第五話 留める、流す、ぶつける
痛みは、気を乱す。
それが、ユウが最初に教えられたことだった。
腕に巻かれた布は、すでに血を吸って黒ずんでいる。傷は浅い。だが、気の感覚は鈍くなっていた。
「無理に動かすな」
師範の声は、いつになく低い。
「お前は、これまで“流す”ことだけで生きてきた。だが、命がかかれば、それだけでは足りん」
ユウは黙って頷いた。
分かっている。
第四話の戦いで、はっきりした。
流すだけでは、殺意は止まらない。
修行は、剣を使わなかった。
道場の奥。
何もない畳の上に、ただ座る。
「気を――留めろ」
師範が言う。
「恐怖でも、痛みでもいい。逃がすな」
ユウは目を閉じる。
腕の痛み。
昨夜の血の匂い。
男の、冷たい目。
胸が、きしむ。
気が、溢れそうになる。
「……っ」
歯を食いしばる。
流したい。
逃げたい。
だが、今回は――留める。
胸の奥に、重く沈める。
「次だ」
師範の声。
「今度は、流せ」
一気に、息を吐く。
留めていた気が、体の外へ抜けていく。
水が流れるように、淀みが消える。
ユウは、はっと気づく。
――さっきより、気が澄んでいる。
「留めることで、輪郭ができる」
「流すことで、濁りが消える」
師範は、畳に杖を突いた。
「最後だ。ぶつけろ」
ユウは目を開ける。
「……誰に?」
「世界にだ」
師範が、気を放った。
重く、しかし縛る気ではない。
試す気。
ユウは、一瞬迷い――踏み出した。
留めた気を、核に。
流れを、整え。
そして――前へ。
剣は抜かない。
声も出さない。
ただ、存在の気を、ぶつける。
空気が、震えた。
師範の気が、押し戻される。
「……よし」
短い一言だったが、それで十分だった。
夕方。
道場の裏で、ガランが一人、剣を振っていた。
以前のような、荒々しさはない。
一太刀ごとに、気を確かめるような動き。
「……来てたのか」
ユウに気づき、剣を下ろす。
「剣の振り方が、変わりましたね」
「お前のせいだ」
ガランは苦く笑う。
「押すだけじゃ、相手は折れん。縛る奴相手なら、なおさらだ」
しばし、沈黙。
「……怖かったか」
唐突な問い。
ユウは、正直に答えた。
「はい。死ぬと思いました」
ガランは、少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「そう言えるのは、強さだ」
そのとき――
また、感じた。
遠く。
だが、はっきりと。
絡みつく気。
以前よりも、深い。
街の方角だ。
「……次は、道場じゃない」
ガランが言う。
「狙いは、人の多い場所だ」
ユウは拳を握る。
留めることを知った。
流すことも、ぶつけることも。
だが――
(守れるだろうか)
自分は、まだ弱い。
それでも。
逃げるための力ではなく、
立つための気が、確かに育っている。
戦いは、もう個人のものではない。
街へ。
人へ。
縛る者との戦いは、次の段階へ進む。




