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「すっかり長居してしまったな。ジャック」
首から下げた我が子に話しかけながら、ミルスが一階への階段を下る。
結局、医務室には一度も行けなかった。養護教諭に診断書の一枚でも書いてもらおうと考えていたのだが、すっかりと予定が狂ってしまった。
終業のチャイムはとっくに鳴っており、早いクラスは既に下校を始めている生徒の姿も見受けられる。この分だと、B組もホームルームが終わる頃だろう。
基本的にビクトル学園でのホームルームは淡白なものだ。明日の授業で必要になる物と放課後の掃除当番の確認だけをすると、特に雑談などはすることもなくお開きとなる。それに授業で必要なものは毎月支給される授業表にも記載されているので、言ってしまえば形式上でやっているに過ぎないのだ。
「念の為、今からでも医務室に行っておくか...」
下校する生徒達を眺めながら、ミルスがぽつりと呟く。クラスメイトの前で仮病を使っただけに、虚偽がバレれば後で騒ぎになってしまう可能性がある。
しかし、彼女にはそれほど親しいクラスメイトはいない。バナナーナ子爵令嬢とはそこそこの交流があるが、お互いに社交辞令を交わす程度の関係だ。心配して様子を見に来てくれる生徒はいないだろう。
これは幸いと言っていいものか。少しの落胆を感じながら、ミルスが医務室へと向かう。
「しかし、まさか王城から招待されるとは思わなかったな」
首から下げた緑のカゴを支えながら、ミルスが制服のポケットから一封の書簡を取り出す。紙面には王家の印章が捺されており、見るだけで権威を察するものだ。もっとも、それを普通にポケットに収めてしまう様を見ると、彼女にとっては学園長も王家も大して差はないように思える。
「ミルス嬢。実はね、私の母上が君に会いたがっているんだ。近いうちに王城へ来てはくれないだろうか?」
終業のチャイムを聞き、ぼちぼち戻ろうかと考えていたところへ、徐ろに彼が差し出した書簡と一緒に告げた言葉。王太子の彼の母親というと、言うまでもなく王妃殿下の事だ。
才貌両全、王国の華──。
尊大な異名を持って社交界に君臨してきた彼女は、美しい容姿と寛容な性格をしており、国民から圧倒的な支持を得ると共に国政でもずば抜けた才覚を発揮している。その手腕は海外でも評判が高く、今や国王陛下より統治権の一部を与えられている唯一の人間だ。
そんな雲の上の存在からミルス個人への誘い。手紙には王妃直筆と思われる華やかな文章が書かれている。王妃が直々に伯爵令嬢を招待するなど、本来はあり得ない話だが、思い当たる節がないわけではない。
「恐らく断る事は難しいだろうが、これは私一人で決められる事ではない。帰ってからお父様に相談しよう」
特に動揺する様子もなくミルスが言う。その泰然とした佇まいは元来の図太い性格もあるが、彼女の親友であるロザンナが王家と関わりが深い事から、そこまでの衝撃はないのかも知れない。
ミルスが王妃殿下の手紙に目を通しながら、廊下の曲がり角を曲がる。丁度通りかかった人影とぶつかった。
「きゃっ!」
「むきゅ!」
ぶつかった弾みで廊下の床に尻もちを着くミルス。幸いにも首から下げたカエルは無事だ。
「ごめんなさい、少し急いでおりましたの。お怪我はありませんこと?」
「う、大丈夫だ。こちらこそ、よそ見をしていて済まなかったね」
前方から差し伸べられた手を取りながらミルスが答える。すると、そこに立っていたのは彼女の親友だった。
「おや、ロザンナじゃないか。こんなところで会うなんて奇遇だな」
いつものように軽く挨拶を交わすミルス。しかし、当のロザンナは一瞬目を丸くしたかと思うと、いきなり大きな声を上げた。
「ミルスッ!」
「にゃぴっ!?」
これには流石のミルスも驚いた様子。
「ど、どうかしたのか?急に大声を出して...」
「どうかしたのかじゃありませんわ!貴女、こんなところで何をしていらっしゃいますの!」
「何って...」
授業を抜け出していた、なんて正直に答えるわけにはいかず、ミルスが口を噤んだ。
そんな彼女の肩をロザンナが掴むと、捲し立てるように告げる。
「さっきB組のバナナーナ子爵令嬢から聞きましたわ。貴女、腸チフスと角膜ヘルペスを発症したんでしょう!?」
「うん?」
間の抜けた声を出すミルスの手を取りながら、ロザンナが悲痛な面持ちで告げる。
「私、貴女の事が心配で...。急いで医務室に行くと、養護教諭から貴女は来ていないって言われて、ひょっとして医務室に向かう途中で何かあったんじゃないかって思って...!」
ロザンナの表情には普段の冷静さはなく、珍しく青い顔をしている。
予想に反して仮病の件は広まっているのだろうか。A組の彼女が知っているとは思いもよらなかった。
「急いで医務室に向かいますわよ!手遅れになったら大変ですわ!」
「あっ、待ってロザンナ!」
切羽詰まった様子のロザンナに手を引かれながら、ミルスが慌てて言い訳を考える。しかし何も思いつかなかった。頭の切れる彼女を相手に下手な言い訳は通用しない。嘘など直ぐに見抜かれてしまうだろう。
そんな時、不意に打算的な事を考えていたミルスが冷静になる。
──私は何を言おうとしているんだ。
学園で出来た唯一気の許せる親友。そんな彼女の厚意を無碍にしようというのか。如何に自分がカエルといえども、流石にそれは道理に反している。ここは正直に話すべきだろう。
涙目で狼狽える親友の姿に罪悪感を感じながら、徐ろにミルスが息を吐き出す。
「ロザンナ、私の病気のことなんだけどね。それは盛大な勘違いなんだ」
「勘違い...ですの?」
ミルスがロザンナへ事情を全て話す。話を聞きながら、彼女は時折顰めっ面を作っていたが、最終的には呆れたように溜息を吐いた。
「首から下げている虫かごといい、手に付けているニトリル手袋といい、妙だとは思いましたけど、まさか仮病を使っていましたのね...」
「そうなんだよ。ジャックったら急に脱走するんだもの、驚いてしまうよね。ははは」
「笑い事ではありませんわよ!学園にカエルを連れ込んだ挙げ句、虚偽の報告をして皆様に心配を掛けるだなんて、迷惑な事この上ありません。反省なさいまし!」
「はい...」
ミルスがしょんぼりと肩を落とす。ロザンナのこの上ない正論に反論の余地などなかった。
「私、本当に心配しましたのよ?」
「うう、心配掛けてごめんね?」
「分かったのならもう良いですわ。今後は気を付けなさいまし」
「うん、もうこんな事はしないって約束するよ」
以前と同様、叱られて素に戻るミルスを見てロザンナが苦笑する。個性的な親友の事だ、きっとまた自覚もなしに破天荒な行動を起こすのだろう。そう予想しながらも、ロザンナは弱々しく縮こまる親友の姿を愛おしく感じていた。
「それよりも、よそ見をしていたと仰ってましたけど、何か見ていたんですの?」
「ああ、これだよ」
ミルスが手に持っていた手紙を見せる。それを受け取ったロザンナが、文面に目を通すなり目を丸くした。
「王妃殿下からお茶会の誘い!? どうして婚約者候補でもない貴女宛に?」
「さあ。詳しい理由までは分からないが、きっと秋季パーティでの一件が関係しているのだろう」
「...キースですわね」
ロザンナが頭を抱える。相変わらず王家は動きが早い。秋季パーティの騒動は王都で広まりつつあるとはいえ、こうもあっさりと行動に移すとは。懸念していた事態となってしまった。
手紙の題目は王妃殿下と王太子殿下、両名を交えてのお茶会だが、秋季パーティの一件での謝罪が目的なのだろう。
しかしながら、王家から直々に招待を受けたというだけで大きな影響力を持つ。ましてや、ミルスはあのキースが好意を示した令嬢だ。王妃教育過程を進めている婚約者候補がいる以上、新たな婚約者を据える事はしないだろうが、変な噂が立っても不思議ではない。
──大体、キースがあんな公衆の面前で告白なんてするから、こんな厄介な事になるのよ。留学先から帰ってきた時は立派になったと思ったのに、肝心なところは抜けているんだから。
胸にズキリとした痛みが走る。
──あら?何ですの?今の気持ちは...。
ロザンナが変な違和感を感じていると、ミルスが上目で話しかける。
「帰ってからお父様にも相談する予定だけど、どうすればいいと思う? やはり出席するべきだろうか」
「王家から直々に打診された以上、出席するべきですわ。一応断る事も可能ですけど、世間体を考えたら出席以外の選択肢はないですわね」
「そうか...」
ミルスが粛々と頷く。面倒事は避けたかったのだが、王家が関わっている以上は出席するしかないようだ。彼等と親交の深いロザンナが言うのだ、彼女の意見に間違いはないだろう。
「場合によっては、赤痢とペストが発症したと言って欠席しようと思っていたのだが、それは止めておいた方がいいか」
「絶対止めておいた方がいいですわ。王家への虚偽申告は冗談では済みません事よ」
王家に限った話ではないのだが...。一文を加えたくなるが、収拾が付かなくなりそうなので、ロザンナが野暮なツッコミを控える。
「ロザンナがそう言うなら止めておくよ」
「ええ、是非そうして下さいまし。幾ら貴女の御父上でも、王家が相手では庇い立て出来なくなりましてよ。最悪の場合、マーガレット伯爵家は爵位返上の上に当主が投獄...なんて事も考えられますわ」
「それは駄目っ!」
廊下を大きな声が響き渡る。珍しく取り乱す親友の姿に、ロザンナが慌てて場を取りなす。
「も、もしもの話でしてよっ」
「あ...急に大きな声を出してごめん。お父様がそんな目に遭うなんて、想像しただけで耐えられなくて」
「ミルス...」
小さく名前を呟くと、ロザンナがミルスの頭を優しく撫でる。
「ロザンナ?」
「心配要りませんわ。王室典範に従っていれば、決してそんな事にはなりませんから」
「...うん。そうだね」
直接は関与していないものの、一部始終を見てきた彼女にとって、父親想いの健気な姿には感じ入るものがあった。
──有事の際には、私がミルスの事を守って差しあげなくては...!
ロザンナが一人、闘志を燃やす。これはあの日、相談を受けた後で気になって調べた事なのだが、ミルスは複雑な家庭内事情を抱えているものの、母親は存命しているようだ。
それ自体は良かったものの、現在も母親とは疎遠な関係となっている。その為、身近にいる唯一の肉親の身を案じるのは当然の事だろう。
学園のチャイムが鳴る。
「あっ、もうこんな時間か。ぼちぼち準備をしないといけないな」
二人で会話をしている内に、いつの間にか時間が経っていたようだ。今日の学園は五時限で終わりだが、補習を受けているミルスにとっては、この予鈴は大きな意味を持つ。
「今日も補習ですのね」
「うん。まだ欠席分の課題が残っているからね」
「そうですのね...」
最近、テラスで一緒に過ごす機会がなくなった事をロザンナが寂しがる。しかし、良識人である彼女はミルスの事情を優先するしかなかった。
「今日も私はお先に失礼しますわね。補習頑張って下さいまし」
「うん。ありがとう」
「では、ごきげんよう」
別れの挨拶を告げると、ロザンナが去っていく。その立ち振る舞いは優雅なものだったが、背中は何処か小さく見える。
「ロザンナ!」
直後、彼女の背後から声が掛かった。ロザンナが何事かと疑問を抱いていると。
「補習が全て終わったら、一緒にお茶でも飲もう!」
「...!」
愛らしい笑顔が向けられる。それを見たロザンナの胸に暖かな感情が広がった。
「...ええ!その日を楽しみにしていますわ!」
そう告げる彼女の表情もまた、華が咲いたように可憐なものだった。
つづく




