第23話 境界に立つ者
修行は、教えから始まらなかった。
老婆――境界気の使い手は、ユウに何も言わず、ただ歩いた。
山の尾根。
森の縁。
川と陸の境。
いつも、二つのものが触れ合う場所だけを選んで。
「……なぜ、ここばかり」
ユウが問うと、老婆は立ち止まった。
「境界は、場所じゃない」
「立ち方だよ」
川辺に、小動物がいた。
鹿だ。
警戒しつつ、水を飲んでいる。
「受け気なら、どうする」
老婆が聞く。
「……開いて、安心させます」
「じゃあ、境界気なら?」
ユウは、答えられなかった。
「何もしない」
老婆は、そう言った。
「近づかず、離れず」
「相手の選択を、邪魔しない位置に立つ」
ユウは、気を張る。
拒む気を使えば、鹿は逃げる。
受け気を使えば、鹿は気づかない。
その間。
気を、立てる。
最初は、失敗した。
拒みすぎて、鹿は走り去る。
次は、開きすぎて、風景に溶ける。
「違う」
老婆の声は、淡々としている。
「守るために立つなら、存在しろ」
日が、傾く頃。
鹿は、逃げなかった。
近づかない。
だが、気づいている。
互いに、視線だけが交わる。
その瞬間。
ユウの中で、気が止まった。
流れない。
拒まない。
ただ、そこにある。
「……これが」
息が、自然に落ちる。
「境界……」
老婆は、頷いた。
「攻めない。逃げない」
「だが、踏み越えさせない」
その夜。
焚き火のそばで、老婆は語った。
「昔、私は村を守った」
「敵も、味方も、入れなかった」
「結果……皆に恨まれたよ」
「後悔は?」
「ある」
老婆は、火を見る。
「だが、崩れた村よりは、ましだ」
ユウは、黙る。
守ることは、選ばせないことでもある。
その重さを、初めて理解した。
翌日。
気配が近づいた。
三人。
盗賊だ。
武器を持ち、隠れる気もない。
「通してくれ」
一人が言う。
「金になる村がある」
老婆は、ユウを見る。
「やってみな」
試練だった。
ユウは、前に立つ。
剣はない。
声も、荒げない。
ただ、立つ。
境界気を、張る。
流れない壁。
押せば、押し返される。
だが、攻撃はない。
「……なんだ、これ」
盗賊が、足を止める。
進めない。
理由が、分からない。
「どけ!」
一人が踏み出す。
瞬間。
境界気が、反発した。
男は、転ぶ。
傷はない。
だが、心が折れた。
「今日は……やめだ」
盗賊たちは、引いた。
恐怖ではない。
納得できない不利だった。
ユウは、膝をつく。
全身が、痛い。
拒むより、消耗する。
「これが、代償だ」
老婆は言う。
「境界に立つ者は、常に削られる」
ユウは、息を整える。
それでも、心は折れていない。
初めて――
守れた感触があった。
遠くで、模倣気が動いた。
以前より、硬く、鋭い。
カイだ。
境界を、越える準備をしている。
老婆が、ぽつりと言う。
「次に会えば……」
「受けるだけじゃ、死ぬ」
「拒むだけでも、負ける」
ユウは、立ち上がる。
境界に立つ覚悟が、胸にあった。
戦いは、近い。
だが、これは殴り合いじゃない。
どこに立つかの戦いだ。




