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第14話 霧降る谷の手前

 早朝の王都。

 まだ街そのものが完全には目を覚ましきっていない時間帯。貧民街の一角で、熱い視線を交わす男女の姿があった。


 イルナの母アルシェと、アルトである。


 二人は、すでに互いの息がかかるほど近い距離にあった。

 というより、アルトの手はすでにアルシェの腰へ回っており、ほとんど密着しかけていた。


「……ア、アルトさん……」


 瓦礫の山を越えて差し込んだ朝日が、紅潮したアルシェの表情をいっそう艶めかしく、しかし幻想的に照らしている。

 それはただの朝の光ではなかった。彼女の全身へ神々しさに似たものをまとわせる、不思議な彩度を帯びていた。


 一晩を越えたらしい、身体の線がほとんど分かってしまうほど薄い布。

 そこに寄った細かな皺が、彼女がどのように眠ったかを、無言のまま饒舌に物語っていた。


 アルトは、その女性から発せられる甘美な香りを鼻腔の奥に留めつつ、手を伝って感じられる下腹部の温もりに脳を痺れさせていた。

 すでに胸に触れた乳房が、ほとんどその身の重みごと彼に委ねられている。


 だが、アルトは上気しきったアルシェの表情を今一度確認したあと、やはりすぐに衣服の皺へと目を向けた。


 頬を見るのは危険だ。

 目を直視しては何かが終わる。

 そんな予感がある。


「アルシェさん……」

 アルトは静かに言う。

「意外と、寝相が悪いんですね?」

「っ!?」

 アルシェが息を呑む。

「そんな、見ないでください……!」


 分かってしまう。


 この人がどんな姿勢で寝始め、どのあたりで寝返りを打ち、最終的にどの位置で収まりを得て朝まで過ごしたのか。

 耳の先から爪先に至るまで、その動きの大半が、衣服に残った皺や、髪の流れ、寝癖の位置から想像できてしまう。


 いや、想像どころではない。

 微弱な魔力とともに意識を世界に溶け込ませてしまえば、読むまでもない。

 読んだ瞬間、その人の動きの詳細が映像を超えた立体的な感覚のすべてを伴って脳へと流れ込み、理性を保つことができなくなる。


 だから読まない。

 読まずに、ただ皺だけを見る。


「ここ、寝癖ついてますね?」

「……い、いやです……!」


 言葉とは裏腹に、アルトの腕に触れるアルシェの手に力がこもる。

 指摘された寝癖がどこにあるのか把握できていないのか、恥ずかしさのあまり俯いたことで、かえってそれが露わになってしまった。


 耳のあたりから立ちのぼる香りが鼻をかすめる。

 その瞬間、腰に回した腕に思わず力がこもった。


「あっ……!」


 アルシェにとっても予想外の声だったらしい。

 反射的に、その愛らしい口元を塞ぐように手が伸びる。


「まだ動かないで」

「~~~~っっ!?」

「まだ終わってません」

「はぁ……は、はいぃ……!」


 その手を取り、わずかに離れつつあった腰をさらに引き寄せる。


 火照った頬。

 涙を浮かべた瞳。

 開けば何かが漏れてしまうことを恐れ、引き結ばれた唇。

 その代償を一身に請け負う鼻腔。

 肩に解ける艶やかな灰色の髪。

 細い首筋。


 悦びに打ち震える華奢な身体。


「終わりましたよ」


 不意に訪れる、残酷な瞬間だった。


 アルシェは、その一時が永遠に続くことはないと分かっていた。

 分かっていたのに、いまこのまますべてが終わってもいいとさえ、不謹慎にも思ってしまっていた。


 だが、その一言がやさしく幕を引く。


「あ、ありがとうございます」


 アルシェは手の支えが離れていくのを名残惜しむように、痙攣する身体をその場に揺らした。

 触れて確かめずとも分かる。いまの自分の顔は、娘たちに見せていい状態ではない。


 いや、本来なら彼に見せていいはずもない。

 それでも、この人にならと思ってしまう自分がいる。


 朦朧とする意識の中、どうにかふらつく身体を立て直し、覚束ない手つきで乱れた衣服に手を掛けた。

 その拍子に、わずかに体が前へ(かし)ぐ。


「大丈夫ですか……!」

 アルトがすかさず手を伸ばした。


 その表情は真剣そのものだ。

 嘘偽りなく彼女のことを見つめ、その上で本気で彼女を思い、向き合おうとしている。


 ――ああ、ごめんなさい。イルナ、ミナ、ユナ。

 ――不届きな母を、どうか赦して。


「アルトさんっ!」

 そこへ、イルナの声が割って入った。

「でもイルナっ! アルシェさんの様子が――!」

「大丈夫です!」

 イルナが珍しく強い調子で言い切る。

「母はもう、大丈夫ですから!」


 半信半疑のまま、なおもアルシェの身を案ずるアルトを引き離したイルナは、ふらつく母の身をしっかり支えた。


「アルトさん、申し訳ありません」

 アルシェはようやく体勢を立て直し、深く頭を下げる。

「私が不甲斐ないばかりに……」

「い、いえ、それはいいんですが」

 アルトはなおも彼女の顔色を気にしていた。

「お身体の方はいかがですか?」


 アルトは、彼女と初めて会った瞬間から感じていた違和感が、ようやく解消されたことを確認していた。

 だが、それでもなお別の理由で体調を崩してしまったのではないかという懸念が拭えない。


「はい……」

 アルシェはゆっくり頷く。

「おかげさまで、以前よりずっと体が軽くなったようです」


 アルシェの身を蝕んでいたのは、間違いなく呪詛の類だった。

 それも本人ですら気づかないほど微細な、真綿で徐々に首を絞め続けるような術式。


 魔力の残滓を辿ってみたが、あまりにも巧妙に薄く引き伸ばされており、その痕跡すら断たれていた。


 なるほど。

 世の中にはこういう類の魔法もあるのか。


 アルトはその構造へ関心を寄せると同時に、彼女にこれほど陰湿かつ危険な魔法を差し向けた者に、強い怒りを覚えていた。


「……お母さん、きれい……」


 不意に小さな声がした。


 見ると、イルナの妹ユナが、アルシェの服の裾をそっと摘まみ、母の表情に見入っていた。

 ミナほど活発ではない。

 普段は少し後ろにいて、姉や妹の動きを見てから寄ってくるような子だ。


 そんなユナが、頬をうっすら染めたまま、母の『女性としての顔』を見つめている。


「なにいってるのユナ!」

 ミナがすかさず口を挟んだ。

「お母さんはいつもきれいだよ!」

「……ううん」

 ユナは小さく首を振った。

「いまのお母さんが、いちばん、きれい」


 そう言って、じゃれつくミナの視線の高さに合わせてしゃがんだアルシェの胸に、ユナは縋るように抱きついた。


「……ユナ?」

 イルナが目を瞬かせる。


 普段のユナは、ミナほど母にべったり甘えることはない。

 そんな子が、こんなにも積極的に母を求めている。


 それが、呪詛の解消によるものなのか。

 あるいはアルトの熱にあてられたアルシェの女性としての艶に反応したのか。

 ひょっとすると、そのどちらもなのかもしれなかった。


「アルトさん、母を見ていただいてありがとうございます」

 イルナが改めて礼を述べる。

 母の微かな不調の原因を取り除いてくれたことへ。

 そして、その人に女性としての悦びを与えてくれたことへ、ほんの少しだけ。


「守るって決めたから」


 アルトは、さも当然のようにそう答える。

 その横顔は朝日に照らされ、どこか神聖な空気を帯びていた。


「アルト様! お姉ちゃんをお願いね!」

「お願い……!」


 ミナとユナが、今度はそろってアルトの足にじゃれついた。

 旅立つ姉を、彼に託しているのだ。


「任せて」

 アルトは迷わずそう返した。


「帰ってきたらいっしょにあそぼうねっ!」

「ねっ!」

 ミナとユナのあまりに眩しい要求に、アルトはたまらず二人を抱え上げた。


 尻尾や手足をばたつかせてはしゃぐその頬へ、片方ずつ口づける。


「……」


 その光景を見ていたアルシェが、無意識に、ほんのわずか両手を広げる。


 その意味を察したアルトは二人を地面に下ろし、今度こそ正面からアルシェを抱いた。


「こんな感じで合ってますか?」

 彼は率直に訊ねる。

 この世界での別れの作法など、当然ながら平助は知らない。

 貴族としての作法ならアルトの身に刻まれている。

 だが、こうして生活に根ざした本当のやり方は、今まさに知ったばかりなのだ。


「はい」

 アルシェは、涙を堪えたような微笑で答えた。

「上出来です、勇者様」


 娘を託す母として。

 けれど、それだけではない女としての熱も胸に抱いたまま、彼女はアルトを見上げる。


「娘のことをどうかお願いします……」

「はい」

「それと」

「はい?」

「お帰りの際にはどうか、娘共々よろしくお願いしますね」


 そう言って、アルシェはアルトの頬に軽く口づけた。


 旅の無事を願う作法。

 その形を借りながら、彼女は確かに自分の想いもそこに込めた。


 アルトはその瞬間、アルシェの瞳に宿る何かを見た。

 そして、自分がこれまで彼女たちにしてきたことの何かが、いまだ知り得ない別の魔法の引き金を引いてしまったことを、直感的に知った。


 理解はできない。

 だが、確かに何かがある。


「では、行ってきます」

 やがて二人は、三人に見送られながら王都を後にした。


      *


 王都の関所を抜け、街道を少し外れた木陰に入る。


「じゃあ、いくよ」

「は、はい……!」


 もう何度も経験しているはずの転移魔法。

 それでもイルナは、どうしても委縮してしまう。

 高度で未知の魔法という印象が、どうしてもつきまとうからだ。


「イルナ、大丈夫」

 アルトは抱き上げたまま、やわらかく言う。

「力を抜いて。ちょっとフワッとするだけだから」

「……はい」


 その頭に、そっと手が触れる。


 幾度も撫でられてきた感触。

 普段の淡々としたアルトからは想像もできないほど優しい手つきを、イルナだけが知っている。


 リディアの手とも違う。

 あれも温かい。

 けれどアルトにしか出せない、微かな感触の差が確かにある。


 その動き。

 その圧。

 そこから、本当に大切にされていると分かってしまう。


 自然と全身が解きほぐされていく。

 自分の身体が、柔らかなものに満たされた空間に溶け出していくような感覚が広がる。


 そして次に目を開いた瞬間には、景色が変わっていた。


 やはり慣れない。

 この人の腕の中にいるというだけで、途轍もない喜びと、卑しくも何にも代えがたい優越感を覚えてしまう自分がいる。


「暗いな」


 辿り着いた場所は、依頼のあった村から少し離れた地点の森だった。


 鬱蒼とした木々の枝葉の間からは、たしかに明るい陽が確認できる。

 だが、どこかどんよりとした空気が漂っている。原因は、この先にある川から立ち上る霧だろう。


 ここは、依頼の中でも特に問題として挙がっていた墓地に程近い場所だ。


「アルトさん……何かいます」

 イルナが耳をぴくりと動かした。


 持ち前の聴覚と嗅覚で、周辺で大量の何かが蠢いているのを立体的に把握している。

 微かに脈動する魔力の気配で位置や数を探るしかないアルトに比べ、彼女の空間把握能力は極めて精度が高い。


「どれが一番近い?」

「……こっちにいる二つです」


 目を閉じたまま、耳を忙しなく動かしながら正確な位置を示すイルナ。

 それにつられて尻尾まで揺れているあたりが、ひどく愛らしい。


 アルトはその衝動を押し留め、すかさずイルナにも隠蔽魔法をかけた。


 音と姿だけではない。

 魔法の気配そのものを薄く霧に紛れ込ませる。


「あぅ……!」

「……うぅ……!」

「……ふあぁ……!」


 森の中を彷徨っていたのは、依頼書にあった死肉喰で間違いない――少なくとも、見た目だけならば。


 元が人の遺骸であるだけに、外見はかなりグロテスクだ。

 唸りながら両手足を無造作に動かし、霧の中を彷徨う姿は、文献で読んだ死肉喰そのものだった。


 あれこそ魔物。

 意思疎通など望むべくもない。


 そう判断し、短剣を片手に踏み込みかけた足が、不意に止まる。


「ああ……ったなぁ……」

「……うぅ……ってく……」

「……ね……ふぁ……」


 気のせいだろうか。


 いま、あのいかにもな魔物たちが、まるで意思を持った人族のような発声をしていた気がした。


 ――ああ……腹減ったなぁ……。

 ――うぅ……言ってくれるなよぉ……。

 ――ねむ……ふぁ……。


 確かにそう聞こえた。


「アルトさん!?」

 イルナが小さく狼狽える。


 アルトは隠蔽魔法をわずかに解き、近くの者なら把握できる程度の姿に戻した。


「おはようございます」


「んぉ?」


 死肉喰と思しき人物が、アルトの声に反応して振り返る。

 崩れかけた顔が、ゆっくりとこちらに傾く。


 のろのろとした仕草も相まって、どこかとぼけたような表情に見えた。

 見た目は完全にあれだが、少しぼかして見れば、何だか可愛く見えなくもない。

 ベースはおそらく中年男(おっさん)なのだが。


「少しお尋ねしたいことがあるんですが」

「ぉ……おおっ!」

「に、人間だぁああっ!」


 その瞬間、二体が突然アルトに襲いかかってくる。


 一瞬だけ構えた。

 だが、二人にまったく殺意がない。

 食らう気配もない。


 アルトは即座に短剣を下ろした。


 残りの一体は、どうやら立ったまま寝ているようだった。


「はぁ、はぁ……ど、どなたか存じませんが、その!」

「食い物を、恵んでくれませんかぁっ!」


 二人はアルトの足元に縋りつくなり、食べ物を要求し始めた。


 アルトの認識違いでなければ、死肉喰とは動物の遺骸、特に寄生した個体と同種の死肉を常食とするはずである。

 本体は実体のほぼない霊体に近い存在。日に当たれば消滅しかねないほど脆弱で、寄生した肉体の機能を一時的に借り、取り込んだ死肉にわずかに残る魔素を糧として生きながらえている。


 いわば、死体版のヤドカリだ。


「あいにくと、今はこれしかないけど」


 アルトは亜空間から一日分の食糧を取り出し、二人に差し出した。

 本当は一年分の余裕はある。

 だが、いまの勢いを見るに、間違いなく全部食べ尽くされる。

 だから嘘をついた。


「ひぃ……ありがてぇ……パンうめぇ……!」

「んぉ……なんだこの肉ぅ! うますぎるぅ……!」


 涙を流しながら、両手を地面につき、食材をそのまま犬食いする姿は完全に魔物のそれだった。

 だが、その表情らしき顔つきと言葉は、彼らが単なる魔物になり切れていないことを示していた。


「君はいいのか?」

 アルトは、三体目に視線を向けた。


「……あぁ……わたしぃ?」


 立ったまま寝ていた個体が、少しだけ顔を上げる。

 淡い小麦色の髪をサイドテールに結び、明らかにオーバーサイズのブラウスを着崩し、丈の短いスカートを履いていた。

 切れ長の目は眠たげで、長い睫毛のせいで、常に閉じているように見える。

 そばかすの浮いた真っ白な肌。

 薄い唇。その端からは少し涎が垂れている。


 衣服の下にはそれなりの起伏があり、他の二人と比べて目立った損傷もない。

 肌が白すぎることで、辛うじて『死体である』と分かる程度だった。


「わたしはいいやぁ……」


 そう言って、再び眠りへ戻る。


 今見た三体だけでも、これだけ個体差がある。

 アルトは正直かなり驚いていた。

 図鑑通りの『死肉喰らしい死肉喰』を想像していたため、だいぶ面食らっているのも事実だった。


 しかも、その眠り姫のような在り方が、かなり刺さる。


 頼りなさそうなのに、何故か成立している。

 ボケっとした仕草や、起きているのかすら怪しいその存在感さえも妙に愛らしい。


 アルトは思わず、その頬に手を伸ばしかけた。


「アルトさん、それはちょっと……」

 イルナの声で我に返る。


 それもそうだ。

 まだ生態のはっきりしない相手に、調べもせず触れるのは早計だった。

 仮に彼女が魔物ではなく一人の女性なら、明らかに配慮に欠ける。

 いや、魔物でも駄目かもしれない。


 すると突然、遠くで妙な叫び声と金属音が響いた。


「あの女だ!」

「くっそぉ! もうここまで来やがったのか!?」

「……」


 二人は慌て、眠り始めたその少女――ミザリーを抱え上げて、音とは逆方向に走り出す。


「今のはなに?」

「食いもんありがとうな、兄ちゃん! だが話はこれでしまいだ!」

「あばよぉ!」

「……じゃ……」


 狸寝入りしていたらしいミザリーは、別れの挨拶だけ残して、二人の肩に揺られながら去っていった。


「策士だな」

 アルトが呟く。


「アルトさん!」

 イルナの耳がまた動く。

「誰かが襲われています……!」


 次の瞬間には、アルトの身体は木々の間を縫って異変の現場に達していた。


      *


「このっ! 魔物の分際で、防いでるんじゃないわよっ!」


 開口一番、なかなかの言い草だった。


 魔物は生き物である。

 外敵からの攻撃は防ぐし、必要なら反撃もする。

 その基本的な理すら忘れたような怒声が、霧の中に響いている。


「何度言ったら分かるんだこの女ぁっ! 俺たちは魔物なんかじゃねぇ!」

「死体が動くわけないでしょ!」


 剣を振るう女。

 盾を構え、それをひたすら防いでいる男。

 その周囲にはさらに十人ほどの影が、二人のやり取りを見守っていた。


「観念しなさいッ!」

「ひぃっ!」


 最後の一撃とばかりに踏み込んだ女の身体が、不自然に前へとのめる。


 盾を持った男が転倒するのと同時に、女もぬかるみに足を取られたらしい。

 見事なまでに頭から転倒した、燃えるような赤髪。


「おい、いまだ! やったれぇ!」

「おおおおおっ!!」


 木陰に隠れていた十人余りの者たちが、一斉に倒れ込んだ女に向けて襲い掛かる。


 装備はどれも粗末だった。

 すりこぎのような棍棒。

 刃渡りが短すぎるナイフ。

 箒。

 杖。

 しまいには何も持たず、ただ雄叫びを上げながら突進している者までいる。


「なめるなぁっ!!!」

「ぐぁああああっ!!!」


 転倒した女は体勢を無理やり立て直し、一斉に襲いくる集団を力任せに押しのけ、距離を取った。


「やるじゃないのっ! 魔物のくせに!」

「だから魔物じゃねぇって言ってんだろぉ!」


 そこにさらに、盾持ちの男の背後から音を聞いて駆けつけた集団が合流する。


「な、仲間を呼ぶなんて卑怯よっ!」

「卑怯もくそもあるかっ! おめぇが始めたことだろぉがっ!」


 形勢不利と判断したのか、赤髪の女は一歩、二歩と後ずさる。


「あっ――!」


 完全に片足を取られた状態で、逆さに宙吊りになる女。


 どうやら村人たちが獣を獲るために仕掛けていた、跳ね上げ式の括り罠にきれいに引っかかったらしい。

 それはもう、惚れ惚れするほど見事な手際だったと言わざるを得ない。


「あっ、このっ! 外しなさいよ、バカっ!」

「バカとはなんだこのバカ女ぁ! 散々俺たちを追い回しやがって!」

「懲らしめてやろうぜぇ!」

「そうだそうだ! でないと気が収まらん!」


 完全に片足を取られた状態で宙吊りになった女は、逆さの体勢で何度も足にかかった縄を切ろうと試みる。


「無駄だ無駄だ! 黒鉄で何重にも編んだ縄だぜ!」

 盾持ちの男が胸を張る。


 それでもなお縄に刃を叩きつける女に、じりじりと謎の集団がにじり寄っていく。


 その瞬間だった。


「そこまでだ!」


 なぜか、そう叫ばずにはいられなかった。


 衝動に突き動かされ飛び出したアルトは、集団に向けて短剣を構える。


「なんだっ!? そのイカれ女の仲間かっ!?」

「か、かまわねぇ! やっちまえ!」

「おおおおおお――!!」


 そして数秒後。


 襲いかかった集団は、なぜか全員が縄一本で制圧され、地面に転がされていた。


 短剣を下ろしたアルトは、不意に呆然としたまま宙吊りになる赤髪の少女に歩み寄る。


「久しぶり、セラフィナ」


 少女の目が見開かれる。


「……うそ……」

「ずいぶんと、その」

 アルトは言葉を選んだ。

「立派に、なったね」


 そこに、嘲りや罵る類の悪意はひとつもない。

 アルトなりの、正直な気持ちである。


「――ぁ、ああああああああっ!!!」

「どうしたのセラフィナ?」

「し、知らないぃい! そんな女、知らないぃいいっ!!」


 今にも卒倒しそうな勢いで叫び散らかすセラフィナは、ぶらぶらと宙吊りのまま頭を抱え、盛大に暴れ回った。


 アルトはすかさず、精神安定の意図を込めて回復魔法をかける。


「ぁあああ……し」

「し?」

「……死にたい……」


 これはまずい。


 アルトはさすがに反省した。

 戯れが少し過ぎたらしい。


 とはいえ、恥辱のあまりに打ち震えるこの少女の姿が、とてもよかったことも否定できない。

 決して、こういう方向で彼女の成長を望んでいたわけではない。

 ないのだが。


 だが、この『くっ、殺せぇ!』という台詞が似合いそうな少女の在り方は、かなりの完成度だった。


 アルトはすぐに罠の縄を素手で千切り、うずくまるセラフィナに回復魔法を重ねる。


「……もう、殺して……」

「そんなことより、状況を――」

「殺してよぉおおおっ!!!」


 これはまた、やってしまったのか。

 回復魔法をかけ過ぎて、逆に精神が不安定になってしまったのか。


 後ろで口元を押さえたまま見守っていたイルナに目を向けると、彼女はすぐに首を横に振った。

 そうではない、と。


「セラフィナ、落ち着いて」

「……どうせ私なんて……」


 まずい。

 かなり危険な方向で出来上がっている。


 だが平助は、この状況を作ったすべてに感謝しつつ、少しだけ戯れが過ぎてしまったことを本気で反省した。


「……セラフィナ」

 本当に申し訳ないという気持ちを込めて、アルトは膝を抱える彼女の横に腰を下ろす。

「アルト」

「うん」

「私って、どうして生まれてきたんだろ……」


 アルトは立ち尽くしていたイルナを手招きし、セラフィナの横に座らせた。


「セラフィナ。人っていうのは、何か不変的な意味を持って生まれてくるわけじゃないんだ」

「難しいこと言わないで」

「つまり」

 アルトは真面目な顔で続ける。

「人それぞれ、自分勝手にこれだと思うことを意味にしていくしかないんだ」

「分からない……」

 セラフィナは顔を上げない。

「分かんないよっ!!!」

「それでいいんだよセラフィナ!」

 アルトの声に、やたら熱が入った。

「そう! 人が生きている意味なんて分からない!」

「えっ」

「いまは、この可愛い少女を愛でることが、君の生きる意味だ。それでいいんだ」


 そう言って、アルトはセラフィナの手を取り、隣のイルナの頭に触れさせた。

 目線だけで「尻尾も頼む」とイルナに送る。


「生きる意味は、いつも一つである必要なんてないんだよ! いつ変わったっていいんだ!」

「え……?」

「いまはこれでいい!」


 セラフィナは、不意に横に現れた愛くるしい存在を目にした瞬間、完全にやられた。


「――ふ、ふぁああああっ!」

「それでいいんだセラフィナ! 欲望を曝け出していいんだっ!」


 耳の感触にやられた彼女は、その勢いのままイルナに抱きつき、その胸元に顔を埋めて吸い始めた。


「すぅ、はぁぁああっ!」

「もっと! もっとだセラフィナ!」


 セラフィナの手は忙しく動き、尻尾をしごき、残った片手でその付け根をまさぐり続ける。


「はぁっ! はぁっ!」

「ア、アルトさんっ!」

「……すまん、イルナ」


 セラフィナの暴走によってほとんど剥き出しになったイルナの臀部を、アルトは見て見ぬふりをした。

 こうしたあからさまな方向で崩れるのも、それはそれで良い。


 とくに、セラフィナのように根が真面目な少女が、ふとしたきっかけで壊れかけ、その反動で見せる意外な一面というのは格別だった。


 そして、それはその後しばらく続き――


 我に返ったセラフィナが、涙目のイルナに本気で謝り倒すことで、どうにか収束した。


 アルトはその間、必要以上に満足しないよう、努めて無表情を保っていた。


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