15
「ミルス様、少しいいですか...?」
学園での補習を終えて帰りの支度をしていると、ピアニャンがおずおずと切り出してきた。
「どうかしたのか?」
「あの...その...」
彼女が歯切れ悪そうに言い淀む。つい一時間ほど前まで、それも先生の雷が落ちるまでは、廊下まで響くほどの大声を上げていたというのに、今の彼女にはそんな素振りもない。
さっきは大声で誤魔化されたが、やはり体調が優れないのではないだろうか?
ふと、彼女の顔を覗き込んでみる。
「ピアニャン、大丈夫か?」
「ひゃ!?ち、近いですよぉ!離れて下さい!」
驚くほど紅い顔になった。そしてハッキリと拒絶された。
何もそんなに避けなくてもいいだろうに、少し近づいただけで大げさな娘だ。
というよりも、離れてと言いつつ自分の方から離れるのか。
いまいち彼女の要件が掴めず立ち尽くしていると、彼女が制服の内ポケットから何かを取り出す。
「こ、これっ!ありがとうございましたぁ!」
「おや、これは...」
差し出されたのは、布の端に見慣れた刺繍が施された一枚のハンカチだった。
昨日の今日ですっかり忘れていたが、秋季パーティで彼女に貸していた事を思い出す。
「そういえば君に貸していたんだったか」
「本当は平日にお返しするつもりだったんですが、補習のついでに返しておこうと思って...」
徐ろにハンカチを受け取ると、仄かに洗剤の香りが漂った。
「もしかして洗ってくれたのか?」
「当たり前じゃないですかぁ。きちんとアイロンも掛けておきましたからね!」
ハンカチの薄手の綿は表面が綺麗に伸びており、皺による歪みもテカリも全く見当たらない。かなり丁寧にアイロンを掛けてくれたようだ。
「わざわざ済まないな。こんなに綺麗なハンカチは初めて見たよ」
「えへへ、驚きましたかぁ?私の手に掛かればこんなものですよ!」
「まさか、これは君が?」
「そうですよぉ!」
彼女がえっへんと胸を張る。ハンカチをここまで綺麗にするだなんて、どうやら彼女には手芸の才能があるようだ。人は見かけによらない。
「君には手芸の才能があったんだな」
「私は織物商家の娘ですよぉ?このくらい朝飯前です」
そういえば彼女の実家は織物業を営んでいるんだったか。通りで布の扱いに長けているわけだ。
しかし、それを加味してもハンカチの出来栄えには目を見張るものがあり、新品同様と言って差し支えない。心做しか、刺繍のカエルも嬉しそうだ。
「ピアニャン、本当にありがとう。助かったよ」
「そ、そんなハンカチぐらいで大げさですよぉ!でも...喜んで貰えたなら良かったです」
愛らしい笑顔が向けられる。その表情は昨日のキース君を彷彿とさせるものだった。そんな事はあり得ないと分かっているが、異性同士ならば求愛の雰囲気に至っても不思議ではない。
つくづく、彼女がナインスター君の手に堕ちなくて良かったと思う。
「ミルス様、そんなに見つめられると照れますよぉ」
「うん?ああ...済まない。君の笑顔があまりにも魅力的だったものでね」
「な、何言ってるんですかぁ、もう......えへへ」
恥じらう姿が子豚のようだ。
──いや、もしかしたら彼女は子豚よりも、あの種類に似ていないか?
......うん。恐らくあっちの方が近い気がする。
「ミルス様、固まっちゃってどうかしたんですかぁ?」
「いや、何でもないよ。なにはともあれ、ハンカチをありがとう」
「もうお礼言い過ぎですよぉ、感謝するのはこっちの方なのに。そんなに嬉しかったんですかぁ?」
「ああ、本当に助かったよ。何せ最近は忙しくて、洗うのが億劫になっていたからね」
「へ?」
この数日間は淑女教育と自宅での補習課題でかなり忙しい毎日だった。
お父様との和解が済んだ今となっては、淑女教育を深く気にする必要はなくなったが、補習に関しては単位がまだまだ足りていないので明日以降も受けなければならない。
そんな中で、カエルのお世話をする時間の確保は大変だった。自宅にはマロンちゃんを含める、総勢128匹の子達を飼育しているが、全員分の環境をチェックするだけでも2時間以上は掛かってしまう。
カエルは配膳に気を配るのは当然として、飼育温度で全てが変わってくる。
特に、この寒くなる時期にはヒーターを使っての温度管理の徹底は絶対条件。これを怠るだけで、私の手は128の命を血で染める蛇の牙となってしまうのだ。
そんな日々の努力の甲斐もあってか、今年は65匹もの新たなオタマジャクシが孵ってくれた。前年度が38匹だった事を考えると、素晴らしい成果と言えるだろう。
最近ではお父様がカエル専用の飼育スペースを確保すると言ってくれているし、今後の進捗はより良好なものになっていく事だろう。自室の半分以上を飼育ケースが占領する毎日とオサラバ出来る時も近い。
恐らく、私の補習は新学期が始まる直前まで続くと思うが、この調子でいくと再来年の産卵では夢の100匹オーバーを迎えるかも知れない。
これぞまさに、カエル式「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン」だ。
この成果を胸に今後もカエルの発展へと身を注ぎ、いずれはカエルの論文を世間に知らしめる。そうして自宅の庭にカエル専用の池を作る。
そうする事で、別荘に建てられているお母様の「イグアナアイランド」のように、「カエルパーク」の先駆けとなるのだ。今からその日が待ち遠しい。
「ふふっ」
つい笑みが溢れてしまい、慌てて手で口を塞ぐ。
いけない、私とした事が。
ここが学園だと言うことを失念してしまっていたようだ。
そっと気を取り直し、いつもの淑女の仮面を被り直す。
すると、近くでピアニャンが小刻みに震えている事に気が付いた。
──お手洗いだろうか?
「ピアニャン、トイレなら廊下を出て右だぞ」
「......ミルス様、一つだけ聞かせて下さい」
「うん?」
「そのハンカチを最後に洗ったのはいつですか?」
何やらただならぬ雰囲気で、ピアニャンが私の掌にあるハンカチを指差す。
そんな事を聞いてどうするつもりだろうか?綺麗になった以上、汚れを思い出しても虚しくなるだけだろうに。
湯船に浸かった後の人間が、浸かる前の自分の汚れを振り返るだろうか?
私はそうは思わない。
しかし、私もカエルを飼育する際は彼等の皮膚の汚れに気を配る。乾燥した環境で体表に汚れが溜まっては、健康を損なう可能性があるのだ。
目安は粘膜が取れてきてヌルみが無くなってきたとき。こうなると乾燥し過ぎなので、すぐに湿った環境を提供してあげなくてはならない。
もしかして、同じように織物業にも目安となるものがあるだろうか?
となれば、ここは参考までに彼女の質問に答えるべきだろう。
「最後に洗ったのは確か、二月ほど前だったかな」
「二ヶ月......そうですか...」
いつの間にか彼女の震えは声にまで伝染している。二つに結われた桃色の髪の毛など荒ぶっているという次元ではない。
「ピアニャン、さっきからどうかしたのか?ツインテールが大変な事になっている。まるで制御不能になった電動歯ブラシみたいだ」
「誰が電動歯ブラシよ!本当に失礼な人ね!」
何気ない私の一言が引き金となったらしく、廊下に響くほどの大声が鼓膜を突き抜ける。
昨日の秋季パーティの時も思ったが、ピアニャンの声量は中々のものだ。
「何よ二ヶ月前って!信じられない!そんなハンカチを私に貸したのね!」
「二ヶ月前と言っても未使用だから大丈夫さ。......たまに何回かカエルのお世話をした後に使ったけども...」
「今聞き捨てならない単語が聞こえてきたわよ!?私はそれで涙を拭いちゃったじゃないの!」
彼女の怒りは収まらず、捲し立てる勢いで近くに寄ってくる。
まだ知り合って一日と半日だが、こんなに怒った彼女の姿を見るのは初めてだ。
ここはなるべく彼女を刺激しないよう、誠心誠意謝罪しよう。
「ピアニャン、君に二ヶ月間洗っていないハンカチを貸した事は悪かったと思っている。本当に済まなかった。でも...あの時は既にロザンナにハンカチを貸した後だったし、手元に他に代わりとなるものがなかったんだ」
「そういえばあんた、ロザンナ様にもハンカチ貸していたわね。まさか──あのハンカチも...!?」
「いや、ロザンナに貸したのは洗いたてのハンカチだ」
「何でよ!!」
ピアニャンが金切り声を上げる。
おかしい、ちゃんと謝ったはずなのに...。
私は何か変な事を言っただろうか?
「ピアニャン、ちゃんと謝っているではないか。何が不満なんだ?」
「ええ、ええそうですね。ロザンナ様はあんたの親友だものね!どうせ私じゃ勝てないわよ!」
「どうしてそこで勝ち負けの話になるんだ...?それに私とロザンナが親友だとしても、今は関係ないだろう?」
「うっさい!うっさい!そんなにロザンナ様が大事なら、最初から私にハンカチなんか貸さなきゃいいじゃない!」
「そんな事は出来ない!!」
怒り狂うピアニャンに負けないくらいの声を張る。
カエルの鳴き真似の成果だ。
まさか彼女も私がこんな大声を出すとは思っていなかったらしく、ピタッと口を噤む。
「な、何よ。急に大声出しちゃって...」
「ピアニャン、よく聞いてくれ」
彼女の両肩を掴む。偶然にも私達の背丈は丁度同じくらいで、顔が向かい合わせの形になった。
「私はね、君が泣いているのを見過ごすわけにはいかなかったんだ。それはなぜだか分かるかい?」
「そんなの分からないわよ...」
「簡単な話さ。それは君に涙は似合わないからさ」
「き、急に何言ってるのよ......」
ここ一番のキメ顔で言うと、彼女が頬を染めてそっぽを向く。
しかし、彼女は決してこちらの手を振り払おうとはしなかった。
「君は自覚がないかも知れないが可愛らしいんだよ。それこそナインスター君が自分を見失って、セブンスターになってしまうくらいにね」
「ぜ、全然意味分かんないわよ...。そ、そんな事言われたって騙されないんだからぁ!」
再びピアニャンが叫ぶ。しかし、その声は先ほどと比べると随分弱々しく、台詞に反して満更でもない様子だった。
──揺らいでいる。もう一押しか。
私は彼女へ慎重に言葉を並べる。
「騙してなんていないよ。私は本当の事を言っているのさ」
「ほ、本当に......?」
「うん、本当だよ。私の言っている事が信じられないかい?」
「し、信じられないわけではないけど...す、少し顔が近いっていうか......」
「近くたっていいじゃないか。私は今真剣な話をしているんだよ」
「それはそうなんだけども....」
しおらしい態度になるピアニャン。もはや荒ぶっていた髪の毛も大人しくなっている。流れが完全に傾いたのを感じた。
──この機を逃しては、変態シーズンに出遅れたオタマジャクシと同義!ここは一気に畳み掛ける!
「ピアニャン、私の目を見てくれ」
「...っ...」
潤んだ大きな瞳と目が合う。すっかり大人しくなった彼女は愛らしく、薄っすらと化粧を施した朱色の唇が妙に色っぽかった。
きっと今の彼女を学園の男子生徒が見たならば、たちまち目を奪われてしまうだろう。
そんな魅力的な彼女へ、私は真剣な面持ちのまま静かに告げる。
「つまり、私が何を言いたいのかというとね」
「う、うん......何が言いたいの...?」
息が触れ合いそうな距離。紅く染まった頬。微かに潤んだ瞳。そして手から伝わる温かな体温──。
このシチュエーションで次に口にする言葉は決まっている。仕上げに入るとしよう。
「君はニホンアマガエルのように愛らしいって事さ!」
「......は?」
彼女の肩から手を離すと、私は目を閉じて身振り手振り伝える。
「大きくも円らな瞳に丸みのある被写体。最初は髪色から子豚のようだと思っていたが、その姿はカエル界でいうところのニホンアマガエル!まさしくカエル界のアイドルだ!そんな君に涙など似合う筈がないじゃないか!」
ドヤ顔。そして高度な口説き文句。
その様は絵本に出てくるカエルの王子様。
カエルは決して性別を変えることは出来ないが、今この瞬間だけは、私はオスのカエルにだってなろう。それは偏に目の前の彼女を想ってのことだ。
これにはさすがのピアニャンも心打たれるはず...。
ドヤ顔で確信していると、何故かピアニャンが紅くなった顔を更に紅くした。
「あんた!やっぱり私のこと馬鹿にしてるでしょ!」
「......あれ?」
予想外の反応に間の抜けた声が出てしまう。
──どうして?私の口説き文句は完璧だった筈なのに...。
「期待させておいてカエルって何よ!どこまで頭の中にカエルが詰まってんのよ!てか、やっぱり私の事を子豚だと思っていたのね!」
「ピアニャン、落ち着いて...!」
「落ち着けるわけないでしょうがぁぁ!人の事を電動歯ブラシって言ったり、子豚って言ったり、カエルって言ったり!もっと別の例えがあるだろ!」
「ああ...!そんなに震えるとまたツインテールが...」
「ムキぃぃぃ!ムカつく!このカエル女がぁぁ!」
今日一番の咆哮が鳴り響く。
結局ピアニャンの怒りは夕方まで収まらず。迎えの馬車が来るまでの間、私はひたすら彼女を宥めていた。
つくづく年頃の娘とは難しい。そう感じる私であった。




