13
血の気が引いていくのを感じた。火照っていた顔の熱は急激に冷めていくと、入れ替わるように冷めた空気が肌に凍みる。
徐ろに床を撫でる外衣の袖口から目を離すと、緑の妖精の向こう側から、外衣を靡かせる魔王が近づいて来ていた。
彫りの深すぎる顔立ちに、後ろに撫でつけた漆黒の頭髪。やけに綺麗な一張羅のスーツは上半身を中心として張っており、嫌でもガタイの良さが際立つ。
特に腕付近は分厚い繊維越しからでも分かるくらい窪みを象っており、獅子奮迅たる戦士の面影が見え隠れしていた。直属の護衛騎士より余程強かである。網膜を刺激する眩しい照明の光も、今は全く気にならなかった。
──”マーガレット”。そうか...君は彼の娘だったのか。
「お父様!」
緑の妖精が小走りに彼の元へと向かっていく。一瞬垣間見えた横顔は美しく、弾んだ声は実に愛らしい。
──ミルス嬢。君はそんな風にして笑うのか...。
胸が強く締め付けられる。芽吹いた恋心は強く、織りなす香りは甘美な菓子の様。王宮を彩る薔薇の庭園ですら、彼女の前では霞んで見えてしまう事だろう。
そうして胸の中の畏れが影を潜め始めた頃、魔王が娘を背に隠すように一歩前に出た。
「最後にお会いしたのは立太子の儀でしょうか。ご無沙汰しております、キース王太子殿下。マーガレット伯爵家が当主、ガスト・マーガレットです」
耳覚えの強い、低い声が発せられる。空気がビリビリと振動している気がした。
自然と背筋が伸びてしまう。隣に立つ護衛騎士や、彼の近くにいる幼馴染ですら青い顔をしている。
王国広しといえど、”声”だけでこれほどの畏れを与えられる人物は、父である国王を除いて彼しかいないだろう。
強大な威圧感を前に息を呑み、ただ黙りこくっていると、彼が続けざまに告げる。
「この度は長期に渡る留学の修了、誠におめでとう御座います。ご無事の帰国も早々に王太子の尊顔を拝謁できること、大変光栄に存じます」
ガストが何故か大量に抱えていた豆製品の山を床に置くと、胸に手を当てて頭を下げる。見た目に反して随分と洗練された仕草だ。
しかし、祝福の言辞とは裏腹に、彼の口元は僅かも緩んでいない。寧ろ、こちらを覗き見る窪んだ瞳の奥からは、底知れぬ眼光が覗えた。
胸が苦しい。恋心によるものではない。物理的にだ。知らぬ間に呼吸を忘れてしまっていたらしい。
徐ろに、肺に溜まった空気を抜くように息を吐き出すと、そっと王太子の仮面を被り直す。
「...久しぶりだね、マーガレット伯爵。祝言の旨、大変嬉しく思うよ。まさか学園で貴方ほどの人物に会えるとは思いもしなかったな。今日は仕事で此方に?」
床に積まれた高い山を一瞥して言う。直ぐに彼が笑い声を上げた。
「はっはっは、これは異な事を仰りますな。小生とて一人の父親、今宵は娘の行事に参加していただけに過ぎませぬ」
彼の声には感情が伴っておらず、皮肉や嘲りが込められているとすら感じられた。
「...ミルス嬢は貴方の御息女だったんだね。通りで他の令嬢とは毛色が違うわけだ」
「ええ、自慢の愛娘に御座います。その愛らしさは年々増していく一方で、小生もつい盲目的となってしまっておりましてな。子煩悩が過ぎるといつも身内に叱られてばかりです」
彼が愛娘の部分を思い切り強調して言う。マーガレット伯爵家の家族事情は調べた事がないが、彼を叱りつける身内とは一体どんな化物だろうか?
「はは...これだけ美しい令嬢ならば納得だよ。閣下も鼻が高いだろうね」
「ええ、全くもって誇らしい限りですな。ハッハッハッハ」
再び、感情のない笑い声を上げるガスト。今度は先よりも長く、会場全体に彼の出す重低音が響き渡った。
やがて──彼が駄弁を弄する気はないとでも言わんばかりに、ピタッと笑いを止めると、彫りの深すぎる顔でこちらに目をやった。
「して──キース王太子殿下は我が愛娘に何か御用ですかな?」
緑の愛らしい妖精を背に庇いながら、ガストが尋ねてくる。彼を取り巻く黒いオーラが一層強まるのが映った。全身が金縛りに遭ったように動かない。
王国を代表する騎士団長との剣の稽古、留学先での厳しい武道の修了過程。日々の公務の遂行、そして威厳に満ちた父との政治的会談。どの記憶を遡っても、これほどの壁を感じた事はなかった。
──彼は本当に人間なのか?
近くから小さな悲鳴が幾つか漏れ出る。酷く怯えた声色だ。王太子として公共の安全には目を配るべきだが、今はそんな事はどうでもいい。
頬を一筋の汗が伝う。ここでの選択肢を誤れば、悲鳴はたちまち断末魔へと変わる確信があった。
これは死体が出ても不思議ではない。
────主に私の。
だがしかし!こちらとしても、花々が色を競うように咲き乱れる、絢爛な恋心に嘘はない!
私は王家の血筋を受け継ぐ王位継承者。この程度の恐怖に打ち勝てねば、民を率いる資格も愛する人と共に歩む資格もない!
一度深呼吸をすると、恐らくこちらを見ているであろう、彫りの深すぎる目元と視線を合わせる。
「マーガレット伯爵、単刀直入に言おう。私は貴方の御息女と婚姻を結びたいと考えている」
「......ええ、陰ながら一部始終を拝見しておりましたよ。一体全体何故、娘を妻にと望むのでしょうか?」
「私はミルス嬢に一目惚れをしてしまった。この先の人生を彼女と共に歩みたいと思って...」
「笑止ッ!!!」
体が瞬間的に飛び上がる。それは例えるならば、魔王の咆哮。強大な覇気が全身をビリビリと刺激すると、それに伴って神経が警戒音を鳴らしている。
視界の隅では、彼の気迫に気圧されて床にへたり込んだり、失神している者すらいる。唯一、娘のミルス嬢だけは平然とした顔をしているが、彼女は日頃からこのような災害級の覇気にも慣れているのだろうか?
そんな会場の惨劇には目も暮れず、眼前に立つ魔王が粛々と告げる。
「殿下は実に青くていらっしゃる。先ほどマベルス公爵令嬢が述べたように、王太子妃は長期に渡る審査の元で慎重に選抜するものなのです。それを一目惚れなどと言う理由で即決即断するなど愚の骨頂!!」
「...わ、分かっている。しかし、それでも私は本気なんだ!」
「本気かどうかの問題ではないのですよ。殿下」
ガストが諭すような口調で続ける。
「貴方の王太子妃候補として挙げられている令嬢方は、将来貴方を隣で支える為に長きに渡る妃教育を受けてきました。それはさぞ血の滲む努力をなさった事でしょう。しかし、それなのにも関わらず、貴方はある日突然として候補にも挙がっていない令嬢を娶るという──。これは彼女達に対して余りにも不義理というものではないでしょうか?」
「そ、それは──...」
思わず口を噤む。彼の言葉は正論だった。
「私も一人の親です。仮に不義理な視線が娘に向けられたらと考えると、胸が張り裂けそうな思いです。殿下は、候補者の親御さん達へ、そんな思いをさせたいですか?」
「......いや、私は臣下にそんな思いをさせたくはない...」
「ならば自ずと、自らの行動が如何に逸脱したものなのか気が付く筈です」
最後は優しく語りかけるように、ガストが語尾を弱めて言った。
彼やロザンナが言うように、私には数年前から数名の妃候補が挙がっている。《《侯爵家》》以上の令嬢を対象とした王太子妃教育は、多岐に渡った厳しい内容となっており、皆が王室の一員となるべく努力を重ねている。
そんな彼女達の想いや、我が国の将来的な発展に報いるべく、今回の長期留学を決断した筈だった。それが帰国するなり、早々と別の令嬢へ恋慕してしまう。成る程、確かにこれでは余りにも不義理だ。
「...貴方の言う通りだな。私がどうかしていたよ。本当に済まなかった」
自分が如何に愚かな行為をしていたのかを理解する。この場に父がいたのならば、恐らく同じ事を言われていただろう。
頭を下げて謝罪していると、彼が少しだけ腰を折って視線を合わせてきた。
「分かって頂けたなら何よりです。差し出がましい事を申しました」
「いや、貴方は何も悪くない。悪いのは浅慮だった私の方だ」
「殿下、もっと視野を広く持ちなさいませ。この国を背負って立つ以上、一時の感情に流されてはなりません」
「...肝に銘じておくよ」
「ただ、我が愛娘に魅力を感じて頂けた御慧眼は、大いに称賛致します」
「ふっ...そうか」
彼の頬が少しだけ緩んだのを見て、自然と笑みが溢れる。マーガレット伯爵は実に大きな漢だ。
留学先で多少は男を上げたと思っていたが、器の方はまだまだ課題があるようだ。
妙に晴れ晴れとした気持ちになる。だが同じくして、胸には大きな痼が生まれた。
──彼女と添い遂げる事は叶わなかった。なら今も変わらず咲き乱れる、この絢爛な恋心をどう静めたら良いと言うのだろうか?
悲嘆に暮れていたその時。下がる視界の端に、緑色の衣が映った。
「キース君」
顔を向けると、そこにはこちらを見つめる緑の妖精がいた。
「ミルス嬢...」
彼女は変わらず無表情だが、誰よりも美しい顔で告げる。
「先ほどの求婚の話だが...断らせてもらう。君の想いに応える事は出来ない。私には、まだ見ぬカエル達が待っているのだ」
「そう......か...」
悲しげに、されどハッキリと返事を返される。幼少の頃から異性に恋い焦がれられてきた自分にとって、女性に振られるなど想像も付かなかった。
しかし、彼女の返事はこちらの矜持を傷つけないもので、言葉の節々に優しさが滲み出ていた。益々、彼女への想いが膨れ上がってしまった。
──これが失恋か...。随分とほろ苦くて痛いものだ。
ただ苦笑を浮かべながら、遣る瀬無さに胸を痛めていると、目の前に小さな手が差し出される。
「ミルス嬢...?」
「でも、同じ志を掲げる者同士。今日から私達は友達だ」
どこか弾んだ声色で彼女が言う。緑の三角頭から覗かせる華やかな笑顔は、まさしく緑の妖精だった。
改めて、彼女の持つ魅力の大きさに気が付かされる。視界の端で、何故かロザンナが「無自覚もここまでくると鬼ですわ...」と頭を抱えているが...。
そうして数秒の間、緑の妖精に見惚れていると、大きな青い瞳が見上げてきた。
「キース君...?」
「──!あ、ああ...!済まない。少しボーッとしていたよ」
「大丈夫か?パスタでも食べるか?」
「はは、平気だよ。君は本当に優しいんだね」
「そうか?」
コテンと愛らしく首を傾げるミルス嬢。どこまで彼女は私の胸を締め付ければ気が済むのか。
「ミルス嬢、本当に私と友達になってくれるのかい...?」
「勿論だ。これから宜しく頼む」
「こちらこそ、宜しくお願いするよ」
肌触りの良い小さな手と握手を交わす。初恋は実ることはなかったが、これからも友人関係として接点が持てるのなら、それも有りなのかも知れない。
胸の痼が少しだけ薄れていくのを感じていると、マーガレット伯爵が床に積まれた山を抱えた。
「では殿下、我々はこれで失礼致します。陛下にも宜しくお伝え下さい」
「ああ、時間を取らせて悪かったね。気を付けて」
ガストが器用に一礼すると、マーガレット父娘が会場を後にする。去り際に皆に手を振るミルス嬢が愛らしい。
やがて、彼等の姿が見えなくなった頃、近くにいるロザンナが深く息を吐いた。
「ふう......死ぬかと思いましたわ。噂には聞いていましたけれど、アレは人の次元ではありませんわね。キース、貴方よく殺されなかったわね」
「ははは、全くだね。もう死んだかと思ったよ」
「笑い事じゃありませんわよ」
「ごめんごめん。でも...ミルス嬢と友人になれたのが嬉しくってね」
「全く...大した玉ですわ。貴方もミルスも」
マーガレット伯爵は過去に三度ほど、領地運営と経済開発、治安維持の功績を讃えられて、陞爵の打診をされた事がある。しかし、彼はその全てを断っている。
それはもしかすると、愛する娘が王家の目に触れないようにする為だったのだろうか?
「まさか...な」
マーガレット父娘の去った会場の入口を眺めながら、キースは一人呟いた。
つづく




