11
賑やかな広間が静寂に包まれる。空気が一変する瞬間を誰もが感じ取っていた。
視線が一箇所へと集中する。学園の生徒達は一様に口を閉ざし、来賓の関係者各位が佇まいを正す。そこに平民と貴族の隔たりは存在しない。
会場の入口からゆっくりと足音が近づいてくる。
その足取りは悠々と、されど泰然とした面持ちで──。
照明の光が金色に影を落とす。幻想的な雰囲気が会場を包みこんだ。どんなに飾り付けられた式場も、来賓の貴族が身に付けている高価な宝石も、今は霞んで見えてしまう事だろう。
その人物はまるで、周囲の光を吸い込むような威厳を持っていた。
制服の上に羽織られた外衣が靡く。戴冠式で用いたものと同様のそれは、彼が他人の空似ではない事を表している。
──スコルピア王国第一王太子、キース・アシュフォード。次期君主の称号を持つ男である。
「皆、楽にしてくれ」
若々しくも、重みのある声が通る。母親譲りの端正な顔立ちは変わらないが、一年の留学を経たことで表情は随分と引き締まった。若干18歳にしては、ずっと大人びて見える。
周囲の女生徒が視線に熱を帯びてしまうほどである。
キースの合図で臣下一同が姿勢を崩す。彼が幼少期の頃から何度も目にしてきた光景だ。しかし、立太子を経た今となっては、責任感は以前の非ではない。
ふと、彼の視線が一点で止まる。
来賓の関係各位を除き、規定の制服で統一された学園生達。その輪の中で、確かにそれは存在していた。
──......カエル...?
最初は何かの見間違いかと思ったが、その緑の生物は人形のように美しい顔でこちらを見つめながら、皿に盛り付けられたパスタを捕食していた。
──なんて美しい令嬢なんだ。しかし、なぜパスタを丸呑みに...?
キースが色々な意味で目を奪われていると、隣から声が掛かる。
「殿下...?如何なさいましたか?」
「え?あ、ああ...!いや、何でもない...」
護衛の声で我に返った彼が、気を取り直すように一度咳払いをする。
「此度は帰郷した私の為にこのような催しを用意してくれたこと、大変嬉しく思う。既に学園長とは話をさせてもらったが、近年ビクトル学園の知名度は他国まで知れ渡っており、留学先でも多くの賛美を頂いたよ。我が国に優秀な教育機関が備わっている事を誇りに思うばかりだ」
その言葉に、学園関係者が頭を下げる。日頃から教鞭を執る彼らにとって、それは何にも代えがたい称賛であった。
「さて──それはそれとして...コレは一体何事かな?」
キースが、地面に仰向けで倒れている一人の生徒を指差す。彼は白目を剥いたまま気絶しており、制服の胸元には意味不明な装飾品が無数に付着していた。
その奇妙な光景は、規律の厳しかった留学先ではまず目にすることはなく、一体どういった経緯でこうなったのか、想像も付かないものだった。
──さっきから当たり前のように居るあのカエルといい、この一年でビクトル学園の教育環境は変わってしまったのか?
いや、でも向こうではそんな話は一度も聞かなかったし、父上からの頼りにもそのような記載はなかった。
それにさっきドヤ顔で褒めたばかりなのに、変にツッコムのも恥ずかしいじゃないか...!誰か教えてくれ!
彼が葛藤に頭を悩ませていると、近くから清らかな声が届く。
「殿下。恐れ入りますが、発言の許可を宜しいでしょうか?」
「...!ああ、発言を許そう」
助け舟に飛びつくキース。彼に声を掛けたのは、学園の才色兼備たる黒髪淑女の姿だった。
「お久しぶりです、キース王太子殿下。スコルピア王国三大貴族が一柱、マベルス公爵家が長女ロザンナでございます」
「ああ、久しぶりだねロザンナ嬢」
笑顔を浮かべるキース。王家はマベルス公爵家と親交が深く、長女のロザンナとは幼い頃から付き合いがある仲だった。
最近では実家の事業を幾つか受け持っている手腕の高さも、父親である国王陛下から手紙を通じて聞いている。
「この度は隣国”サンショウウオシャンソンショウ国”からのご帰国おめでとうございます。王国に仕える臣下の一人として、次期君主のご帰還を大変嬉しく思います」
ロザンナが流暢な口調で挨拶を交わす。この国名を噛まずに言える者は少ない。キースが関心を覚える。
「そなたも息災なようで何よりだ。遅くなってしまったが、ビクトル学園への入学おめでとう」
「恐れ入ります」
華やかな笑みを浮かべるロザンナ。その上品な姿は一年前まで見ていたものと同じだ。
──良かった。彼女は何も変わっていない。
彼が安堵を覚えながら、社交辞令も程々に話を本題へと移す。
「それで、君が出てきたという事は、この騒ぎの原因に心当たりがあるのかな?」
「はい。お恥ずかしながら、私は今回の騒ぎの当事者の一人です」
「君が...?」
キースが目を丸くする。王族が出席する催しで騒ぎを起こすだけでも問題だというのに、そこに公爵家まで関わってくるなど尋常ではない。余程の事があったのだろう。
「...何があったのか説明してもらえるかな?」
「勿論でございます。まず事の発端は──」
ロザンナはキースに騒動の経緯を説明した。
その間に、彼は信じられないといった様子で頭を抱えていたが、説明が終わる頃には現実を受け入れたように深い溜息を吐いた。
「事情は理解した。つまり、君の婚約者であるバージニア伯爵令息が、そこにいるマルボーロン男爵令嬢と共謀して冤罪に陥れたと...」
キースがピアニシモスへ冷ややかな視線を向ける。国を代表する公爵家を陥れようとしたばかりか、その相手が幼馴染だという事実が彼には許せなかった。
そんな彼から庇うように、ロザンナがピアニシモスの前に出る。
「元婚約者ですわ、殿下。それとマルボーロン男爵令嬢には既に処罰を下しておりますので、彼女に咎はありません」
「いや、そうは言っても、あくまでそれは君個人に対してだろう?来賓の方々や学園側への責任はどう取るつもりだ」
しかも、今回は王族であるこの国の第一王太子も関わっている。謝罪をして無罪放免という訳にはいかないだろう。
当然の問い詰めだと、ロザンナが頷く。
「仰るとおり、私の采配一つで完璧に事を収められるとは思っていません。なのでそこは両親が到着してから改めて考えたく思います。一先ず、この場は私に免じて大目に見て頂けないでしょうか?」
そう言って、ロザンナが深々と頭を下げると、彼女に倣ってピアニシモスも慌てて頭を下げる。
周囲がざわつき出す。三大貴族の一柱として名高い貴族令嬢の謝罪など、滅多に見られるものではなかった。
数多の困惑の顔が目に入る。これではこちらが悪者ではないか。そう思ったキースが溜息を吐いた。
「分かったよ。そこまで言うならば矛を収めるとしよう」
「ありがとう存じます。キース王太子殿下」
「気にしないでくれ、マベルス公爵家には世話になっているからね。しかし、君がそこまで肩を持つとは...。一体彼女にどんな罰を下したんだい?」
「特段大した罰は与えておりません。彼女の実家には私の事業を手伝ってもらう事にしたのです」
平然とした態度で答えるロザンナ。大方、また何か上手い具合に落とし所をつけたのだろうと、キースが苦笑を浮かべる。
「果たしてそれは罰と言えるのかな」
「あら、私の事業は厳しいですもの。マルボーロン家には今後、きっちりと国に貢献してもらいますわ」
「全く...君は相変わらず優しいね。そういう事なら、私から言う事はないよ」
キースが視線をピアニシモスへと移す。
「ロザンナに免じてこの場は不問としよう。しかし次はない。肝に銘じておくように」
「は、はい!」
すっかりと毒気を抜かれたピアニシモスへ釘を刺すと、キースが視線を床へと移す。そこには相変わらず、見るも無惨な星屑の貴公子が意識を失ったままだった。
「マルボーロン男爵令嬢の件はそれでいいとして、こっちはどうしようか」
「もう放置で宜しいのでは?」
「いやいや、そういうわけにはいかないだろう。彼は君の徒手空拳を喰らってこんな状態になっているんだし」
「それなら正当防衛ですわよ。大体、あの程度で気絶するなんて軟弱にも程がありますわ」
「またそんな事を言って......仮にも君の元婚約者だろうに」
「ええ、私の生涯で唯一の汚点ですわね」
「辛辣。いっそ彼が気の毒に思えてくるよ...」
幼馴染の逞しすぎる姿に苦笑を浮かべると、キースが周囲に目をやる。
会場内には新参貴族を除き、彼と顔見知りの貴族が多くいるが、その中にナインスターの保護者であるバージニア伯爵の姿は見当たらなかった。
「どうやらバージニア伯爵は来ていないようだな。家に連れ帰って貰いたかったのだが仕方がない、ひとまずは彼を学園の医務室にでも運んでおこう」
キースの指示で護衛の一人がナインスターを背負うと、彼の体が学園の医務室へと運ばれていく。床に残った星々を散らしていく様は、居た堪れないものだった。
そんな彼の背中が見えなくなったところで、キースが途中だった話を続ける。
「さて、ロザンナ嬢。先ほどの話をまとめると、彼は執拗に君を陥れようとしていたようではないか。何か心当たりは?」
「さあ?私は日頃から彼の素行について苦言を申しておりましたので、それが気に障ったのではないでしょうか」
何処か他人事のようにロザンナが言う。好意の反対は無関心だと聞くが、彼女の様子を見る限り、日頃から相当なフラストレーションが溜まっていたのだろう。
迂闊に刺激しないよう、キースが慎重に言葉を選ぶ。
「そ、そうか。色々と大変だったのだな」
「ええ、何度学園前にある噴水のオブジェにしようと思ったことか」
「そこまでいくと事件になっちゃうから止めようね?」
「それは残念ですわ」
幼馴染の過激な発言に頭を抱えるキース。彼女ならば本当にやりかねない。そう思うと同時に、元婚約者はよく今まで生きていたものだと、妙な関心を覚えてしまう。
「あ、それと彼の生家のバージニア家は、過去の事業の失敗から多額の借金を抱えていらっしゃるのです。その辺りも関係しているのではないかと」
「ふむ...何やらきな臭いな。少し調べてみる必要がありそうだ」
「それに関しましては我が公爵家にお任せ下さい。婚約破棄の件も踏まえて、きっちりと裏を取らせて頂きます」
「それは頼もしい限りだな」
「ええ、恐らくはスコルピア王国に大いに貢献出来るかと思います」
笑顔で告げるロザンナ。彼女の表情は楚々としたものだが、その目の奥は笑っていない。
──彼はとんでもない相手に喧嘩を売ったものだ。案外、噴水のオブジェになっていた方がマシだったのかもしれない...。
キースは密かにナインスターへ黙祷を捧げた。
そうして騒動の鎮圧に一段落付いた頃、キースが会場にいる全員に向けて告げる。
「皆、騒がせて済まなかった。後の事は王家とマベルス公爵家で対応するから、皆は引き続き秋季パーティを楽しんでくれ」
キースの一声で周囲の人間が散開していく。即座に現場を取り仕切る姿は正しく王太子。留学先でどんな生活を送ってきたのかは分からないが、この一年の間で随分と頼もしくなったものだ。幼馴染の姿にロザンナが関心する。
ぽつりぽつりと人集りが散っていく。最後の一人が捌けたところで、ようやくキースが表情を崩した。
「ふう...これでやっと落ち着いて話せるな。久しぶりだな、ロザンナ」
「ええ、久しぶりねキース。また少し身長が伸びたのではなくて?」
「はは、だとしたら嬉しいな。向こうでは結構克己的な日々を送っていたからね」
年相応の笑顔を浮かべてキースが言う。
隣国の”サンショウウオシャンソンショウ国”は、スコルピア王国に比べると国土面積や人口も少ないが、武力国家として名を馳せる国である。
彼の留学した一年という月日は、国際的な人脈形成をはじめとして、高度な軍事知識や訓練を受ける目的があった。
功を奏して、彼は逞しい青年へと成長を遂げると同時に、次期君主に恥じない精悍さも身に付けて帰ってきたのだった。
「向こうは本当に大変だったよ。食事は不味いし寄宿舎は寒いしで、おちおち眠れもしなくてね。おかげで体重が20キロ前後は減ったんじゃないかな」
「まあ!そんなに過酷な環境でしたのね」
「ああ。中でも特に、早朝にやるウサギ跳びでの外周10周はキツかったな」
「貴方、現役王太子よね?ウサギ跳びをやらされる王位継承者なんて聞いたことありませんわよ」
「はは、全くだな」
至極真っ当なツッコミを受けて、キースが頬を綻ばせる。一年ぶりの幼馴染との会話には喜びがあり、彼の1年に渡る苦心が報われていくようだった。
そうして彼等が久しぶりの再会に会話を弾ませた後、徐ろにキースが留意していた事に触れた。
「──ところでロザンナ。先ほどから気になっていた事があるのだが...」
「なんですの?」
「君の隣にいる、そちらのカエ......ご令嬢は?」
言い淀むキースの視線の先には、パスタを捕食するミルスの姿があった。彼女は相変わらずキースの顔をジッと見つめたままだ。
「ああ、紹介がまだでしたわね。彼女は私の親友にょんん!?」
言いかけたところで、ロザンナの唇が小さな手で覆われた。彼女が慌てて頬を紅くする。
「ミルス!突然何をしますの!」
「大丈夫だロザンナ。君の言いたい事は分かる。私に全て任せておきなさい」
「へ?」
親友へ食べかけのパスタを手渡すと、ミルスが王太子の前へと立つ。彼女の表情はいつにも増して真剣なもので、地顔の美しさも相まって鬼気迫るものがあった。
──カエルは自然界の中でも特に臆病な生き物だ。犬や猫と違って、基本的に人に懐くという思考はなく、常に警戒心を働かせて生きている。
それは私の飼っているペットのマロンちゃんも例外ではなく、ご飯の時以外はみだりに触ってはならない。カエルとは非常にデリケートな生き物なのだ。
しかし、カエルは人に「慣れる」ことは可能。時として、人に慣れたカエルは自分から手の平に乗ってくる事がある。俗に言うハンドリングと呼ばれる行為だが、これは相手に対して、少なからず警戒心がないと学習した証なのだ。
ビクトル学園では身分による隔たりはない。しかしそれは、あくまで学園内の範疇での話であり、今回のように外部から来賓が招かれる夜会の場では身分差が重要視される。
相手は王太子殿下、この国の次期君主の称号を持つ人間──。つまり、ここは伯爵令嬢としての気品ある挨拶が求められているのだ。
──大丈夫、今の私は変態を遂げたカエル令嬢。挨拶をするくらいどうという事はない。
「お初にお目に掛かります、キース王太子殿下。私はマーガレット伯爵家が長女、ミルスと申します。どうぞ、宜しくお願い致します」
緑のコートの裾を摘み、ミルスが優雅なカーテシーを決める。その仕草は実に洗練されたものだった。
──決まった...。
さながら、今の自分は社交界に舞い降りたカエルの姫といったところだろう。これならば、相手にも敵意はないと伝わった筈だ。
内心だけでなく、実際にドヤ顔を決めるミルス。そんな彼女の緑の後頭部を眺めながら、徐ろにキースが呟く。
「......美しい...」
「ええ、そうでしょうとも。今の私は準絶滅危惧種である、トノサマガエルのメスの個体なのですから」
「ああ...本当に美しいよ」
「うん?」
予想以上に好反応を受けて、ミルスが怪訝そうに首を傾げる。よくよく見ると、キースの頬は紅く染まっており、その瞳は熱を帯びていた。
──もしや彼もカエルが好きなのだろうか?だとすれば、これは良いカエル友達になれそうだ。
ミルスがそんな事を考えていると、突然キースが彼女の前で膝を付く。そしてそのまま背筋を伸ばすと──ミルスの目を見つめながら告げた。
「貴女に一目惚れしてしまった。ミルス・マーガレット嬢。どうか私と結婚して下さい」
「......あえ?」
つづく




