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スコルピア王国、南方の領地に構えられた一軒の屋敷。周囲は近代的なブロック塀で囲まれており、広大な敷地には池もある。多くの平民が住まう領内で、これほど目立つ建物は他にはない。
──ここはマーガレット伯爵邸。ミルスの実家である。
「ただいま戻りました」
いつものように馬車を介さず、徒歩で帰宅したミルスが実家の扉を開く。外面と同じく、屋敷は内部まで飾り立てられており、伯爵家の名に恥じない財力を物語っていた。
「おかえりなさいませ。お嬢様」
数人の使用人を筆頭に頭を下げたのは、白髪の生えた執事だった。眼鏡越しの垂れた瞼が優しい印象を与える。背丈は170センチを超える高身長で、老年にしては背筋も伸びていて姿勢も良い。
「ただいまロブさん。皆もお出迎えありがとう」
ミルスが出迎えてくれた使用人達へ礼を告げると、直ぐにロブが首から下げている虫かごに目をやった。
「おや?今日も何か捕まえてきたのですね」
「うん、テラスでコオロギを見つけたから捕まえてきたんだ!まさか学園に居るとは思わなかったよ。あ、それからロザンナがね...」
楽しげに話すミルス。その様子は学園での様子よりも幼く見えた。
それを見たロブが微笑む。
「今日は良い一日となったようですね」
「あ...ごめんね。私ったら、ついお話に夢中になっちゃって」
「いえいえ。お嬢様が楽しんでおられる姿を見るのは、我々使用人一同も嬉しいですから」
暖かい目を向ける使用人達に──ミルスが照れながら視線を逸らす。ことカエルの事となると、周りが見えなくなるのは自覚があるが、それを身内に晒すのは気恥ずかしいものがあった。
そんなお嬢様に対して、ロブが使用人を代表して一言。
「ひとまずはお召し物を着替えましょう。夕食の用意は出来ています」
「そうだね。...お父様は?」
「はい。お嬢様の帰りを待っていらっしゃいましたよ」
「そう...」
短く返事をすると、ミルスが数人のメイドを伴って自室へと向かう。
広い室内にはシーツの整えられたベッド、それに値の張りそうな机と椅子。今朝も遅刻寸前まで眺めていた、カエルが透明なアクリル製ケースの中に入っていた。
自室に着くなり、ミルスがケースへと近づく。
「ただいま、マロンちゃん」
愛すべきペットの名前を呼び、ケースの中の食品水ボウルに手を伸ばす。ボウルの底が顔を出すほど水は減っており、今朝方入れたミルワームも全て平らげているようだった。
「綺麗に食べたんだね。偉いね」
指で緑色の三角形の頭を撫でる。心地良さそうに細める目玉が可愛らしい。
専用の水差しでボウルの半分ほどを水で満たし、今日捕まえてきた数匹のコオロギを虫かごから放つ。即座に魔法のような舌が伸びた。
餌に興味を持って貰えて安心したミルスが、視線を隅へと移す。
備え付けの温度計には23℃と表示されており、適温を維持している。ヒーターを回す必要はなさそうだ。
「後は、土をもっと柔らかいものに変えた方がいいな。これからもっと寒くなってくるだろうし」
ミルスが思考に耽っていると、背後からメイドが「お嬢様」と声を掛ける。
「マロンちゃんのお世話は後にして、先に着替えてから夕食にしましょう。旦那様がお待ちですよ」
「あ...済まない。そうだったな」
またやらかしてしまったと、ミルスが反省する。
そのまま探究心を置き去りに、衣装棚へ近づくと、直ぐに使用人の手が加わった。瞬く間に貴族令嬢らしい装いへと様変わりする。鏡に映る令嬢に野暮ったさはない。
「お嬢様は本当に可愛らしい顔立ちをしていますね。奥様にそっくりです」
「はは、それは嬉しいな」
「虫を触った後ですから、夕食の前にはきちんと手を洗いましょうね」
「そのくらい分かっている」
子供を宥めるような物言いに、少しだけムッとしながら返事をする。これから会うのは伯爵家の当主なのだ。娘としての自覚を持たなくてはならない。
食堂に入ると、そこには既に、上座に腰を掛ける父親の姿があった。
漆黒の髪を全て後ろになでつけた髪型に、整った彫りの深い顔立ち。肩幅の広い筋肉質な骨格は、御年46歳を迎えたとは思えないほど、若々しくて力強い。その風格は地方の領主を務めるだけあって、凄みが感じられる。
「遅かったな。ミルス」
よく通る、低い声が私の名前を呼ぶ。それだけで一瞬、心臓が跳ねるのが分かった。
「遅くなってしまい申し訳ありません。お父様」
「......うむ」
少しの間を置いて、お父様が返事をする。帰りが遅れた事を怒っている、もしくは呆れているのだろう。彼の顔は険しいままだ。
「早く席に着きなさい。せっかくの料理が冷めてしまうだろう」
「...はい」
徐ろに次席へ腰を下ろす。向かいの席は空席になっており、今日もお母様の姿はない。その事に若干の寂しさを感じるも、一年経った今となっては大分慣れてきた方だ。
テーブルに料理が運ばれてくる。厚みのある牛肉のステーキに、添えられた緑黄色の野菜。アボガドとトマトが調和したパスタに玉ねぎの具スープと、豪勢な組み合わせのディナーだ。温め直してくれたのだろう、各メニューには湯気が立っており、香ばしい匂いが食欲を唆る。
「では頂きます」
手を合わせるお父様の後に続き、食への感謝を込めてから食べ始める。今日も我が家の料理人が作るご飯は格別だ。ついガッツキたくなる衝動を抑えながら、貴族令嬢らしく上品に食べ進めていく。
暫くして、野菜以外を食べ終えたお父様が口を開いた。
「ミルスよ、今日も馬車で帰宅しなかったそうだな。御者から聞いたぞ」
食事の手が止まる。楽しかった気持ちが一気に失せていった。
「あの馬車はそんなに乗り心地が良くないか?」
「いいえ...そんな事はありません」
我が伯爵家の馬車は、車輪や座椅子にも業者の手が加えられている。その為、移動の揺れを最小限に留める工夫がなされているのだ。乗り心地で言えば他の上流貴族──例えばマベルス公爵家、ロザンナの家のものにも引けを取らない。
「では何故、歩いて帰宅しようとするのだ?」
「それは......」
──言えるはずがなかった。
私が毎回馬車を使わないのは、帰り道にカエルの捜索をしているからだ。とても貴族令嬢らしからぬ行動といえる。
答えられずに黙っていると、案の定、お叱りを受ける。
「お前は貴族令嬢なのだ。もっと自覚を持ちなさい」
「...申し訳ありません」
「明日からはちゃんと馬車で帰って来るように。いいな?」
「はい、分かりました」
釘を差されてしまった。これで明日からは、学園外でカエルの捜索をする事が出来なくなるだろう。
自然と肩を落としていると、更に低い声が左鼓膜を刺激する。
「それともう一つ、今日学園から連絡があったぞ」
「...秋季パーティの件でしょうか?」
「それもあるが...担任の先生から聞いたぞ。お前が授業を欠席気味だとな」
思わず肩が上下する。これに関しては貴族令嬢以前の問題だった。
「何故授業をサボったんだ?」
血の気が一気に引いていく。怖くてお父様の方を見る事が出来なかった。金縛りにあったように、喉の奥が重苦しい。
「ミルス、なぜ何も答えないんだ?」
「...そ、それは......」
何とか声を絞り出すも、言葉にする事が出来なかった。サボりの理由など一つしかないが、それを言ってしまえば、私はきっとお父様を更に失望させる事になるだろう。私はそれが怖かった。
「ミルス、ちゃんとこっちを見なさい」
恐る恐る、彼の方を見る。夜間に差し掛かっている事もあってか、彫りの深い顔は更に影を帯びており、威圧感が半端なものではない。
ふと、鋭い眼光と目が合う。それだけで心臓が締め付けられそうになってしまう。きっと今の私は、オタマジャクシよりも非力な存在だろう。
お父様と数秒間、目を合わせていると、不意に彼がそっぽを向く。娘の不甲斐ない姿に呆れたのだろう。
「ほ、本当に申し訳ありませんでした。明日からはきちんと授業に出席しますので...」
「......うむ」
目線が再びお皿へと戻る。料理はまだ半分ほどしか減っておらず、好物のアボガドとトマトのパスタにも手を付けていない。こういった時には、好きなものは先に食べておけば良かったと思う。
──早く自室に戻ってカエルを愛でたい。
そんなこちらの心境を察していたのか。はたまた事前に知っていたのか──。いつもは多くを語らないお父様が核心へと触れた。
「カ エ ル」
「──っ!」
慌ててお父様の方を見る。彼はナイフで緑黄色の野菜、ピーマンに切れ目を入れていた。
──まるで、それが私の愛すべき存在とでも言わんばかりに...。
「ど、どうしてそれを...」
自分でも驚くほど震える声が出るが、お父様は変わらず低い声で告げる。
「小生が自分の娘の行動を把握していないと思ったか」
血の気が引いていくのが分かった。彼は初めから全て知っていたのだ。
私が入学初日に誤ってカエルの紹介をしてしまった事も。新入生歓迎会でお守りとして連れていたカエルを逃がしてしまった事も。学園で周りから浮いてしまっている事も、全て...。
「もう一度言うがミルス、お前は伯爵令嬢なんだ。沢山の人間がお前に付いている」
「...はい、承知しています」
彼の言う事はもっともだ。伯爵令嬢となれば、学園内での行動も全て把握されていて不思議ではない。甘かった。どうしてそんな事も気が付かなかったのか。
「申し訳ありませんが、体調が優れないのでこの辺で失礼します」
「大丈夫か...?」
「はい...少し休めば大丈夫ですので...」
「...うむ、分かった。何か必要なものがあれば言いなさい」
「有難うございます」
お父様に一礼して食堂を後にする。”必要なもの”とは恐らく、貴族令嬢としての事だろう。そこに私のカエルは含まれていないのだ。
自室に戻ると、私はペットには目も暮れず、シーツが整えられたベッドに倒れ込んだ。
──愛用のカエルのぬいぐるみを抱き締めて。
「う...うう...」
緑の三角頭が涙の跡を残す。
いっそ、私もカエルのように自由に生きられたら。そう思うのは余りにも贅沢な悩みだ。
それでも、私は...。
◆◆◆
「はあ...うちの娘が可愛すぎる」
ミルスが去った食堂で、伯爵家当主ガスト・マーガレットがため息を吐いた。彫りの深い顔立ちは迫力があるままだが、その頬はだらしなく緩んでいる。
愛娘──ミルスは、生まれた時から天使のように可愛かったが、16歳となった今では、愛らしさと美しさに一層の磨きが掛かっている。端正な顔立ちや長い睫毛なんかは妻にそっくりだ。
「体調が悪いと言っていたが...ミルスは大丈夫なのか?」
「直ぐに手の空いている使用人を向かわせましたので大丈夫でしょう。というより、そう思うのならばもっと優しい言葉を掛けてあげてはどうですか?」
「そうですよ!いつもあんな威圧感のある態度を取って...。お嬢様が可哀想です!」
娘を気遣うガストに、老執事のロブと使用人のメイドが抗議する。長年屋敷に仕えている事もあり、多くの使用人は彼の本当の姿を理解している。
見た目は強面の屈強な男だが、その実は超がつくほどの親バカなのだ。
「旦那様はいつも言葉が足りないのですよ。心配なら素直にそう言えばいいものを、伯爵令嬢として自覚を持てだのなんだのと...」
「それは...反省している」
不器用な余り、いつも言葉が足りなくなってしまう事は自覚していた。馬車の件だって、娘の安全を懸念したに過ぎない。
「大体さっきのアレは何ですか?お嬢様にこっちを見ろと言っておきながら顔を逸らすなど...」
「うっ...し、仕方がないだろう。ミルスが余りにも可愛かったから、つい直視出来なかったんだ」
「初恋のカップルか」
ロブとメイドに叱られながら、ガストがミルスの座っていた席へ視線を向ける。皿の料理は半分以上残っており、料理長に指示して作らせた娘の好物にも手が付けられていない。
──こんなとき、妻がいれば何か変わっていたのだろうか。
愛妻リベットが、イグアナの研究の為に他国へ行って一年余り。最初はショックで落ち込んでいた娘だったが、幼い頃から好きだったカエルに夢中になることで、その寂しさを紛らわしているように見える。健気な娘を思うと、胸が締め付けられる想いだ。
「でも、お嬢様って本当に綺麗になられましたよね。奥様そっくりです」
「ああ、小生の自慢の娘だ」
「最近は旦那様の言葉遣いも真似していらっしゃって可愛いです」
「そうだろう?そうだろう?」
メイドの言葉に上機嫌になるガスト。自他ともに認めるほど、愛娘の成長ぶりは著しい。
そんな娘の事が心配で、学園には密かに伯爵家の者を監視に付けていた。そこで娘が奔放な行動を取って周囲から浮いてしまっている事も、父親である彼は知っている。
「小生はミルスがカエルを愛でて明るく過ごせるのなら、それで良いと思っている。だが学園ではそれを良く思わない連中が多いのが現状だ。唯一、マベルス公爵家の御息女だけは親しくしてくれているようだが...」
「ロザンナ様ですね。いつも御者にも挨拶を交わしてくれる優しい御令嬢です」
「今度、彼女の実家にはお礼をしなければならないな」
娘に親しい友人がいる事にガストが安堵を覚えるも、彼の不安の種はまだ尽きない。
「しかし、小生はどう娘と接したら良いのか...」
「素直に自分の気持ちを言うだけではありませんか。お嬢様は私達には明るく接して下さいますよ」
「羨ましい話だ...」
肩を落として、しゅんとするガスト。その姿は先ほどのミルスよりも小さく見える。
そんな彼へロブが一言。
「今回の一件でお嬢様がカエル嫌いにならないといいですね」
「うっ...それは困るぞ。小生は娘には自由に過ごして貰いたいのだ」
「お嬢様は容姿、成績ともに完璧なご令嬢です。そこにカエルが絡まなくなったならば、周りからはさぞ魅力的に映るでしょうね」
「それはつまり...?」
「異性が放っておかない可能性があります」
「は?誰だよそれ。殺すぞ」
「可能性の話です。殺気を出さないで下さい」
ドスの効いた声を出すガストをロブが宥めると、小さくため息を吐く。
「そうならないようにするためにも、ちゃんとお嬢様に自分の意思を伝えませんと。きっと大きな誤解をなさっていますよ?」
「う、うむ...そうだな。努力しよう」
「約束ですからね!お嬢様を泣かせたら、私達使用人一同も承知しませんから!」
「し、秋季パーティまでには何とかしよう」
ガストが頷く。そこにあるのは領主としての顔ではなく、一個人の父親の顔だった。
「──ところで...このピーマン、代わりに食べてくれないか?」
「苦手な食べ物だからって、子供じみた事を言わないで下さい。いつものように小切りにしてから、鼻を摘んで食べなさいませ」
「...はい」
つづく




