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少女が泣き声を揚げて慟哭する。その響きは会場内に居る全ての者を釘付けにした。
騒動の行く末を見守る生徒達。
興味本位で覗き込み、酒の肴にする貴族達。
我関せずと遠巻きに傍観する大人達。
来賓の接待に追われる教員や役員達。
娘の身を案じながらも、身動きが取れない一人の父親。
──全てである。
「ロザンナ様は何も悪くありませぇん!ごめんなさぁぁい!うわぁぁぁん!」
今や、どんなに食欲を唆る極上の料理や、会場を彩る煌めく飾り付けよりも、彼女は好奇心の中心に立っていた。
それと同時に、周囲を取り巻いたのは、物凄い騒音による負荷だった。
「ぎゃああ!なんだ、この地鳴りは!?」
「だ、誰か早く彼女を止めてよ!」
「耳がぁ!耳がぁぁ!」
強烈な音波が鼓膜を振動させる。品行方正を謳うビクトル学園の生徒にとって、それは類を見ない事態。まるで一種の災害が訪れたように、会場の外へと避難していく。
それは騒ぎの当事者達も例外ではなかった。
「ぐおぉぉ、なんて泣き声を出しやがる!こんなに煩い女だったのか...!冗談じゃねえ、俺様は降りるぜ!」
「あっ!待ちなさいませ!まだ話は終わっておりませんことよ!」
「待てと言われて待つ馬鹿がいるかよ!バーカ!」
「なんですって!?」
逃げる元婚約者の背中を追うロザンナ。煌びやかな秋季パーティの舞台は、瞬く間に混沌へと変わり、神聖な夜会どころではなくなっていた。
そんな中、一人の奇抜な格好をした令嬢が動き出す。
「ふむ、これは一大事だな。止むを得ない」
彼女はそう呟くと、大声で泣きじゃくるピアニシモスへと近づいていく。そして徐ろに身を屈めると、床に両手を付けて腰を下ろし、四つん這いの姿勢を作り出した。
そのまま顔を斜め上の位置に微調整し、会場を飾るシャンデリア目掛けて大きく口を開く。
「ゲコゲコゲコ!!」
「──!?」
よく通る声が会場の隅々まで響き渡る。音は若干くぐもってはいるが、芯が通っており、人工音とは思えないほど限りなく自然音に近しい。
──それは紛うことなくカエルの鳴き声だった。
静まり返る会場。足を止める人々。これには泣いていた本人も我にカエル。
「ふう、まさかこんなところで鍛錬の成果が出るとはね」
事態が収束したのを確認すると、ミルスが懐から予備のハンカチを取り出す。言うまでもなく、カエルの刺繍が施されていた。それを近くで呆然とする令嬢へと差し出す。
「これで涙を拭きなさい」
「あ、あんた...どうして...」
「カエルは雨を好む生き物だが、あくまで気象的要因に過ぎない。悲しみの雨は苦手なんだよ。分かるね?」
「え...あ、いや...」
「君に涙は似合わないって事さ。分かったら涙を拭きなさい」
「あ、ありがとうございます...?」
言われるがまま、ハンカチを受け取るピアニシモス。先ほどまでの取り乱した様子は見当たらず、幾分か冷静さを取り戻しているようだった。
しかし、彼女には疑問までは拭えなかった。
「なんで気遣ってくれるのよ。わたしはあんたに酷い事を言ったのに...」
「ピアニャン。今の私はね、オタマジャクシから変態を遂げたカエルなんだよ」
「変態...?」
「つまり、余裕があるって事さ。成体として幼体を見捨てる事は出来ない」
「何よそれ。全然意味分かんない」
ピアニシモスが涙でハンカチを濡らす。経緯は一切不明だが、不思議と身に受ける優しさは心地良かった。それを見たミルスが満足そうに頷く。
そんな彼女達の近くから、情けない悲鳴が上がる。
「ぐえ!」
床に投げ捨てられたのは、一目散に逃げ出したナインスターだった。
「全く、この私から逃げ出そうだなんて百年早いですわよ」
「くっ、令嬢の分際で徒手空拳を使いおって...。この化物め...!」
ナインスターが元婚約者を睨みつける。彼の制服は襟から大きく乱れており、胸元の自慢の星々は二つほど欠けていた。
皮肉な事に、それはミルスが散々間違えた名前を体現しているようであった。
そんなナインスター改め、セブンスターからロザンナが目を離すと、床に座り込んで涙を拭う令嬢へと告げる。
「さて...またまた一悶着ありましたけど、貴女が謝罪を口にしたと言うことは、犯行を認めたと解釈して宜しくて?」
ただならぬ気迫で睨みつけるロザンナ。元婚約者を懲らしめた直後だからか、その目はアドレナリンが分泌したように血走っている。
「ロザンナ、気持ちは分かるが少し落ち着いて...」
「ミルスは黙っていて下さいまし!これは私と彼女の問題でしてよ」
ロザンナが一喝しながら、テーブルに置いてあったパスタをミルスへ差し出す。如何に親友の言葉と言えど、冤罪を着せられかけた側からすると黙っていられるものではなかった。
そんな彼女の気持ちを察し、ミルスは大人しく受け取ったパスタを捕食する事にした。
やがて、観念したようにピアニシモスが告げる。
「はい。ロザンナ様の仰る通り、嫌がらせは全てわたしの自作自演です」
明かされる真実。騒動の引き金となった嫌がらせは全て、本人による自作自演だったのだ。
周囲の生徒達は愕然とする。理由は個人により様々だが、浅慮だった自分を恥じる生徒が大多数だろう。当初は被害に遭った彼女を気の毒だと感じていた生徒も、今は侮蔑を含んだ視線を投げかけている。
そんな中、冤罪を着せられた公爵令嬢だけは、やはりそうだったかと溜め息を吐いた。
「一体どうしてこんな事をしたんですの?私は特に貴女から恨まれるような事をした覚えはありませんわよ」
「...それは、お金が欲しかったから...」
「それって、直前に貴女が言っていた『伯爵夫人になって札束を掴むぞ☆』計画の事ですの?」
ピアニシモスが静かに頷く。家格の低い令嬢が上級貴族と縁を持って玉の輿に乗る事は、貴族社会では別段珍しくない話だ。しかし、今の彼女の様子を見る限り、それだけではないように見える。
ロザンナの予想は的中した。
「実はわたしの家には多額の借金があるんです。それを返済するために、どうしてもお金が必要でした」
「借金?でも貴女のご実家が営んでいるマルボーロン商会は、織物の販売で一躍脚光を浴びていたではありませんの」
「ご存知だったのですね。うちはしがない新興貴族なのに...」
「大抵の情報は頭に入っていますもの」
当然のように答える姿に、ピアニシモスが苦笑いする。流石は学園の才色兼備と謳われる人だ。稚拙な策略も初めから見抜いていたのだろう。
「ロザンナ様の仰る通り、マルボーロン商会は織物の販売で一躍有名になりました。ですが...それはつい去年までの話で、今や商会は存続の危機に陥っています」
「...何かあったんですの?」
ロザンナの問いかけに、ピアニシモスがぽつぽつと語り出す。
「わたしがビクトル学園に入学するのを機に、商会を王都の方に移転させる事にしたのですが、その際に事業が頓挫してしまったんです。最初の頃は売上も良かったのですが、都会の流行に乗る事が出来ず、次第に客足は離れていきました。気が付けば経営は赤字...。多額の借金だけが残りました」
「そういう事でしたのね...」
どこかの誰かさんと似たような財政状況ですこと。密かにロザンナは思った。
「なので、商会を立て直すためにはどうしてもお金が必要だったんです。本当にごめんなさい...」
床に大粒の涙を零して懺悔するピアニシモス。恐らくは苦肉の策だったのだろう。彼女にも色々と抱えているものがあったようだ。
最初は、公爵家に喧嘩を売る事が如何に愚かな事か、身を以て知らしめてやる。そう考えていたロザンナだったが、目の前の憐れな姿を見ていると、すっかり毒気が抜かれてしまった。
彼女が再び溜息を吐く。
「事情は理解しましたわ。ですが、それが他者を陥れて良い理由にはならないでしょう?」
「はい...仰る通りです。本当にごめんなさい...」
「第一に、貴族の結婚は家同士で決められたものであって、当人達の意思で気軽に破棄する事は出来ません。貴女も男爵家の娘ならば知っているでしょうに」
「それは......」
「まあ、こんな騒ぎとなった後では婚約破棄せざる負えないでしょうけれども。まさか、私に冤罪を着せて得た慰謝料を当てにしていたんですの?だとしたら浅はかですわよ」
「う、うう...」
悔しさなのか羞恥なのか。ピアニシモスが涙でハンカチを濡らす。人前で泣きじゃくるなど、淑女にそぐわない行為だ。
しかし、ロザンナはこれが恥ずべき事だとは思わなかった。
彼女がピアニシモスへ近づくと、目線を合わせるように屈む。
そして一言──。
「シャンとなさいませ!」
「...!」
一喝されて顔を上げるピアニシモス。すると目の前には、この学園の誰より凛とした姿があった。
「『淑女たるもの常に優雅たれ。どんな苦境に立たされても、己が信念を曲げてはならない』...私の母の教えでしてよ」
「ロザンナ様...」
「貴女も一人の貴族令嬢ならば、自分が犯した罪に泰然と向き合いなさいませ」
「.......はい...っ...!」
涙を拭って立ち上がるピアニシモス。もはやそこに悲嘆に暮れる様子はなかった。
彼女が改めて、ロザンナへ頭を下げる。
「ロザンナ様、この度は申し訳ありませんでした」
「...本当に反省していらっしゃるのね?」
「はい、どのような罰も受け入れる所存です。しかし、全てはわたしの独断と不徳の致すところ。実家は関係ありません。全ての責任はわたし個人にあります」
「良い覚悟ですわ」
貴族社会において、家格が上の相手へ不貞を働く行為は重い罪と見倣され、基本的には投獄とされるか、領地と爵位を返上する事態にまで及ぶ。
しかし、個人的な諍いが生じた場合に限り、階級が上の貴族の裁定で事態を収束化する事が可能だった。
「ではスコルピア王国三大貴族が一柱、マベルス公爵家の令嬢として貴女に罰を与えます」
──お父様、商会を守れなくてごめんなさい。せめて、この罪はわたしの身一つで背負うから...。
覚悟を決めた彼女がジッと判決を待つ。すると、それまで低く威圧的だった声色が柔らかくなった。
「今度、私に似合う衣服をマルボーロン商会で融通なさい。それが貴女に対する罰ですわ」
「えっ......?」
予想外の言葉にピアニシモスが目を丸くするも、ロザンナが泰然とした様子で告げる。
「確かに冤罪を着せられそうにはなりましたけど、頼もしい友人のお陰で未遂に終わりましたもの。ですから、これでチャラにして差し上げますわ」
「で、でも!わたしの実家には、ロザンナ様に合う衣服を用意出来るお金が...」
「ですから、我が公爵家でマルボーロン商会を買収させていただきますわ。ちょうど私の受け持つ事業の一つに、洋服店を展開したいと思っていたところですの」
ロザンナが告げたのは、罰というより光の光明だった。
株式譲渡は原則として、負債や契約の全ては買収側へと引き継がれる。これは経営が傾いているマルボーロン商会にとって、再起を図る大きな救いであった。
「まあ、仮にも公爵令嬢を陥れようとしたのですから、完全にお咎めなしとはいかないでしょうけど。そこは私の方からお父様に上手く掛け合ってみますわ」
「ロザンナ様...ありがとう...ございます...」
「だから泣くんじゃありませんわよ。言っておきますけど、私の好みは厳しくってよ。覚悟しておきますように」
「はい...!宜しくお願いします!」
固く握手が結ばれる。両者の間に蟠りはなく、穏やかな雰囲気だった。
その時、周囲から拍手が巻き起こる。
「いいぞー、二人共!」
「やっぱりロザンナ様は素敵よー!疑ってごめんなさーい!」
「百合最高ー!」
いつの間にか二人の周りには沢山の人集りが出来ており、全員が事の一部始終を見守っていた。
その歓声に包まれる中、一人の奇抜な格好をした令嬢が、パスタを啜りながら近づいてくる。
「仲直り出来て良かったではないか。二人とも」
「ええ、貴女にも随分と助けられましたわね。ミルス」
「別に大した事はしていない。私はただ真実を証言しただけに過ぎないよ」
「貴女はブレませんわね。ああもう、またそんなに口の周りをソース塗れにして...」
「んん...」
ロザンナが清潔なハンカチでミルスの口元を拭う。相変わらず同い年には見えなかった。
そんな年下のようなミルスへ、ピアニシモスが頭を下げる。
「ミルス様もごめんなさい。貴女にも随分と迷惑をかけてしまいました」
謝罪を述べる彼女を、ミルスが手で制する。
「構わないよ。さっきも言ったが、今の私は変態を遂げたカエルなんだ。肉体的にも精神的にも余裕がある」
「何でもカエルに例えるの止めませんこと?変態だなんて、年頃の令嬢が使う言葉ではありませんわよ」
「そうか?やはり年頃の令嬢とは難しいものだな。気を付けるんだぞ、ピアニャン」
「いや、貴女の事を言っていますのよ!」
いつものように、砕けた様子で会話をするミルスとロザンナ。一見すると、反りがあっていないように見えるが、二人の間には深い絆があった。
「お二人は本当に仲が良いんですね」
「ああ、何しろ私とロザンナは親友だからね!」
ミルスが声を大にして言う。直ぐに隣にいるロザンナが顔を紅くした。
「ちょ、ちょっとミルス。あまり大声で言わないで下さいまし。恥ずかしいではありませんの...」
恥じらうロザンナだが、その反応はまんざらでもない様子だ。こんな可愛らしい人を陥れようとしてしまったのかと、ピアニシモスが人知れず罪悪感を覚える。
そんな彼女の心境を知ってなのか、ミルスが話題を変えた。
「ところでピアニャン」
「な、なんですか?」
「君は下駄箱に芋虫を入れたと言っていたね。それは本当なのかな?」
「...本当ですよ。我ながら愚かだったと反省しています」
「いや、責めているわけではないよ。可能ならばその芋虫を譲って貰えないかと思ってね」
「へ?」
芋虫を譲る...?いきなり何を言い出すのか。
怪訝に思う彼女へミルスが告げる。
「実は私のペットは芋虫が好物でね。是非とも食費の足しにさせて貰いたいんだ」
「い、芋虫が好物って、何を飼っているんですかぁ?」
「カエルだ」
「そ、そうなんですね。でも、実は芋虫は下駄箱に入れた後で直ぐに逃がしてしまったんです」
「なんと...それは勿体ないな。では、ブタの着ぐるみはどうやって用意したのかな?」
「あれは自分で縫って作ったんです。てか、顔が近いですよぉ!」
「それは凄いな。良かったら今度、カエルの着ぐるみを作ってくれないか?」
「わ、分かりましたから離れて下さぁい!」
顔を紅くするピアニシモスと、真剣な面持ちで接近するミルス。それはまるで、子豚とカエルが仲睦まじく戯れているような光景だった。
そんな時、彼女達の近くから大きな声が上がる。
「いやいや待て待て!おかしいだろうが!」
その声は、完全に空気と化していたナインスターによるものだった。
つづく
──その頃のガスト。
「如何でしたかな?我が社の納豆は」
「ふむ、粘り気の中にある芯の通った深い味わいが、実に濃厚でした。良い納豆ですね」
「そうでしょう、そうでしょう!ではお次は、最近改良を重ねた遺伝子組換えでない豆腐を召し上がって頂きたく」
「ええ...勿論です。しかし、何やら周りが騒がしくありませんかな?途中で奇声のようなものも聞こえましたし」
「大方、慣れない夜会で学園の生徒がハシャイでいるのでしょう。若さとは良いものですなぁ!それはさておき、試食の方をよろしくお願い致します」
「くっ...!」
何処までも商魂たくましいラッキョウ卿であった。




