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ふたりぶんの温もり

# ふたりぶんの温もり


雨粒が窓ガラスを滑り落ちる音が、静寂に包まれた部屋に小さなリズムを刻んでいる。外の世界は灰色の雲に覆われ、午後だというのに薄暗い。こんな日は決まって、温かい飲み物が恋しくなる。


キッチンで紅茶を淹れながら、私は何気なく呟いた。


「今日も、ひとりぶんだけ」


いつものように、お気に入りの白いカップにアールグレイを注ぐ。立ちのぼる湯気が、雨の匂いと混じり合って、なんだか懐かしい気持ちになる。一人暮らしを始めてもう三年になるけれど、こうして独り言を言うのが習慣になってしまった。


リビングのテーブルに戻り、ソファに身を沈める。雨音を聞きながら、ゆっくりと紅茶を味わう。本でも読もうかと思ったけれど、今日はなんだかぼんやりと窓の外を眺めていたい気分だった。


三十分ほど経っただろうか。カップの中身がすっかり空になって、底に茶葉が少し残っているのが見える。立ち上がって洗い物をしようと思い、カップを手に取った時だった。


テーブルの向かい側に、もうひとつカップがあることに気づいた。


「え?」


私は立ち止まって、そのカップをじっと見つめた。確かに私と同じ白いカップだ。そして、中にはまだ紅茶が入っている。湯気こそ立っていないものの、近づいてみると仄かに温かさを感じる。


「あれ、昨日もこんなことあったっけ…?」


記憶を辿ってみる。昨日も雨だった。そして確か、私は一人で紅茶を飲んでいたはずなのに、気がつくと向かいにカップがあったような気がする。でも、その時は疲れていたから見間違いだと思って、そのまま片付けてしまった。


でも今日は違う。はっきりと見える。そして、触れてみると確実に温かい。


「おかしいな」


私は自分の記憶を疑った。もしかして、無意識のうちに二つ分淹れてしまったのだろうか。でも、キッチンには使ったカップは一つしかなかった。それに、私はいつも一つ分の分量しか茶葉を使わない。習慣というのは恐ろしいもので、意識しなくても体が覚えている。


カップを持ち上げてみる。中の紅茶は私が飲んでいたものと同じ色合いで、同じ香りがする。一口飲んでみると、温度も味も完璧だった。まるで、たった今淹れたばかりのように。


不思議だった。でも、不気味ではなかった。


ソファに座り直し、そのカップを両手で包むように持つ。温かさが手のひらから伝わってきて、なんだか心が落ち着く。雨音が続いている。時計の針がゆっくりと進んでいく。


ふと、向かいの椅子を見た。誰かがそこに座っているような気がした。でも、もちろん誰もいない。ただ、なぜか一人ではないような感覚があった。


「……あなた、まだここにいるの?」


思わず、そんな言葉が口から出た。誰に向かって話しているのかは分からない。でも、確実に誰かがいるような気がする。


すると、カップの中から微かに音が聞こえた。


くすっ、という小さな笑い声のような音だった。


普通なら驚くべき状況だった。でも、なぜか私は怖くなかった。むしろ、心がふわっとほどけるような、温かい気持ちになった。まるで久しぶりに会った友人と一緒にいるような、そんな安心感があった。


記憶の奥を探ってみる。この部屋に引っ越してくる前、私は誰かと一緒に住んでいたような気がする。でも、それが誰だったのか、どんな関係だったのか、どうしても思い出せない。ただ、確実に言えるのは、その人と一緒にお茶を飲む時間がとても幸せだったということだった。


「そうか」私は小さく微笑んだ。「あなたは、まだ私と一緒にお茶を飲みたいのね」


また、カップの中から微かな音が聞こえた。今度ははっきりと笑い声だった。優しくて、懐かしくて、心地よい笑い声。


雨は相変わらず降り続いている。でも、部屋の中は不思議なほど温かかった。一人ではない。そんな確信があった。


カップを置いて、私は向かいの椅子に話しかけた。


「今度は何を飲みたい?コーヒーにする?それとも、また紅茶がいい?」


風が窓を揺らした。まるで返事をするように。


「そうね、紅茶の方がいいかもしれない。あなた、昔からアールグレイが好きだったものね」


記憶が少しずつ蘇ってくる。曖昧だけれど、確実にそこにあった時間。誰かと過ごした大切な時間。その人の顔は思い出せないけれど、一緒にいると安心できる人だった。私のことを大切にしてくれる人だった。


「ありがとう」私は静かに言った。「一人じゃないって分かって、嬉しい」


カップの中の紅茶は、まだ温かいままだった。どんなに時間が経っても、冷めることはないのだろう。それは、きっと愛情の温度なのだと思った。


窓の外では雨が降り続いている。でも、私の心は穏やかだった。明日もまた、こうして一緒にお茶を飲むのだろう。記憶が曖昧でも、姿が見えなくても、確実にそこにいる誰かと。


立ち上がって、二つのカップを持つ。どちらも空になっていた。キッチンで洗いながら、私は明日のことを考えた。


「来週は、ケーキも用意するね」

テーマ「ホッとするホラー」で作りました。

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