第四話 血の匂いと、逃げ場のない気
血の匂いは、気よりも先に届いた。
ユウがそれに気づいたのは、夜明け前だった。
冷えた空気の中に、微かに混じる鉄の匂い。
「……来てる」
理由は分からない。
だが、昨夜とは違う。
縛る気が、殺す気に変わっていた。
道場の外れ。
見張りに立っていた門下生の一人が、地に伏している。
胸を、浅く切られていた。
致命傷ではない。だが――
「見せしめ、か」
ガランが歯を噛みしめる。
怒りの気が、一気に膨れ上がる。
重く、鋭く、まっすぐだ。
「抑えろ!」
ユウが叫ぶ。
「今、気を強めたら――!」
遅かった。
空間が、きしむ。
縛る気が、ガランの気に絡みついた。
怒りは、最高の“餌”だった。
「……そうだ」
声が、すぐ背後で響いた。
誰も、気づかなかった。
気配が、なかったからだ。
男が、そこに立っていた。
「それでいい。強くなれ。怒れ。抗え」
気が、落ちる。
重圧が、地面に叩きつけるように広がった。
門下生たちの足が止まる。
息が、詰まる。
ガランが膝をついた。
「……くそ……!」
ユウの視界が、狭まる。
怖い。
今までとは違う。
この縛りは、壊す気だ。
「お前だけだ、少年」
男の視線が、ユウを捉える。
「流すだけでは、間に合わん」
男が、指を弾いた。
――風切り音。
次の瞬間、ユウの腕に、熱が走った。
「っ……!」
遅れて、血が噴き出す。
斬られた。
浅いが、確かに。
膝が、震える。
(初めてだ……)
痛み。
恐怖。
死の現実。
気が、乱れる。
――縛られる。
「終わりだ」
男が、一歩近づく。
ユウの喉が、ひくりと鳴った。
逃げたい。
助けてほしい。
生きたい。
その全部が、混ざり合う。
そして――
ユウは、初めて止めた。
流さない。
逃がさない。
恐怖を、胸に留める。
熱を、痛みを、死を――
感じ切る。
気が、凝縮した。
「……ほう」
男が、足を止める。
重たい縛りが、一瞬、緩んだ。
ユウは、その隙に踏み込んだ。
剣は振らない。
拳でもない。
気を、ぶつける。
怒りではない。
恐怖でもない。
「ここにいる」という、必死な存在の気。
空間が、揺れた。
「――っ!」
男の気が、初めて後退する。
完全ではない。
だが、確かに押し返した。
次の瞬間、男の姿が掻き消えた。
残ったのは、血の匂いと、静寂だけだった。
ユウは、その場に崩れ落ちた。
腕から血が滴り、畳を染める。
ガランが、縛りから解け、駆け寄る。
「ユウ……!」
その声が、遠い。
ユウは、天を仰ぐ。
怖かった。
死ぬと思った。
それでも――
(逃げなかった)
初めて、自分の中に折れなかった何かを感じていた。
「……俺は、間違っていた」
ガランが、低く言う。
「強さとは、押すことだと思っていた」
拳を握りしめる。
「だが……生きる気を、ぶつける強さもある」
ユウは、かすかに笑った。
腕は痛む。
体は震えている。
それでも。
――次は、逃げない。
そう、静かに決めた。
縛る者との戦いは、
ここから、本当に始まる。




