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カエルは神秘的な生き物である。三角形の頭部と丸い胴体。上に飛び出した目玉に一色で彩る体表。一見すると人畜無害そうに見えるが、外敵に備えて毒を持つ個体も存在する。その効果は生命を脅かす程である。
彼等は基本的に水辺に生殖しており、コオロギや蝿などの虫を好んで捕食する。彼等は長い舌を使って獲物を捕まえると、目玉を引っ込めて強制的に喉の奥へ流し込むのだ。その時間は僅か0,04秒から0,07秒ほど。いわゆる神業である。電光石火という言葉は彼等にこそ相応しいと言えるだろう。
そんな彼等も、最初から神懸かっていた訳ではない。
彼等は産卵を経て孵化すると、黒い頭と腹部から成る「オタマジャクシ」となってこの世に生を授かる。この状態の彼等は幼生の為に非情に非力であり、鳥や水辺を好む昆虫によって捕食されてしまう。その為、生を授かった直後から自然の摂理との闘争が始まるのだ。
オタマジャクシは水中でエラ呼吸を学習すると、自然界の藻類や他生物の小さな死骸を食べて成長し、そこからは段階的な変態を経て地上へと上陸を果たす。種にもよるが、短くて数週間。長くても二月程度で成体へと変態を遂げるのだ。
そして──「カエル」という両生類の枠組みに進化を果たした彼等は、自ら生やした手足を以て、まだ見ぬ世界へと旅立っていく。脚力を活かした跳躍は巧みなものだ。最早水辺に潜む昆虫程度では、その行く手を遮る事は出来ないだろう。
実に素晴らしい。カエルは人間を超える進化の兆しを世に証明しているのだ。私の人生の16年という歳月も、彼等の歴史に比べれば星屑よりもちっぽけな存在だろう。幼い頃に水辺で見かけた頃から、彼等は私の憧れそのものなのだ。そんなカエルが私は大好きだ。
「『貴方も是非一度、カエルを愛でてみては如何だろうか?』──と」
爽やかな気候が優しく肌を撫でる秋の季節。朱色に染まる紅葉の葉が映えて、風が趣と風情を運んでくる。
そんな温かみのある木目調の広々としたテラスにて、やや低めな木製の椅子に腰を掛けた少女が筆を止めた。
「...ふむ、こんな感じでいいだろうか」
黄金色の髪は左右に束ねられており、顔立ちは彫刻で彫られたように美しい。その端正な面持ちは秋の風物詩にも見劣りしない。街往く異性が彼女を見かけたら、思わず目を奪われてしまうだろう。
彼女の名前はミルス・マーガレット。ここビクトル学園の一年生であり、スコルピア王国で領地を治めるマーガレット伯爵家の長女である。
そんな彼女の趣味は、秋の風情赴く芸術鑑賞でも、気品溢れるティータイムでもなく。カエルの研究であった。
「やはり最後の一文は余計か?私がカエルを好きなのは揺るぎない事実だが、愛でるかどうかは個人の自由だからな。ここはもっと別の表現に書き換えて...」
紙面と睨めっこをして文章を訂正するミルス。そんな彼女の背後から、清らかな声が届いた。
「ミルス、やっと見つけましたわよ!」
「うん?」
ミルスが徐ろに振り返ると、そこには息を切らした一人の令嬢が立っていた。夜を連想させる深みのある黒髪と、長い睫毛が被さった切れ長の瞳。滑らかな体のラインは同学年の生徒よりも大人びた雰囲気を醸し出している。
「ロザンナか。そんなに息を切らして、どうかしたのかい?」
「どうかしたのかい...じゃありませんわよ!また授業をサボりましたわね!?」
彼女──ロザンナ・マベルスは、スコルピア王国を代表する三大貴族の一角、マベルス公爵家の令嬢である。
成績は学年でトップクラスに入るほど優秀かつ、若干16歳にして既に公爵家の事業を幾つか受け持っており、その有能ぶりは教員も一目置く程であった。また、彼女はミルスの数少ない友人の一人でもある。
「私のサボりなど今に始まった話ではないだろう?」
「威張らないでくださいまし!貴女がまた何か良からぬ事をしているのではないかと、先生も心配なさっていましてよ」
くちびるを尖らせながら、ロザンナが顔を近づける。肩口辺りまでの黒髪から甘い香りが漂った。
「良からぬ事とは心外だな。私はカエルの論文を作成していただけだ」
「それが良からぬ事だと言っているのよ。大体、カエルの論文なんてどこに提出するつもりですの!」
「私にとってカエルは授業よりも大切な存在なのだ。どうか許してくれ」
「学生の本分は勉学でしょうに...」
ロザンナが思わず、親しい友人の奇特な趣味に頭を悩ませる。一方で、ミルスはまるで反省の色を示しておらず、自らの趣味に誇りを持っている気色すら感じられた。
「そう暗い顔をしないでくれ。せっかくの美人さんが台無しだぞ」
「誰のせいだと思ってますの。あまり身勝手に振る舞うと、また変な噂を立てられましてよ」
「ふむ、心当たりがないな」
彼女達が学園に在籍してから半年しか経っていないが、ミルスの噂は学園中に広まっていた。
入学初日に自分ではなく、カエルの生態を熱く語った自己紹介。新入生歓迎会で解き放った無数のカエルの軍隊。雨の日に決まって繰り広げられる、裏庭でのカエルの捜索。下駄箱に置かれた緑の入った蠢く虫かご。
彼女は入学して以来、一から十までカエルが伴う行動を繰り広げてきた。その自由奔放ぶりな態度から、彼女は学園内で一番の変わり者として有名になっていた。
──そうして付いたアダ名は「カエル令嬢」。
結婚に重点を置く貴族社会において、これほど不名誉なアダ名はないだろう。しかし、当の本人はこのアダ名を凄く気に入っていた。
「私がカエル令嬢と呼ばれるようになってから半年か。感慨深いものがあるな」
「ちっとも感慨深くありませんわよ。ビクトル学園創設以来の問題児ですわ」
「よせ、照れてしまうだろう」
「褒めてませんわよ」
まるで成り立たない会話に溜息を吐くロザンナ。彼女は学園内でも人望が厚く、彼女の事を慕う学友も多い。本人は公爵家という家柄の影響が大きいと考えているが、才色兼備な令嬢の姿は、年頃の令嬢にとって羨望の的となっている。そんなロザンナにとって、ミルスという令嬢は実に型破りな存在であった。
入学以降見せ続けている破天荒な行動や、およそ貴族令嬢らしからぬ振る舞い。伯爵家出身でありながら着飾ることもなく、公爵家の自分に対して媚びるでも諂うでもない。ロザンナにとっては、それが凄く新鮮だった。そうして次第に「ミルス」という令嬢への興味は膨れ上がっていき、入学から半年を過ぎた頃には、こうして放課後に毎日顔を覗かせては、会話を弾ませるくらい親しくなっていた。
「本当に、貴女といると退屈しませんわね」
「何か言ったかい?」
「...何でもありませんわ。ところで、今日は貴女に大事なお知らせが──って...何をしていらっしゃいますの?」
怪訝そうにロザンナが覗き込んだのは、テラスの隅にしゃがみ込み、地面に生えた草むらに手を入れるミルスの姿だった。
「秋は『食欲の秋』と言うだろう?となると、この辺りに生息していても不思議ではないのだが...」
「まさか...カエルを探していますの?流石に学園のテラスにはいないと思いましてよ」
「いや、探しているのはカエルではないんだが...」
ガサゴソと草が音を立てて、根元の生え際に折り目が付く。暫くして、ミルスが声を弾ませた。
「お、見つけたぞ」
「何を見つけたんですの?」
「コオロギだ」
「きゃああああ!?」
黒茶色の胴体から伸びる六本の手足と、頭部に持った長い触覚。小ぶりな大きさをしているが、それはまさしくコオロギだった。
それをミルスが躊躇なく指で捕まえると、持参していた虫かごの中へと放り込む。年頃の令嬢が取るには忍びない行為である。
「よし、これで多少は食費が浮くな──って、どうかしたのかい?ロザンナ」
「...何でもありませんわ。ただ少し驚いただけですの」
「そうか?でも顔色が悪いぞ」
ミルスが顔色の優れないロザンナに近づくも、彼女がそれを拒絶する。
「お願いですから、その手で私に触らないで下さいまし。不潔でしてよ」
「不潔とは心外だな。虫はタンパク質が豊富なんだよ?中でもコオロギは食べやすく、人間にも食用として適していて...」
「聞きたくありませんわ。その豆知識」
深くは訊かず、ロザンナが手で耳を覆う。彼女くらいの年頃の令嬢であれば、虫に嫌悪感を示すのは珍しくない事だが、ミルスには甚だ疑問だった。
「ふむ、年頃の娘とは難しいものだな」
「貴女も同い年でしょうに」
「そういえばそうだったな。これはうっかり」
合点がいったように掌を軽く叩く友人の姿に、ロザンナがため息を吐く。この半年で大分距離は縮まったが、相変わらず発想が斜め上である。
これ以上は推し量っても仕方がないと、彼女は一度考える事を止めた。
「相変わらず、貴女と話すのは体力を使いますわね」
「その割には放課後になると、いつも私の元を訪ねてくるではないか」
「──!そ、それは...その...」
切れ長の瞳が大きく見開かれると、バツが悪そうに視線を逸らす。紅く染まる頬が大人びた雰囲気と相まって、更に艶やかなものだ。図星を突かれたのだろう。彼女を慕う女生徒が見たならば、たちまち黄色い歓声が上がりそうだ。
そんなことは露知らず、相変わらずマイペースなミルスが言う。
「ところで、先ほど言いかけていたが、私に何か用事があるのではないのかい?」
言われて、ロザンナがハッとする。
「そ、そうでしたわ!貴女に大事なお知らせがございましたの!近々行われる秋季パーティの事はご存知よね?」
「秋季パーティ?何だいそれは」
首を傾げるミルス。初めて耳にした様子だ。それを見たロザンナが溜息を吐く。
「やっぱり知らなかったんですのね。学園の案内表にも書いてますのに...」
「基本的に私はカエル以外のことには無頓着でね」
「それでよく入学出来ましたわね。この学園は競争率が高いですのに」
「カエルの研究にも、ある程度の知識が必要となるからね。最低限の勉学は修めているよ」
突っ込み所は満載だが、これ以上は何を言っても仕方がないと、ロザンナが話を続ける。
「秋季パーティとは、ちょうど期末試験が終ったこの時期に行われる、全学年で親睦を深める催しですの。毎年沢山の料理が振る舞われますのよ」
「ほう、そんな画期的な催しがあるのか」
「画期的ではありませんけども、貴族だけでなく平民も在学する学園では、珍しい催しかも知れませんわね」
貴族が通う学園では身分差による軋轢が生まれやすい。特に特権を持たない平民はその対象となりやすく、貴族の支配下となる場合が殆どである。ビクトル学園ではそういった身分制度を一時的に度外視しており、在学中は誰もが平等である事を謳っていた。
「それはそれとして、さっきホームルームで先生が仰るには、今年の秋季パーティは保護者同伴だそうですのよ」
「保護者同伴...?」
一瞬ミルスの顔が曇るが、直ぐに元の無表情に戻る。
「ええ。どうやら近々、隣国に留学していたキース第一王太子殿下が帰国なさるそうですの。それで彼の歓迎も兼ねて、保護者も同伴する流れになったそうよ。既に実家には報せが届いていると思いますけど、サボり魔の貴女も覚えておきなさいませ」
「ふむ、留意しておこう」
自信満々に告げるミルスだが、秋季パーティの存在を忘れていた事もあって、ロザンナの疑心は晴れない。
「本当に理解しましたの?」
「ああ、完全に理解したよ。わざわざ伝えにきてくれてありがとう。流石はロザンナだ」
「べ、別にお礼を言われる程のことではありませんわ。私はただ...友人の貴女が心配だっただけで...その...」
愛用の扇子で顔を隠すロザンナ。紅く染まる頬は、紅葉にも引けを取らない色を帯びていた。
彼女が誤魔化すように踵を返す。
「そ、それじゃあ、私はこの辺で失礼しますわね!これから婚約者と約束がありますの。また明日、放課後にお会いしましょう」
「ああ、また明日。婚約者のセブンスター君に宜しくな」
「ナインスター様ですわ」
「うむ?そうだったか。これは失敬」
首を傾げるミルスを見て、全く、と言い残して去っていくロザンナ。その口調には、呆れと慈しみが混じっていた。
その姿が完全に見えなくなると、テラスに残されたミルスが一人、虫かごに入ったコオロギに目を向けた。
「保護者同伴か...。気が重いな」
つづく




