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階段を上がると屋上だった。
陽の光に照らされて紫色になりかけた空が綺麗だ。
太陽が西の彼方の建物の端に差し掛かろうとしている。
その光が目に入った瞬間、夢の記憶が一気に戻った。
ふたり、しばらく夕焼けを見ていた。
「きれいな夕焼けだね。ほんと綺麗だ。
こんな素敵な観覧車ができたんだね。知らなかったよ。
片岡君は乗ったことある?」
僕は黙って首を振った。
久野さんは観覧車の基礎を見ながら
「どれどれ。そっか。五年前に完成したんだね。
これに乗ったら街の景色がさぞ綺麗に見えるだろうね。」
久野さんがこっちを見る。
「思い出した?」
黙ってうなづく。
「あの日は、行けなくてごめんね。ずっと待っててくれたんだよね。
今日は、会えて本当に嬉しかったよ。」
止まったままだった彼女を思うと、何も言えなかった。
「あの日、やっとここに来たら、君はもういなくて。
一目見るまでは、って思ってるうちに、去り難くなっちゃってね。」
久野さんは泣き笑いのような顔をしている。
「…ごめん。あれから、ここには来られなかった。辛すぎて」
久野さんは目を伏せてしばらく黙った。
「片岡君が来た時驚かないように、この建物の中はあの時のままにしてたんだ。
屋上は普通に時間が流れてるから、あの後に出来た観覧車も見られるし、乗ることもできる。
乗ったら、いい冥土の土産になりそうだよ。おっと、不謹慎かな。」
久野さんは冗談めかして言うけど、その声は微かに震えていた。
「久野さん。」
「時の流れに抗ってこのビルの中で待っていたんだ。
でも今、屋上に出た。私の時間も動き出す。
今日の日没と同時に、私もやっと逝くの」
再び平坦な声で、久野さんは話を続ける。
「あ、心配しないように言っておくけど、
本当に満足したから逝けるんだよ。
だって約束の時間にも行かなかったし、
参考書を選ぶ約束も果たせなかったし、
一緒に高校に行こうって約束もできなかった。
だけど今日、全部叶えて、その想い出と一緒に逝けるから。」
久野さんの顔は、色んな感情が混じってよくわからなかった。
「久野さん。
今日会えて本当に嬉しかった。
でも僕はずっと、久野さんと心の中で話し続けていた。
久野さんはもうずっと約束を守ってくれてたんだよ。」
久野さんはちょっと微笑んで
「ありがとう。
そう言ってくれて本当にうれしい。
だから、もう思い残すことはない、かな。
日没になったら、私は逝くから。
その前に観覧車に乗って今の街を一目見て、冥土の土産にさせてもらうね。
そうだね、もう10分もしたら、乗る時間だ。」
久野さんは空に、そして街の方に懐かしそうに目をやった。
「あの後、久野さんのご両親にお会いしてお詫びしたんだ。
ご両親は『知里と仲良くしてくれてありがとう』って何度も言ってくださったけど
どうして君が死んで僕が生きてるんだってそれから何度思ったことか。
あの車さえちゃんとルールを守ればって人のせいにする自分が醜く思えて。
そうじゃなくて僕がいく約束をしなければ、電話にちゃんと出ていれば、
こんなことにはならなかったのにって」
ずっと蓋をしていた気持ちを言葉にする。
声が震えるのを抑える。
「君を死なせた僕には泣く資格すらないってずっと思ってた。
だから、うれしいんだ。
今日、車に撥ねられそうな人を助けられたんだよ。
やるべきことを、ひとつだけでもできた気がしたんだ。」
努めて明るく話す。
「これで久野さんと一緒になれる。やっと、終わってしまえると思った。」
久野さんが優しいまなざしをこっちに向ける。
「ありがとう。
本当に、長い間大変だったね。
片岡君は、ずっとしんどい思いで生きてたんだよね。」
そして久野さんは少し居住まいを正した。
「片岡君。
1つ謝らないといけないんだ。
さっき、パフェを一緒に食べようとしたよね。
あれね、食べたらもう戻れないパフェだったんだ。」
「?」
「ずっと会いたかった君に会えたから、
もうこのままずっと一緒にいたくて、
黙って食べさせてしまうところだった。
こんな醜い気持ちが自分の中にあることに気づかされて
いま、自己嫌悪でいっぱいだよ。」
久野さんが少し下を向く。
「今日、君がここに来てくれるのを一目見て納得しようと思ってたのに
こっちの世界にまで来てくれたから、動転して舞いあがっちゃった。
いや、言い訳だね。
ほんとうにごめんなさい。」
久野さんは自嘲気味に笑って、話を続けた。
「でね、片岡君、君には選択肢があるんだ。
私と一緒にここにずっといるか、一緒に向こうへ行くか、生き残りに賭けるか」
「え?
僕はもう一緒に逝くだけじゃないの」
「うん、普通はそう。この観覧車で逝くだけなんだけどね」
久野さんは観覧車を見上げて。
再びこっちを向く。
「でも私がこの場所を"あの時のまま"にしちゃったから、
ビルがある限り、ここにい続けることもできる。
でもそれって、仮初の永遠だよね。私は、違うと思う。」
「…」
「で、もう一つ、最後の道は、生き残りに賭ける。
片岡君だけこのまま屋上に残ったら帰れるかもしれない。
でも、ただ少し遅れて死ぬだけかもしれない。
結果は片岡君の体と精神の力次第。」
「片岡君の命だから片岡君が決めるんだ。
私は、片岡君には生きてほしい。
だけど一緒に逝ってくれることを望む私もいる。
正直、自分の気持ちがわからない。
日が沈む前に私は逝かなければならないから、
その前に決めて聞かせてくれると嬉しいな。」
夕焼けの色がさっきより暗くなっている。
彼女の目を見続けていた。
「久野さん。君と一緒に、人生の最後を一緒に過ごしたいと思う。
僕の気持ちはそうしたい。」
久野さんは黙って僕の目を見ている。
「君を死なせて、自分だけ生きているのは苦しかった。
一緒に逝ったらやっと償えるような気がする。
だけど、それは逃げているだけじゃないか、とも思うんだ。」
「久野さんを亡くして辛かった時、
僕がすべきことはなんだろうと考えたんだ。
さっき、人を助けたって言ったね。
だけど僕が死んだら、残された人は一生つらい思いや罪悪感を残すかもしれない。
それを防げるかもしれないのに投げ出して逝ってはいけないと思うんだ。
だから、ここに残って、生きる可能性に賭けるよ。」
彼女は黙って聞いている。
「ダメだったら、一緒に行けなくてごめんだけど、すぐ後から逝くから。
でも、もしも生きられたら、もう少しだけ、やるべきことをやってそれから逝くよ。
久野さんを1人で逝かせるのは辛いし、本当に申し訳ないけど。
これが僕のやるべきことだと思うから。」
久野さんはしばらく黙って、口を開いた。
「うん、わかった。
私は、今日片岡君に会えたので十分。
一人でいくのはちょっとだけ寂しいけれど、逝くね。
もし生まれ変わるなら、君の子供に生まれ変われるといいな。
どうか幸せになってね。長生きしてね。
…今日は、栞をもらえてうれしかった。
お守りにして、一緒にいくね。」
「私がこうやって満足して逝けるのは片岡君がきてくれたおかげ。
片岡君をここに連れてきてくれたのは清原さん。
じゃあ、片岡君は、ちゃんと清原さんのところに帰らないとね。」
ちょっとだけ、おどけるように言うから、僕も返した。
「あれ、清原さんのこと知ってるんだ。っていうか見てたの?」
「ごめんね黙ってて。見ることだけはできるんだ。
実はね、清原さんとは昔、少しだけ面識もあってね。君が知らないところで。
いい子だよね。ちょっと妬けちゃうな。
ま、ここは譲るよ。」
彼女が笑うから、僕も笑い返す。
「1人でいくのは寂しいけれど、お守りもあるし大丈夫。
…だけど、もう1つだけお守りが欲しいな。
お願いがあるから、目を閉じてきいてくれる?」
黙ってうなづいて目を閉じる。
唇に温かいものが触れる。
時間が流れる。
「はじめてをもらっちゃった。
ありがとう。」
久野さんは少しの間無言で佇んだ。
それから観覧車のゴンドラの前まで歩いた。
「じゃあ、またね。
いつか、どこかで会えますように。」
そう言って久野さんは観覧車の乗り口に向かう。
「久野さん。」
「なあに?」
「覚えてる?
子供の頃、お父さんに寝かしつけてもらった話をしてくれたよね。」
「うん。そうだったね。
覚えててくれたんだ」
「もちろん。
寝るのが怖かったけど、お父さんが見ててくれると
安心して、いつの間にか寝ていたって話してくれたよね。」
「お父さん代わりにはまだ若いけど、ぼくが見ているから
ちょっと先に眠るんだって思ってくれるとうれしい。
僕も、やることをすませたら、眠るから。そしたら会おう。
もしかしたらその前に久野さんが目覚めて
どこかで会えるかもしれないしね。
だから、今日は、安心しておやすみ。」
「ありがとう。
…おとうさん。」
知里が涙ぐんでつぶやく
「知里はいい子だから、一人で眠れるよね
僕はもう少しだけやることがあるから。
先に寝ててね。また、会おうね」
「うん、おやすみなさい。」
太陽は西の空の端に沈もうとしている
「じゃあ、寝る時間だから、寝ようか」
「うん」
久野さんが観覧車の乗り口に歩いていく。
「おやすみなさい、またね。」
「…うん、おやすみ、またね。」
観覧車の扉を閉める。寝室の扉を閉めるような気持ちで。
彼女はこちらを見て、彼女と視線が交わる。
ゴンドラはゆっくりと回り、少しずつ高みに上がっていく。
彼女の姿が見えなくなっても、片岡はゴンドラを見つめ続けた。
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「危なかったなあ」
久野知里はゴンドラの中で呟いた。
自分が、あんなに、エゴイスティックだとは思わなかった。
あのビルに片岡君を閉じ込めていたら
あるいは彼を一緒に連れていっていたら
きっと最後の瞬間まで後悔しただろう。
片岡君と最後一緒じゃないのは残念だけど
寝つかせるお父さんみたいに、「ずっと見てるよ」って。うれしいな。
最後の思い出がこれで、本当に良かった。
おとうさん
先にいってしまってごめんね。
でも、お父さんみたいに悲しむひとがいなくなるように
片岡君が頑張ってくれるから。
応援してくれると嬉しいな。
もう、頂上が近い。
片岡君
知らない建物が増えてるね。
あの頃、片岡君と一緒に帰った道は、今も明るい。
ちゃんと、続いてたんだね。
片岡君、おやすみ。
おとうさん、おかあさん、おやすみなさい。
またね。




