第一話 気を使う者
剣を抜く前に、勝負は終わる。
それを理解している者は、この道場にほとんどいなかった。
ユウは畳の端に立ち、静かに息を整えていた。向かいにいるのは、同じ門下生の少年。年は同じくらいだが、肩幅が広く、剣の柄を握る手に迷いがない。
「始め!」
師範の声と同時に、相手の気が膨らんだ。
強い。一直線。隠す気もない。
――来る。
ユウは一歩、後ろへ下がった。
次の瞬間、風を切る音とともに木剣が空を裂いた。だが、そこにユウはいない。攻撃は空振りに終わり、相手の気がわずかに乱れる。
「逃げるな!」
怒りが混じった気が、さらに膨らむ。
ユウは眉をひそめた。
強くなればなるほど、読めてしまう。
相手が何をしようとしているか、その直前の“揺れ”が、はっきりと伝わってくるのだ。
ユウは攻撃しない。ただ、間合いを保ち、相手の気が高ぶるたびに位置を変える。剣を振る必要はない。
数合も経たないうちに、相手の呼吸が乱れた。
「そこまで!」
師範の声が響く。
「……また逃げただけか」
周囲から失望の声が漏れる。
ユウは木剣を下ろし、深く頭を下げた。
勝ってはいない。
だが、負けてもいない。
それが、ユウの戦い方だった。
道場の外に出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
ユウはようやく息を吐く。
自分でも分かっている。
この戦い方が評価されないことくらい。
「気を使え」と教えられるこの世界で、ユウは気を抑えることしかしていない。強く放つことも、相手を圧することもできない。
ただ、感じ取って、避けるだけ。
「弱いくせに、しぶとい奴だ」
背後から低い声がした。
振り向くと、ガランが立っていた。門下でも随一の気量を誇る男だ。立っているだけで、空気が重くなる。
「逃げ回って、恥ずかしくないのか」
ガランの気が、意図的に強められる。
威圧。試すような圧。
ユウの喉が鳴った。
怖い。だが――
(……来ない)
ガランの気は強いが、揺れがない。
攻撃する意思がないことが、はっきり分かる。
「僕は……無駄に戦いたくないだけです」
「戦わねば守れぬものもある」
ガランは吐き捨てるように言い、背を向けた。
その去り際。
一瞬だけ、気が歪んだ。
ユウは目を見開く。
――違和感。
それは怒りでも、殺意でもない。
焦りに近いものだった。
その夜、道場の鐘が鳴り響いた。
「魔獣だ!」
叫び声とともに、門下生たちが駆け出す。
ユウも遅れて外へ飛び出した。
闇の中、異様な気配があった。
重く、絡みつくような気。
剣を構えた者たちが、一斉に固まる。
「……動けない?」
誰かが呟いた。
ユウは理解した。
攻撃されていない。ただ、気で縛られている。
恐怖が連鎖し、気が乱れ、身動きが取れなくなる。
その中で、ユウだけが一歩踏み出した。
怖い。
足が震える。
心臓がうるさい。
だが――この恐怖は、偽れない。
ユウは剣を抜かなかった。
代わりに、自分の恐怖を、そのまま外へ流した。
逃げたい気。
震える気。
生きたいという、弱い気。
それが触れた瞬間、闇の気配が揺らいだ。
縛りが、ほどける。
「……なにをした?」
誰かの声が聞こえたが、ユウは答えなかった。
ただ、分かっていた。
――気は、強さだけじゃない。
――弱さもまた、使える。
その夜を境に、
ユウは「逃げるだけの弟子」ではなくなっていく。
まだ、誰も気づいていなかったが。




