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江戸編 第一話『早抜きの侍』


 天を突くような鋭い岩肌が連なる、箱根の山道。


 霧が深く立ち込め、昼なお暗いその道筋を、死装束の旅人が杖をついて歩いていた。

 彼は通りすがりの炭焼き小屋に腰を下ろし、腰の飯袋からぼろぼろに裂けた古文書を取り出す。



 「さて、昔話を一つ聞かせてやろう。……笑い話にもなりゃしねえ、血の匂いのする話だ」



 舞台は、江戸の盛りを過ぎた頃の宿場町。


 そこに一人の浪人がいた。


 名は佐々木慎之介。


 一見すれば、無精髭を蓄え、襟元をだらしなく崩した、どこにでもいるような冴えない浪人である。

 だが、その腰に差した二本差しだけは、研ぎ澄まされた冷徹な光を放っていた。



 「へへ、お代官様、そいつはあんまりじゃねえか。小鳥のさえずりより、酒の肴の方が身に沁みるってもんだ」



 慎之介は、薄汚れた居酒屋の縁台で、町を牛耳るヤクザの博徒連中を相手に、下卑た笑いを浮かべていた。


 彼の手には、飲みかけの濁り酒。


 その傍若無人な態度は、荒くれ者たちの逆鱗に触れるのに十分だった。

 博徒の親分が、どすを半分抜き、慎之介の喉元へ突きつける。



 「おのれ、どこの馬の骨とも知れぬ風来坊が。誰に向かって口を利いてやがる」



 周囲には、七人の屈強な用心棒たちが抜き身の刃で囲い込む。


 通りがかった町人たちは、悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 しかし、慎之介は微塵も動じない。


 むしろ、面白がっているかのように口角を歪め、空になった酒杯を指先で弄ぶ。

 その仕草には、不思議と隙がなかった。



 「おいおい、そんなに怒ると皺が増えるぜ。……で、誰が一番先に地獄へ落ちるんだ? 俺はちと、忙しいんでね」



 沈黙が落ちた。


 どんよりとした曇天の下、時が止まったかのような静寂。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように消え、風が吹き抜ける音だけが響く。


 用心棒の一人が、獲物を狙う獣のような目で踏み込んだ。


 刹那、慎之介の表情から「ふざけた浪人」の仮面が剥がれ落ちる。

 彼の瞳に宿ったのは、修羅の冷徹さ。


 抜刀の気配すら感じさせぬ神速の業が、今、解き放たれようとしていた。



 「これが、最後の幕開けだ」



 慎之介は杯を宙に放り投げた。


 杯が地面に落ち、乾いた音を立てるのと同時。

 

 銀光が走る。


 瞬きよりも速い一閃。


 用心棒の首筋から鮮血が噴き出し、どさりと重い音が響く。

 しかし、彼はそこで止まらない。


 流れるような身体捌きで、続く二撃、三撃。


 まるで呼吸をするかのように、当たり前のように、慎之介の刀は周囲の男たちを次々と屠っていく。

 彼が歩く先々で、血の花が舞い散る。


 その殺陣は、あまりにも華麗で、そしてあまりにも残酷だった。


 数秒後。


 残るは、震えが止まらない親分一人だけ。

 慎之介は血を払うことすらせず、刀を肩に担ぎ、再びあの薄ら笑いを浮かべて親分に歩み寄った。



 「さて、酒の続きをしようか」



 勝負はついた。


 そう誰もが思った。


 しかし、この宿場の端、日陰の石垣に、まだ誰も気づいていない「影」が一つ、じっと息を潜めていた。

 ――それは、無名の、まだあどけなさを残した若造の侍だった。






 血の香りと共に、慎之介は再び居酒屋の縁台に腰を下ろした。

 血飛沫を浴びてなお、その着流しは不思議なほどに乱れず、ただ手元の濁り酒を静かに飲み干す。


 傍らに転がる用心棒たちの骸は、まるで最初からそこに石像として置かれていたかのように、静まり返っていた。



 「……美味いな。死に際の連中の汗が混じった酒ってのは、どうしてこうも格別なんだ」



 慎之介は喉を鳴らして笑った。


 博徒の親分は腰を抜かし、泥水を這いずるようにして退がっていく。

 もはや彼に反撃の意思など毛頭ない。


 この宿場の誰もが、慎之介の腕を「人外」と恐れ、誰もその背に回り込もうとはしなかった。


 そんな中、慎之介の視線だけは、わずかに宿場の出口、入り口へと向いていた。

 彼には分かっていた。


 自分という「化け物」の首を狙う野心家が、この宿場に潜んでいることを。


 日暮れ時。


 町は提灯の明かりに照らされ、怪しげな影を伸ばし始める。

 慎之介はゆっくりと立ち上がると、特に目的地もなく、薄暗い裏路地へと足を踏み入れた。


 路地裏には、古びた長屋が立ち並んでいる。


 かつて自分が「長屋に咲く花」と呼んで愛した、艶めかしい生活の匂いが漂う場所だ。

 路地の突き当たりで、彼は足を止めた。


 そこには、一人の若者がいた。


 年は二十にも満たないだろうか。


 身なりは質素を通り越し、あちこちが綻びている。

 腰に差した刀は、拵えこそ地味だが、手入れだけは執拗なまでに丁寧に行われていることが見て取れた。



 「よう、坊主。そこで何をしてやがる」



 慎之介がわざと大きく欠伸をして見せる。


 若者は返事をしない。


 ただ、路地の壁に背を預け、虚空を見つめている。

 その瞳には、恐怖もなければ、憧れもない。


 あるのは、ただ静かな「無」だけだった。



 「俺を待っていたのか? それとも、ただ道に迷っただけか」



 「……あんたの背中を見ていた」



 若者の声は低く、そして驚くほど澄んでいた。



 「あんたの刀さばき、さっきの表通りで見ていたよ。速いな。だが、速いだけだ。あんたの刀には、『迷い』がある」



 「迷い、か」



 慎之介は鼻で笑った。


 迷いなど、とっくの昔に三途の川の向こうへ捨ててきたつもりだった。

 しかし、若者は一歩だけ踏み出した。


 その動きには、全くの無駄がない。


 重心は低く、地面に根を張る木々のように微動だにしない。慎之介は直感した。

 こいつは、自分が今まで斬り伏せてきた荒くれ者たちとは違う。


 技術の深淵、あるいは「命の重さ」を、別のかたちで知っている人間だと。



 「坊主、名前はなんてんだ」



 「……名乗るほどのもんじゃない。明日には忘れられる名前だ」



 若者はゆっくりと鞘に手をかけた。

 その瞬間、路地の空気が凍りつく。


 慎之介は、思わずニヤリと笑った。


 それは、獲物を前にした獣の笑みであり、同時に「ようやく死に場所が見つかった」と安堵する男の顔だった。



 「そうか。なら、せめて俺の刀の錆になれ。死んだら、冥土の土産に俺の剣術の極意を教えてやるよ」



 慎之介は腰の刀をわずかに抜き放った。


 路地の薄闇の中で、二人の間合いがゆっくりと詰まっていく。


 風が止んだ。


 長屋の窓から漏れる微かな灯火が、二人の影を長く、そして鋭く路地に投影した。

 これは、誰にも知られることのない、しかし二人の男にとっては世界の全てを懸けた決闘だった。


 慎之介は、若者の瞳の奥に、自分自身が見失ってしまった「純粋な殺意」を確かに見て取った。






 死装束の旅人が、炭焼き小屋で炭をくべる。



「……そこから先は、見ている方が目を背けたくなるような、あまりに淡々としたやり取りだったよ」






 路地裏の湿った空気が、火花散る前の静寂で満たされる。


 慎之介は、自らの殺陣がこれまで磨き上げてきた「華」であることを自覚していた。

 敵をいかに美しく、いかに派手に絶命させるか。


 それが彼の人生のすべてであり、誇りだった。


 対する若者は、対照的だった。


 彼は一切の無駄を削ぎ落とし、ただ敵の急所を突くことだけに特化した、いわば「死神」のように佇んでいる。



 「……行くぜ」



 慎之介が先に動いた。


 長年培った、相手の盲点をつく変幻自在の抜刀術。

 初太刀は、まるで空から降る雷光のように若者の眉間を切り裂かんと迫る。


 しかし、若者は驚くべきことに、その太刀筋を一切避けなかった。

 ただ、一歩だけ踏み込み、慎之介の腕の内側へと懐深く潜り込んだのだ。



 ——速い。



 慎之介の脳裏に、初めて警鐘が鳴る。


 だが、彼にはまだ余裕があった。


 若者が狙ったのは自分の胴。


 しかし、慎之介は瞬時に刀を返し、その攻撃を受け流す。

 金属同士が激しくぶつかり、火花が路地を照らす。


 殺陣は、そこから「舞」へと変貌した。


 慎之介が攻め、若者が受ける。


 あるいは若者が攻め、慎之介が華麗な足捌きでかわす。

 路地裏の狭い空間を、二人の人影が幾度も交差する。


 慎之介の刀は、若者の頬を掠め、若者の切っ先は、慎之介の襟元を切り裂いた。

 高笑いを上げながら、慎之介は確信していた。



 (いい、実にいい! これだよ、これこそが俺の求めていた最期の宴だ!)



 しかし、転機はあまりに唐突に訪れた。


 慎之介が、若者の懐を完全に捉えたと思った瞬間である。

 彼は、これまで何百人もの猛者を葬ってきた得意の「逆袈裟」を放った。



 勝負あり――。



 そう確信し、慎之介の口元が緩んだ、その刹那だった。

 若者の瞳に、これまで宿っていた静かな光が、パチリと消えた。


 それは恐怖ではなく、ただの「確認」の眼差しだった。


 若者は、慎之介が逆袈裟を放つために身体を大きく捻ったことで生じた、右脇下のわずかな空隙に、針のように細く研ぎ澄まされた短刀を突き立てたのだ。



 ——え?



 慎之介の身体が、硬直する。


 痛みは、なかった。


 ただ、全身の力が、まるで栓を抜かれた水槽のように、一気に足元から抜け落ちていく感覚。

 背後からの刺突は、彼の背骨を砕き、肺を貫いていた。


 慎之介の刀が、カラリと地面に落ちる。


 彼は、信じられないものを見る目で、自分の脇腹から突き出した若者の短刀の柄を見つめた。

 これまでどれほど無茶な殺陣をこなしても、一度も許さなかった「隙」。


 それを、この若者は見逃さなかったのだ。



 「あんた……何者だ……」



 慎之介の口から、どす黒い血が溢れ出る。


 若者は短刀を静かに引き抜いた。


 慎之介の身体が、操り人形の糸が切れたように、ゆっくりと地面へ崩れ落ちる。

 かつてこれほどまでに「あっけない」最後を、彼は想像したことがあっただろうか。


 華やかな死に様を求めていたはずの彼にとって、この唐突な終焉は、あまりにも滑稽だった。



 「誰でもいい」



 若者は短刀の血を拭うこともなく、ただ一言だけそう吐き捨てた。

 その声には、一切の情動がない。


 慎之介が死にゆくことに対しても、彼を殺したことに対しても、何の感情も抱いていない。

 路地裏に、冷たい風が吹き抜ける。


 慎之介の視界が、急速に色を失っていく。


 あれほど愛した酒の味も、あどけない女たちの笑い声も、すべてが遠ざかっていく。

 彼は血に濡れた地面に這いつくばり、最期に空を見上げた。


 どんよりとした曇天。


 死装束の旅人が語る通り、そこには何のドラマも、何の奇跡もなかった。

 ただ、静かに、誰かに忘れ去られるように死が訪れるだけ。



 「……笑い話にもならねえな」



 慎之介は、誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

 その言葉は、路地の闇に吸い込まれ、二度と誰の耳にも届くことはなかった。


 慎之介の意識は、路地の冷たい泥の中で急速に冷えていった。


 華々しい殺陣の幕は閉じ、残されたのはただの「朽ちゆく肉塊」という現実だけだった。

 若者は、死にゆく慎之介を振り返ることさえせず、路地の奥へと淡々と歩み去っていく。


 背後から刺すという、剣客としては最も屈辱的で、しかし最も確実な「仕事」を終えた若者の足音は、霧雨の中に溶け込むように小さくなっていく。


 慎之介は、最後に残った力で指先を動かし、地面に落ちた折れた酒杯を探した。


 指先が冷たい陶器に触れる。


 それを握りしめると、どこからか、遠くで祭囃子の音が聞こえた気がした。



 (……ああ、そうか。俺はずっと、この「拍子抜け」を待っていたのか)



 彼は笑おうとした。


 しかし、肺を貫かれた身体からは、笑い声どころか、泡立つような呼吸音しか漏れてこない。

 あれほどまでにこだわった「刀の重み」も「己の矜持」も、今や握りしめた酒杯の欠片よりも軽い。


 天下に名が轟くこともなく、壮絶な最期として語り継がれることもない。


 ただ、誰にも知られず、路地裏のゴミのように忘れ去られる。

 そのあまりの理不尽さが、死の直前になって、たまらなく愛おしく感じられた。


 霧がより濃くなり、視界の隅が真っ白に染まる。


 ……そう、本当に笑い話にもならねえ。


 人生という名の、辻褄の合わねえ出鱈目な演舞。


 その幕引きとしては、これ以上ないほどに「粋」じゃないか。


 若者の足音が完全に消えた。


 路地裏に再び訪れた静寂は、死者にとっての完璧な劇場だった。


 慎之介の瞳から、濁りが消える。


 最期に見上げた空には、いつの間にか厚い雲の切れ間から、冷たい月光が差し込んでいた。

 その淡い光に照らされ、泥にまみれた着流しが、まるで薄化粧を施した舞台衣装のように美しく見えた。


 彼は最後の一息を深く吸い込み、ふっと力を抜いた。


 指先から酒杯の欠片がこぼれ落ち、カラリと乾いた音を立てて転がる。

 それが、天下を轟かせたはずの凄腕の浪人、朽木慎之介という男の、最後の証だった。






 路地裏の角では、死装束の旅人が杖を突き、静かに立ち上がる。



 「さて。見事な踊りだったな、慎之介」


 旅人は、死体となった慎之介の傍らに、路地に咲いていた一輪の白菊をそっと置いた。

 風が吹き抜け、路地を舞う霧が、慎之介の姿をゆっくりと包み込んでいく。


 気がつけば、そこには誰もいなかった。


 あるのは、ただ静かに降る夜露と、何事もなかったかのように明けていく夜明けの気配だけ。

 これが、黄泉路へと続く物語の、最初の一歩である。


 宿場町はまた明日になれば、新しい旅人たちで賑わい、そしてまた誰かが、名もなき場所で物語を終える。


 慎之介という「早抜きの侍」の物語は、こうして誰の記憶にも残ることなく、しかしこの霧深い黄泉路の歴史の、確かな「一ページ」として刻み込まれた。

 旅人は霧の向こうへと歩き出す。


 杖の音が、カツ、カツと、冥界へと続く石畳を叩き始めた。


 次なる話の、幕が上がる。


本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

「死」とは、本来ドラマチックな舞台装置ではなく、日常の延長線上で唐突に訪れるものかもしれません。

本作では、天下の剣客でありながら、その最期を「誰にも見取られず、滑稽なほど静かに迎える」ことで、強者ゆえの虚無と、死に場所を探していた男の安らぎを描きたいと考えました。

慎之介が最期に握りしめた酒杯の欠片には、彼の矜持と、結局は誰にも理解されなかった孤独、そしてそれを噛み締めていた自分自身への皮肉が込められています。対照的な「影」として現れた若者の、情動を排した殺し方は、慎之介にとっての「完璧な幕引き」という皮肉なギフトでもありました。

箱根の山道で語り部が紡いだのは、そんな「誰の歴史にも残らない」小さな、しかし本人にとっては世界の全てであった物語です。

次なる「黄泉路」の先には、どんな物語が待っているのでしょうか。

またの語りをお楽しみに。

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