。
死の宴だ。
しかし、この狂乱の最中にあって、一人だけ毛色の違う男がいた。
足軽の与平だ。
彼には、家名も、忠義も、あるいは生き残りたいという生存本能すら欠落していた。
彼が命を賭して守っていたのは、焼かれゆく城門の脇、石垣の裂け目に根を張る一輪の百日草であった。
「……あいつには、世界がこの花と、それ以外の雑音でしか見えていねえのさ」
死装束の旅人は袋から取り出した酒杯を空に掲げ、まだ暖かな血の匂いが漂う風に献杯する。
城主が自害し、家老が首を並べようとも、与平は動かなかった。
彼は泥にまみれた槍を握りしめ、城門の守護神のように立ち尽くしていた。
敵兵がなだれ込んでくる。
彼らは城を奪い、略奪し、最後には焼き払うつもりだ。
だが、与平は笑っていた。
敵が槍を向けてくれば、その花を踏ませぬよう、軽やかな動きで喉元を突き刺す。
その姿は、まるで執着という名の鎖に繋がれた亡者そのものだった。
足下に転がる死体の山が増えていく。
しかし、彼の眼差しは常に、背後の百日草に注がれている。
風が吹くたび、花弁が揺れる。
それだけで、彼は充足していた。
天下の行方など、彼にとっては百日草の花弁一枚の揺れにも値しない。
「見事な滑稽さだな。死神も呆れて首を振るってもんだ」
旅人は杖をつき、死線の際で踊るその道化の物語の行く末を語るために、少しだけ霧を晴らした。
「退け! そこは通さぬ」
与平の声は掠れ、ひどく乾いていた。
城門前に押し寄せた敵兵の一団が、嘲笑を浮かべて立ち止まる。
「おいおい、見てみろよ。たった一人でこの城を守るつもりか? 主君も首を落としたというのに、何の未練がある」
敵の指揮官と思しき男が、腰の太刀を抜き放ちながら鼻で笑った。
「未練などない。ただ、この花が咲いている間は、ここは私の場所だ」
与平は槍先を真っ直ぐに敵の喉元へと向けた。
彼の瞳には、敵の軍勢など映っていない。
ただ、背後の石垣に寄り添う、薄紅色の百日草だけが焼き付いている。
「花だと? 笑わせるな。この城は間もなく灰になる。貴様もろともな!」
指揮官が合図を送ると、数名の兵が与平に襲いかかった。
槍が交差し、火花が散る。
しかし、与平の動きは驚くほどに無駄がなく、そして静かだった。
彼は自分の身を守るためではなく、花への衝撃を最小限にするための体捌きで戦っていた。
兵の一人が与平の脇腹を裂いた。
鮮血が石畳に飛び散る。
しかし、与平は痛みに顔を歪めることもなく、むしろ花が血の飛沫を浴びなかったことに安堵の表情さえ浮かべている。
「守らねばならぬ……。まだ、咲いていろ」
彼が独りごちた瞬間、横から突き出された槍が敵兵の胸を貫いた。
与平は返り血を浴びながらも、花に覆いかぶさるようにして敵の死体を踏み越えた。
敵勢は数で勝っているにもかかわらず、一人の足軽の放つ異様なまでの拒絶に気圧され、足踏みをしていた。
彼らにとって、城を落とすことは目的だが、与平にとって、城はただの背景に過ぎない。
「貴様ら、何をしている! 早く火を放て!」
後方から指揮官の怒号が飛ぶ。
城門の向こう側から、すでに火の粉が舞い上がり始めていた。
与平は槍を捨て、両手で百日草を囲うようにして、迫りくる火炎の方を向いた。
「ああ、これで誰にも邪魔はされん」
彼が口元に浮かべた笑みは、この世のものとは思えないほど穏やかで、そして狂気じみていた。
城門に火の手が回った。
燃え盛る木材が音を立てて崩れ落ち、空は黒煙と橙色の火柱に支配される。
熱風が頬を焼き、立ち込めていた霧を瞬く間に蒸発させていった。
与平は、その火炎を背に受け、まるで神殿の番人のように佇んでいた。
「くそっ、あの足軽め! 」
敵の指揮官が叫ぶ。
与平は炎に包まれようとする城門の真下に陣取り、両手で一輪の百日草を包み込むようにしてうずくまっていた。
周囲の敵兵たちは、そのあまりの異常さに気圧され、誰一人として近づこうとしない。
彼らにとって、死は恐怖の対象でしかないが、あの男にとって、死は単なる「幕引き」の背景に過ぎないようだった。
その時、地響きのような轟音と共に、味方であるはずの軍勢の一隊が城門の外側へと躍り出た。
彼らは城を守るために来たのではない。
敵の火計がこの門から広がることを察知し、あらかじめ仕掛けておいた油を撒き散らすためだ。
「門を壊せ! 城門ごと焼き払え! それが火の蔓延を防ぐ唯一の手だ!」
味方の将の声が響く。
彼らは躊躇なく、城門の周囲に火矢を放った。
「待て! まだ中に――!」
敵兵の一人が制止しようとしたが、間に合うはずもない。
降り注ぐ無数の火矢が城門を貫き、木造の門は瞬時に爆ぜるような火球となった。
与平はその光景を、背中に感じていた。
熱気が彼の衣服を焦がし、皮膚を焼き切る音がする。
それでも彼は笑っていた。
槍を握りしめ、泥と血に汚れた手で、花を優しく抱きしめたまま。
「おお、これで……誰にも、踏ませはしない」
彼の声は、崩落する城門の轟音にかき消された。
火の粉が舞い、彼を飲み込み、紅い百日草が炎の中で一瞬だけ、黄金のような輝きを放つ。
それはあまりにも不条理で、あまりにも静かな結末だった。
天下を争った武将たちが死に絶え、城という権力の象徴が灰となって消えゆく中、一人の足軽が守りたかったのは、ただの一輪の花。
そしてその花は、味方の手によって、城門と共にこの世から消し去られたのだ。
「滑稽だ、あまりにも滑稽で、声も出ねえ」
死装束の旅人は立ち上がり、杖を石畳に強く叩きつけた。
カツ、と鋭い音が炎の咆哮を切り裂く。
与平の姿は、すでに崩れ落ちた梁の下で黒い炭と化し、その腕の中にあった花もまた、灰となって空に舞い上がった。
炎が収まる気配はない。
城門があった場所には、ただ黒々とした焼け跡と、くすぶる炭の匂いが残るだけとなった。
味方の部隊は目的を達成したとばかりに、振り返りもせず霧の向こうへと去っていく。
彼らにとって、あそこに一人の足軽がいたことなど、歴史の記録にすら残らない些細な出来事に過ぎないのだ。
旅人は焼け残った石畳をゆっくりと歩いた。
杖の音が、静まり返った戦場に「カツ、カツ」と虚しく響く。
足元には、死んだ敵兵の兜が転がり、燃え尽きた木材がまだ赤い熱を帯びている。
「さて……」
旅人は杖先で灰を軽く掻き分けた。
そこには、与平が最期まで守り抜こうとした百日草の成れの果てがあった。
花びらは跡形もなく、しかし茎のわずかな炭化した欠片が、彼がそこにいたという唯一の証明として残されていた。
私は古びた袋から小さな酒杯を取り出し、焼けた土の匂いに向かって酒を注ぐ。
「お前は幸せだったかもしれんな。この乱世で、天下を争うことなく、ただ一輪の花の運命だけを背負って逝けたのだから。誰の野心にも加担せず、ただ己の『花』を守り抜いた。見事な幕引きだ」
皮肉混じりの敬意を込めて、私はその言葉を灰に向けて落とした。
彼が見た百日草の最期が、味方の放った火矢によって引き起こされたものだという皮肉を、彼が知ることはもうない。
不条理こそが、この世の理であるというのに。
私は懐から、いましがた摘んできた別の百日草を取り出した。
それを黒く焼けただれた石畳の裂け目に、そっと添える。
生と死が隣り合わせで揺れる場所。
「笑い話にもならねえな。だが、そんな愚かさこそが、語り継ぐに値する滑稽譚というものさ」
死装束の旅人はゆっくりと振り返り、霧が立ち込める夜の闇へと足を踏み出す。
背後で、燃え残った門の梁が音を立てて崩れ落ちた。
それは、この小さな物語の最後を告げる拍手のようでもあった。
冥界と現世の境界は、今日もどこかで曖昧に溶け合っている。
旅人は杖を突き、次の死の気配を探して歩く。
また別の場所で、誰かが死にゆく者の執念を抱え、滑稽で静かな「幕引き」を待っているはずだ。
私は満足げに口元を歪め、夜の深淵へと消えていく。
杖を硬く凍りついた石畳に突き立てた。
カツ、と乾いた音が夜の静寂を切り裂く。
次なる話の、幕が上がる。
滑稽で、哀れで、そして少しだけ羨ましい。
そんな彼の「幕引き」を、死神の杖の音とともに記しました。




