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ビクトル学園の由緒正しき秋季パーティの最中で、前触れもなく起こった婚約破棄。それは過去の歴史を辿っても前例のない。前代未聞の事態に周囲の人間は浮足立ち、事の成り行きを見守るしかなかった。
そんな張り詰めた空気の中で現れたのは、これまた前代未聞の格好をした一人の令嬢だった。
斑模様が入った緑一色のコートに厚みのある緑のマフラー。微かにうなじから金色の頭髪が形を覗かせているものの、頭部は幅のある緑の三角頭巾で覆われている。その姿は水辺に生息する一種の生物にしか見えなかった。
「ミ、ミルス!その格好はなんですの!?」
たまらず、ロザンナが叫ぶ。普段完璧な公爵令嬢の取り乱した姿には、周囲の生徒も驚きを隠せない様子である。
しかし、彼女の友人の反応は極めて冷静なものだった。
「流石はロザンナ、お目が高い。これは『準絶滅危惧種トノサマガエル──秋季パーティ仕様』だ」
「服装のコンセプトを聞いているのではありませんわ。本日の催しは仮装パーティではなくてよ!?」
「安心してくれ。ちゃんと制服なら着ているぞ。ほら」
ミルスがコートの一部が捲られると、控え目に学園の制服が姿を覗かせる。あくまでも緑で固めた装いは外衣に過ぎず、学園の規則を破ってはいないのだ。
「そういう問題じゃありませんわよ!」
しかし、ロザンナの口は止まらない。
「今回の催しには第一王太子殿下も参加されるのですから、慎みを持たなくてはなりませんことよ。それでは彼よりも目立ってしまうでしょうに」
「そう言われても、これが私にとっての正装なんだ。仮に私の方が目立っているというのであれば、彼の存在感もその程度だったという事だろう」
「貴女、不敬という言葉を知ってまして?」
ロザンナが頭を抱える。まさかこんな形で”カエル令嬢”を体現してくるとは思わなかった。学園で一通りの奇行は目撃してきたが、あれはほんの一部に過ぎなかったのだ。いつだって彼女は常識の範疇を越えてくる。
「大丈夫かロザンナ。頭でも痛いのか?」
「え?ええ、少し...いえ、かなり驚いたものですから。脳の処理が追いついていないだけですの」
「それは大変だな。パスタでも食べるか?」
「結構でしてよ。ああもう、そんなに口元にソースを付けて...」
ロザンナが清潔なハンカチを取り出すと、友人のソース塗れの口許を拭う。
「ん...済まないな。それとさっきの質問の答えだが、私は不敬という言葉を知っているぞ」
「真面目に答えなくてもいいのよ!いいからジッとしてなさいな」
「うん」
素直に言う事を聞くミルス。見た目も相まって、到底二人が同い年には見えない。一方で、ロザンナはまるで妹の面倒でも見るかのようであった。
「貴女がこの場に居るという事は、お父君とは和解出来たんですのね?」
「お陰様でね。今は他の保護者の方々へ挨拶回りに行っているよ」
言いながら、表情を柔らかくするミルス。そこに悲嘆は感じられず、大きな問題が解決した後のように明るい。
それを見たロザンナが微笑む。
「無事に和解出来たなら何よりですわ。今後はもっと話し合いの機会を設けなさいませ」
「そうするよ。ロザンナには心配を掛けてしまったな」
「本当ですわよ。もう私のコートを鼻水で汚さないで下さいまし」
「むう、善処する」
「そこは断言するところでしてよ」
小さく笑いが溢れる。もはやロザンナの表情に逼迫した様子はなく、年相応の女の子に戻っていた。
そんな二人の微笑ましいやり取りに、周囲の生徒達がざわめき出す。
「ロザンナ様が笑っていらっしゃるわ。なんて尊い」
「あんな砕けた態度のロザンナ様は初めて見たわ」
「百合か...有りだな」
不穏な空気が漂っていた会場内だったが、今や雰囲気は穏やかなものへと変わりつつあった。
そんな中、無粋にも怒鳴り声を上げる者がいた。
「おい、貴様等!この俺様を差し置いて何を和んでいる!」
ロザンナへ婚約破棄を言い渡し、会場を不穏な空気にしていた張本人──ナインスター・バージニアである。
ミルスが思い出したように手を叩く。
「あ、そういえば君達もいたんだったな。すっかり忘れていた」
「忘れていただと...?ふざけているのか貴様!」
顔を赤くして怒鳴るナインスター。あと一歩で陰湿な女に正義の鉄槌を下せたところを、急に現れたカエルの格好をした令嬢によって邪魔をされてしまったのだ。伯爵令息としてのプライドが黙ってはいなかった。
そんな分かりやすく憤る彼へミルスが冷静に告げる。
「まあまあ、そういきり立つなセブンスター君。胸元の星が泣いているぞ」
「誰だそれは!?俺様の名前はナインスターだ!」
「うん?そうだったか...?これは失敬」
きょとんと首を傾げるミルス。決して、彼女自身には悪気はなかったが、その仕草が更に彼を焚き付けた。
「俺様がバージニア伯爵家の長男と知っての狼藉か!」
「名前を間違えたくらいで怒鳴らないでくれ。それに家柄で勝負するのなら、この中だとロザンナが断トツで一番だぞ」
「き、貴様...!」
ナインスターが歯噛みをしながら黙る。如何にプライドが高いといえど、既知の事実を突きつけられては何も言えない。ふと、そんな彼の性格を熟知しているロザンナが友人の袖を引っ張った。
「ちょ、ちょっとミルス。あまり挑発しないで下さいまし」
「別に挑発しているつもりはないのだが...。ロザンナがそう言うならば、私はメスのカエルの如く押し黙るとしよう」
「な、なんですの?そのメスのカエルって...」
聞き慣れない単語にロザンナが疑問を抱く。
「カエルは鳴嚢と呼ばれる器官を使って鳴くのだが、これはオスのカエルにしか備わっていないんだ。だから殆どのメスのカエルは鳴かないか、小さく鳴く事しか出来ないのさ」
「へえ、カエル界隈にも色々ありますのね。──って、今はその豆知識は結構でしてよっ」
ロザンナが頭を振るうと、絶賛怒り心頭に達しているナインスターの方を向く。
「ナインスター様。話が脱線してしまいましたが、彼女こそが私の無実を証明して下さる証人ですわ」
「ハッ、こんなカエル女が証人だと?何処の誰だか知らないが、秋季パーティにそんな間抜けな格好をしてくる奴がまともだとは思えんな」
──その秋季パーティの場で、堂々と婚約破棄をする非常識な人にだけは言われたくない。
ロザンナはそう思ったが、また話がややこしくなりそうなので気持ちに蓋をする。
しかし、大切な友人を貶された事に関しては我慢が出来なかった。
「彼女は私の最も大切な友人ですの。彼女を貶すのは止めて下さいませ」
その口調は努めて冷静なものだったが、低い声色と切れ長の鋭い瞳も相まってか、底知れぬ迫力を帯びていた。これには思わず、ナインスターもたじろぐ。
「...ちっ、いけ好かない女め。やはり貴様との結婚など考えられんわ!」
「あら、奇遇ですわね。私も貴方のように傲慢な方はお断りですわ」
両者の間で火花が散る。一体いつまで二人の攻防は続くのか。周囲の誰もがそう思ったが、迂闊に口を挟める空気ではなかった。
「...まあいい。そのカエル女が何処の誰かは知らないが、貴様の無罪を証明出来るものならばしてもらおうではないか」
蔑んだ瞳を向けて小馬鹿にするナインスターだったが、今度はロザンナがきょとんとした様子で首を傾げた。
「あら、伯爵家の長男ともあろう方がご存知ないのですか?」
「何がだ」
「スコルピア王国、南方の地”スズメコウノトリ区”。希少な宝石鉱山を所有する領地の名前ですわ。独自の加工技術で生み出された装飾品の数々は美しく、国内のみならず海外でも幅広い人気を得ていますの」
怒りを煽らないよう、ロザンナが柔らかい口調で言うも、またもやナインスターが小馬鹿にした態度を取った。
「何を言い出すかと思えば知識自慢か?浅はかな女め。そんな有名な話は誰でも知っているわ。俺様の胸元の星々もスズメコウノトリ区でオーダーメイドした特注品だからな!」
「流石ですナッタ様ぁ!」
自信に満ちた表情で自己アピールするナインスターと、それに心酔するピアニシモス。世界的に有名な宝石を身に着ける事は、貴族にとって財力を象徴する事となる。もっとも彼が身に付けている宝石は、ロザンナの実家であるマベルス公爵家の援助なくして成り立たないものなのだが、当の本人はそれを知らない。
二人の滑稽な姿にロザンナが苦笑する。
「では当然、彼の地を治めている方の名前もご存知ですよね?」
「そんなもの当たり前だ。スズメコウノトリ区を治めているのは、あのマーガレット伯爵だろう」
「正解です。よく勉強なさっているではないですか」
「貴様...さっきから何が言いた──」
彼が気が付いたのはそのときだった。あの鬱陶しいくらい素行に目を光らせていた女が、言うに事欠いて知識自慢などするだろうか?目の前の女の態度は毅然としたままだ。認めたくはないが、彼女はいつだって貴族の矜持と規律を遵守してきた。この無意味な押し問答にも意味があるはず...。
そうして恐る恐る視線を近くのカエルへ向けると、一つの疑念を口にする。
「ま、まさか──...その女は...」
「彼女の名前はミルス・マーガレット。スズメコウノトリ区を治めるマーガレット伯爵家の息女でしてよ」
「ば、馬鹿な...!こんなカエル女があの魔王伯爵の娘だと!?」
「そうですわ。なので彼女に対する中傷的な発言は控えた方が宜しいですわ。物理的に貴方の首を締める結果になりかねませんもの」
意向返しするように笑みを浮かべるロザンナ。正にしてやったり顔だ。
一方でナインスターは額に汗を滲ませながら、胸元の星々に目をやっている。そんな彼の事を気にも留めず、ロザンナが隣の友人へと目をやる。
「さあミルス、皆様の前で貴女の証言を聞かせて下さいませ」
「う、うう...ロザンナぁぁぁ...」
「な、何で号泣していらっしゃるの!?」
涙を流すミルスの姿にギョッとするロザンナ。前置きが長くなりすぎてしまったか。はたまたパスタを丸呑みにした弊害でお腹を壊してしまったのか。再び彼女が清潔なハンカチを取り出す。
「ミルス、どうかしましたの?」
「う、うう...だって...だってロザンナがぁ...」
「え、私がどうかしましたの?な、何か貴女の気に障る事を言ってしまったかしら...?」
狼狽する彼女へミルスが泣きながら告げる。
「私の事を、最も大切な友人だって言ってくれたから、凄く嬉しくってぇ...」
「そこですの!?」
「ロザンナぁぁぁ!君は私の最高の友だぁぁぁ」
「ひぃぃ、どうか抱きつかないで下さいまし!制服に鼻水がぁぁぁ」
人目も憚らず、抵抗するロザンナの胸の中で涙を流すミルス。甲高い悲鳴が会場内を木霊する。
また、二人の目の前では胸元に目をやる青年と、彼を気遣う令嬢の姿もあった。
「あの魔王伯爵の逆鱗に触れては、俺様の星々の輝きが...」
「ナッタ様ぁ、どうしちゃったんですかぁ?しっかりして下さいよぉ!」
──これはどうやって収拾つけたらいいんだ?周囲の人間はそう思った。
飾り付けで煌めく会場内が騒然としている。ガストがそれに気が付いたのは、あらかた保護者へ挨拶回りを済ませた後だった。
「何やら騒々しいな」
係の者から貰ったワインを嗜みながら、彼が周囲を見渡す。すると中央には人集りが出来上がっていた。
人集りには学園の制服を着た生徒の割合が多い。大方、一部の生徒が浮かれて騒ぎを起こしているのだろう。
「王太子殿下もお越しになる神聖な夜会だというのに、全くもって青いことよ。一体何処の馬鹿が騒いでいるんだか」
ガストが遠目から人混みの中を覗き込む。彼の視界に真っ先に映ったのは、愛らしいフォルムをした緑の三角頭だった。
──愛娘!?
娘の姿を見つけて驚愕するガストだったが、直ぐに娘の近くにいる生徒へと目をやる。
「あれはマベルス公爵令嬢と、奥にいるのはバージニア家の倅か。その隣にいる娘は......誰だ?」
騒ぎの原因は不明だが、場にはただならぬ雰囲気が漂っていた。バージニア伯爵令息など明らかに怒った様子で、マベルス公爵令嬢と娘に何かを言っている。
「何を言われているんだ?ここではよく聞き取れない」
生徒同士の諍いに大人が首を突っ込むのは気が引けるが、その場に娘の姿がある以上は保護者として出向かわない訳にはいかないだろう。
そう思ったガストが一歩踏み出す。その時だった。娘が涙を流しながらマベルス公爵令嬢に抱きついたのだ。
「ミルスッ!?」
刹那、ガストは悟った。あのバージニアの小僧が娘に何か言ったのだと──。
──捻り潰す。
明確な殺意を浮かべながら、ガストが騒ぎの渦中へと向かう。すると、彼の眼前に豆電球のような影が現れた。
「これはこれはマーガレット伯爵。ご無沙汰しております」
現れたのは、無地の頭髪を光らせる、温厚そうな表情をした小太りの貴族だった。
──退けやハゲ!!娘の一大事だ!!
反射的にそう思うガストであったが、感情を押し殺して、彫りの深い顔に笑みを作る。
「これはラッキョウ卿、久しいですな。息災でしたか?」
「ええ、お陰様で健康な日々を送っております」
「それは何よりです」
彼はマーガレット伯爵家と特産品である豆製品の販売で提携を結んでおり、懇意にしている商家出身の貴族であった。その為、無碍に扱う事は出来なかった。
「閣下に置かれましては、以前の取引で大変お世話になりました」
「いえ、小生は御宅の豆製品を評価しただけに過ぎません。ここまで見聞を広められたのは、偏にラッキョウ商家の商才によるものかと」
「はっはっは。かの魔王伯爵にそう言って頂けるのであらば、我が商家も鼻が高いというものです」
社交辞令を受けて上機嫌になるラッキョウ卿。このまま談笑に浸ってやりたい気持ちもあったが、今のガストには遥かに優先すべき事があった。
「では小生は少し用事がありますので、この辺で──」
そう言って、程々に場を離れようとするガストだったが、ラッキョウ卿が彼を止めた。
「お待ち下さい」
「...何か?」
「実は最近新しい豆製品が出来たのですが、是非とも閣下に試食して頂きたく」
ラッキョウ卿が付き人からタッパを受け取ると、それをガストの前で開く。中には光沢のある綺麗な球体が入っていた。
「ほ、ほう...これは”らっきょう”ですかな」
「仰るとおり、丹精込めて育て上げた自慢の”らっきょう”でございます。感想等頂けたらと思いまして」
「ええ...勿論です。しかし、何やら会場が騒がしくありませんかな?」
遠回しに異変を促すガスト。しかし、ラッキョウの商魂は逞しかった。
「さあ?大方、慣れない夜会で学園の生徒が騒いでいるのでしょう。若さとは良いものですなぁ。それはそうと、是非とも新製品の試食をお願い致します。他にもうってつけの商品を持参しておりますので」
「くっ...!」
早く娘の元へ駆けつけたいのに、豆製品の試食から逃れられないガストであった。
つづく




