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「......眠たい」
黒板を板書する音を訊きながら、つい無意識に呟いた。
昼食を摂り終えた直後にくる眠気はとうに越えているが、こうも暖房の効いた教室にいると、ポカポカと眠気に誘われてしまう。
時刻は15時03分。苺さんだ。小腹の空く時間帯に何とも美味しそうな数字が並んでいる。
今日の授業はこの六時限目で終わりだが、例によって、放課後には補習が待っている。帰りは18時を過ぎるだろうか。
こんな日には何もかもほっぽり出して、野生のカエルのように一足先に冬眠してしまいたくなるが、遅くまで付き合ってくれている先生方の気持ちを考えるとそうもいかない。
しかしこうも勉強漬けの毎日では、癒やしを求めてしまうのもまた人間というものだ。というわけで、今日は鞄にあるものを忍ばせてきている。
半開きになっているカエルを模したリュックサックの口を開けると、一つの小さな緑色のカゴを取り出す。そこには一匹の緑色の妖精が居た。
それを目にした途端、たちまち眠気は薄れていき、心が浄化という名のカタルシスを得るに至る。
彼の名前はジャック。種類はモリアオガエルで、やや角ばった胴体と背中の細かな斑紋が美しい。その姿は愛玩ペットである「マロン」ちゃんとはまた別の、愛らしさと頼もしさを感じさせる。
主に私が出張用に育て上げた個体で、入学式に緑の軍勢を率いていたのも彼である。
「美しい...」
柵の隙間から覗かせるシルエットに恍惚しながら、徐ろにリュックサックから一枚のニトリル手袋を取り出す。
モリアオガエルはアマガエル同様に毒性はなく、素手で触れても特に危険のない個体とされているが、デリケートな生き物である事に変わりはない。
カエルにとって、人間の体温は少し火傷してしまうくらい高いのだ。
その為、カエルに触る前には手をしっかり洗ってから水ですすぐか、熱が伝わりにくいニトリル手袋を着用するのが基本となる。
また、ニトリル手袋もパウダーなしのものを選択する必要があり、化学物質が影響を及ぼさないか検査してから使用する事が推奨される。うっかりデリケートな皮膚に科学物質が付着でもしてしまえば、たちまち病気となってしまうだろう。カエルと接する際は、医療介護、食品衛生の現場に立つ気持ちで望む事が大切なのだ。
黒板を板書する音を訊きながら、静かに緑色のカゴの蓋を開ける。ジャックが手の平に飛び乗ってきた。
少し重みのある胴体に柔らかな感触。それを感じた瞬間、思わず悶絶しそうになってしまう。
こんな場面を先生に見つかりでもすれば、間違いなく怒られてしまい、私の補習課題は更に頁を増すことになるだろう。
だがご安心を。その点に抜かりはない。
私の席は廊下側の最後尾の位置。そして前方はバナナーナ様のツインテールで死角となっている。物音に注意を払えば、先生に気が付かれる事はないのだ。
とはいえ、私とてビクトル学園生としての立場は弁えているつもりだ。
言わばこれは、ほんの僅かな至福のひと時。数秒でいい。今だけは毎日補習を頑張っている私へのご褒美が欲しいのだ。
少しの間、手の中のジャックと睨めっこをする。そうして網膜に癒やしを焼き付けたところで、放課後のエネルギーを充電する事が出来た。
このまま永遠にお見合いをしていたいが、今は授業中だ。名残惜しいが、この辺で我慢しておこう。
静かにジャックが収まった手を緑のカゴの中へと運んでいく。前もって言っておくが、何も注意を怠っていたわけではない。それは長年カエルと接してきた私でも、予期せぬ出来事だったのだ。
「あっ」
緑の被写体が宙に綺麗な放物線を描く。ピタっという柔らかな着地音が聞こえた気がした。
そのまま彼は後方の広場を数回お散歩すると、扉の隙間から廊下へと旅立っていってしまった。
──不味い。
これには流石の私も直感的にそう思った。このままでは、彼を見つけた他の生徒や教員達が騒ぎを起こしかねない。万が一踏まれでもすれば一巻の終りだ。ここは今すぐにでも彼の救出に向かわねば...!
急いで首から緑色のカゴを下げると、私は席を立ち上がった。
「レモンモン先生。腸チフスと角膜ヘルペスが発症したので医務室に行ってきます」
「何?!だ、大丈夫なのか?!」
「はい。医務室で休めば良くなると思いますので」
「そ、そうか...。なんでニトリル手袋と虫かごを装備しているのかは分からないが、大事になる前に行ってきなさい」
「ありがとうございます」
ざわつく先生達に罪悪感を覚えながら、扉を開けて廊下に出る。
そのまま周囲を見渡すと、医務室のある左側の通路──その反対方向に緑の背中が見えた。
流石は緑の軍団長。思った以上に活発なようで、彼は廊下の突き当りまで進んでしまっている。
「待ちなさい...!」
私はなるべく音を立てないようにしながら、彼と同じく擬態ジャンプで後を追った。
つづく




