婚約解消に協力していたはずの第一王子が、最近何故か甘すぎる~囲い込みが本気すぎて逃げられません!~【読み切り版】
冷静かと思えば甘めな第一王子 × しっかり者聖女の婚約から始まるじれ甘系短編です。
『第一王子と聖女は、神に選ばれし対である―――』
ノアティス王国に伝わるその神託は、決して逆らえない“運命”だ。
神に選ばれた者同士が結ばれることで、国は守られ、繁栄を手にする。
それは現代の聖女であるヨルミリアも、もちろん例外ではなく。『第一王子カイル・ノアティスと聖女ヨルミリアを結び、国を守らせよ』 という神託は、神殿の大巫女を通じて王宮に届けられた。
これを受け、王宮と神殿の間で協議が重ねられ、2人はひとまず婚約することになった。
知らぬ国、見慣れぬ宮廷、心を通わせていない婚約者。
ノアティス王国の聖女として選ばれた以上、ヨルミリアはその運命に抗うことはできなかった。
国家間の結びつきを強め、神託に従う形で平和を保つ。
それがヨルミリアに課せられた役目だった――――のだが。
当の本人たちはびっくりするほど、婚約に乗り気ではなかった。
「……円満な婚約解消を目指さないか?」
「え?」
顔合わせが終わり、2人きりになったその瞬間。
第一王子カイル・ノアティスは、開口一番そんなことを言った。
「君がこの婚約に乗り気ではないことは、見ていてすぐにわかった」
「はい、まぁ……確かに私の意思ではありません」
「だが、神託は絶対。俺もそう思っていたから、受け入れるしかないと思っていた」
……思っていた、ということは。
今は思っていないということである。
ヨルミリアは小首を傾げてから、カイルの言葉の続きを待った。
その動きに合わせて、彼女の暗い茶髪がふわりと揺れる。
「君は思ったより、話が通じる相手だと思った」
「それは……どうも」
「だから、協力してくれないか?」
カイルの言葉は穏やかだったが、その奥には覚悟と冷静な計算が宿っていた。
――これは私の意思ではなく、ただの神託。
ヨルミリアは心の中で呟く。
この状況は誰かの期待と都合の結果であり、ヨルミリアはその“誰か”の駒でしかない。
だからこそカイルの申し出は、正直願ってもないものだった。
「……同じ目的のために、私たちは協力できる。そういうことですか?」
「あぁ」
ヨルミリアの問いに、カイルは迷いなく頷いた。
それはまるで、2人だけの秘密の契約。
互いに運命を否定しようとする者同士の、無言の共犯関係の始まりだった。
「そういうことならわかりました。お受けします」
そう伝えてから、右手を差し出す。
カイルは微かに驚いたような顔をしてから、ヨルミリアの手を取った。
初めて握った男の人の手は、大きくて、ごつごつしていて――だけど、不思議と嫌ではなかった。
こうして2人は、婚約解消を目指す“協力者”となったのだった。
―――――
―――
―
晩餐会の広間は、煌びやかなシャンデリアと音楽に包まれていた。
重ねられた金と銀の食器、香ばしい料理の匂い、どこか浮かれた笑い声。
見た目だけなら、まさに“祝宴”だった。
だがその中央にカイルと並んで座るヨルミリアは、居心地の悪さにそっと息を吐く。
場違い……というより、祭壇に上げられた感覚だったのだ。
微笑みの裏では、緊張と疲労が渦を巻いていた。
今まで聖女として何度も人前に出てきたが、今日の注目は質が違う。なぜなら“王子の婚約者”という立場を、値踏みするような視線にさらされているのだから。
「緊張しているのか?」
「そうですね、多少は……」
隣に座るカイルが問うてくる。
それに頷いたヨルミリアは、内心を見透かされたような気になって思わず苦笑した。
顔合わせから今日に至るまで、2人は秘密裏に“婚約解消”というゴールに向かって協力してきた。
だがその道の途中には、当然ながら形式的な儀式や催しが待ち構えていた。
この晩餐会もそのひとつ。
位の高い貴族たちとの顔合わせという名の、お披露目の舞台だ。
「可愛いドレスが着られるのは、まぁ、嬉しいですけどね……」
「普段は着ないのか?」
「聖女は別に、こんな綺麗なドレスを着て贅沢三昧ってわけじゃないですよ」
「……それもそうか」
カイルの瞳の色に合わせて誂えられたアイスブルーのドレスは可愛らしいけれど、なんだか今は窮屈で仕方がない。
早く終わってほしいと願いながら、ヨルミリアは余所行きの微笑みを浮かべ続けていた。この後控えている挨拶回りが嫌でたまらなかったが、ここまで来てしまったらどうすることもできなかった。
「そろそろ行こう」
「はい」
「会話は基本、俺に任せてくれればいい」
「……ありがとうございます。頼りにしてます」
そう言ってヨルミリアは立ち上がり、カイルの横に並んだ。
『とてもお似合いのお2人ですわね』
『これでノアティス王国も安泰だ』
『第一王子のカイル殿下はとても優秀な方ですし、婚約者に選ばれて幸せですね』
『聖女として、これからも国のために奉仕してくださいね』
挨拶回り中にヨルミリアに向けられた言葉は、ざっくりこんな感じである。
なんとも言えない余計なお世話感に笑みが崩れそうになったが、時々カイルにフォローしてもらいつつ挨拶は概ね順調に進んでいた。
こういうことは王子であるカイルの方が圧倒的に得意なので、心の底からありがたい限りだった。
「王子様って、大変なんですね……」
あらかた挨拶は終わり、最初に座っていた椅子に戻ってきたヨルミリアは大きく息を吐いた。
この場所も見世物感があって微妙な気持ちになるが、ちょっと疲れてしまったのだ。
疲れた声でカイルにそう言えば、こちらをからかうような言葉が返ってくる。
「……まさか、玉座にふんぞり返ってるだけと思ってたんじゃないだろうな?」
「そこまでは言ってません」
「そうか?」
「いたわりの言葉を、どうしてこう曲解するんですかね……挨拶回りの鬱憤を、私でどうにかしようとするのは止めてください」
「……バレていたか」
「バレバレです」
どうやらカイルも、多少くさくさした気分になっているらしい。
婚約解消の件については唯一の味方と言ってもいいヨルミリアに対し、どこか砕けたような態度になっている。
貴族との会話に慣れているものの、嫌なものは嫌なのだろう。
少しずつカイルにストレスが溜まっているのを感じていたヨルミリアは、呆れたように息をついた。
「周りは、取り繕った姿を見せなければいけない相手ばかりだからな。つい」
「それは……心中お察しいたします」
「でも君も、似たようなものじゃないか?」
カイルの問いに、ヨルミリアは思案顔になる。
聖女だったからこそ、こんなことになっているのだ。大変じゃないと言ったら嘘になる。だけど全てを『大変なもの』『嫌なもの』とするほど、悪いことばかりだったわけでもない。
そのことをどう伝えようか悩んで、でも上手い言葉が見つからなかった。
結局ヨルミリアは、短く同意の言葉を並べることしかできなかった。
「まぁ、そうですね。聖女ですし」
「大変じゃないのか?」
「大変ですよ。大変ですけど……それが務めなので」
ヨルミリアの言葉を聞いたカイルが、どんなことを思っていたのかはわからない。
聖女の務めに向き合うヨルミリアを真摯に思っていたのか、はたまた愚直だと思ったのか。全然違うことを考えていたのか。
ヨルミリアにはわからないが、いろんな思いが混じった、複雑な表情をしていた。
「俺たちは、意外と似た者同士かもしれないな」
「……そうですか?」
「こういう時は、多少違うと思っても『そうですね』と話を合わせるものだぞ」
「すみません、やり直させてください」
「はぁ……。俺たちは、意外と似た者同士かもしれないな」
「そうですね」
ため息交じりのカイルに慌てたヨルミリアは、先ほどとは打って変わって力強く頷いた。
その様子を見て、カイルは微かに表情を和らげて『はは』と小さく笑う。
思っていたよりもずっと優しい顔を向けられて、ヨルミリアはなんだかこそばゆい気持ちになってしまった。
それからしばらくは、穏やかな時間が続いた。
料理を頬張りながらヨルミリアは、ぼんやりと辺りを眺めている。
時間が経つのが、想像以上に遅く感じた。
「……ん?」
このまま平和に晩餐会が終わるかと思っていたが、ふと、ヨルミリアは違和感を覚えた。
「あの、カイル殿下」
「……どうした?」
隣に座るカイルに話しかければ、ヨルミリアの声に反応してアイスブルーの瞳が向けられる。
反応は素早いものの、どこか空気を抜いたような曖昧さが滲んでいた。まるで、自分の意識が一歩引いた場所で静かに存在しているような、そんな感じだ。
加えて目元の影がなんだか濃いように思えて、ヨルミリアは自身の感覚に確信を持った。
「えっと、カイル殿下の顔色が―――」
「顔色?」
「はい、顔色がよくないです」
周りに聞こえないように、小さな声で違和感を告げる。
隣に座るカイルの体調が、なんだか悪いように思えたのだ。
黙々と料理に手をつける横顔に、微かに疲労の色が滲んでいる。加えて、少し肩も重たげに見えた。
周りの者たちは、その違和感に気づいているだろうか。
あるいは気づいているけれど、わざと見ないふりをしているのか。
ヨルミリアにはそれがわからない。
ただひとつ言えるのは、カイルの不調は彼自身の中で閉じ込められていて、今の今まで外に漏れ出すことはなかったということだ。
……だけど、もう少し早く気づけたらよかった。彼が無理していることに。
「体調が悪いのでしたら、そちらのお酒ではなくお水に変えた方がいいかもしれません」
小さな声で慎重にそう告げると、カイルは僅かに目を見開いた。
それは驚きを含んだ表情だった。
「……気づいていたのか」
「気づいたのは今です。傍から見ればほんの僅かな違和感なので、きっと、他の方々は気づいていませんよ」
「…………そうか」
カイルの声が今まで聞いたものよりも低く、そして少しだけ掠れているように感じた。
ヨルミリアはそっと給仕を呼び『お水をいただける?』と言った。給仕はすぐに頷き、ヨルミリアの前に水の入ったグラスが置かれる。
その水面は、テーブルの明かりを受けて、きらきらと柔らかく反射していた。ヨルミリアはしばらくその水面を見つめながら、カイルに静かに告げた。
「ご無理なさらないでくださいね」
水を差し出しながら言葉をかけると、カイルは少し黙り込んだ。
ほんの一瞬、静寂が流れる。ヨルミリアはカイルが何かを言う前に、言葉を重ねた。
「カイル殿下の代わりなんて、いないんですから」
静かにそう伝えると、カイルはふっと小さく笑った。
その表情は皮肉のようにも見えたが、どこか柔らかく―――初めて見るその変化に、ヨルミリアは思わず瞬きをする。
「……君は、なかなかずるい奴だな」
「え、ず、ずるい……?」
思わず問い返すと、カイルはハッとしたように少しだけ眉をひそめた。
「別に、知らなくていい」
その言葉は照れ隠しのようでもあり、本音を打ち明けるのが怖いようでもあった。
……なんだったんだろう。今の、あの瞳は。
そう思ったけれど、何故だか再度問う気にはなれなかった。答えをもらえないだろうことが、なんとなくわかっていたからだ。
カイルは手に取ったグラスに口をつけ、静かに飲み干す。その仕草から、ようやく少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
まるで、張り詰めていた糸が一瞬だけ緩んだようだった。
カイル殿下が何を考えているのかは、あまりよくわからない。
でも、私の言葉が、少しは役に立ったのならそれでいい。
そう思いながら、ヨルミリアはそっと視線を戻した。
―――――
―――
―
「ヨルミリア様、本日殿下がお時間を取ってほしいとのことでした。本日は午前中に祈祷訓練がございますので午後なら空いているとお伝えしましたが、問題ありませんでした?」
「……またですか?」
戸惑いがちに首を傾げながら、ヨルミリアは手にした祈祷書から顔を上げる。
侍女の穏やかな笑みが、その疑問をあっさりと受け止めた。
「殿下、足繁く通われていますよね。少し意外でした」
侍女の言葉通り、最近のカイルは最近やたらと自分を訪ねてくる。
形式上の婚約者とはいえ、その頻度がどうにも気になった。
誰にも言っていない、2人だけの秘密だけれど。
カイルとヨルミリアは、円満な婚約解消を目指して手を組んでいる。
だからこそ、単なる礼儀や王族としての責任からの行動にしては、少しばかり過剰すぎる気がしたのだ。
「ヨルミリア様とご一緒されている時の殿下は、少し雰囲気が柔らかいですよね」
「そうですか……?」
「ええ。神託で結ばれたとは思えないくらい、殿下はヨルミリア様と向き合っていらっしゃるように見えます」
侍女の微笑みに、ヨルミリアは曖昧な顔をした。
たしかに最近のカイルは、まるで“形式”ではない何かを求めているようにも感じる。
会う時間をたくさん作ってくれるマメさ、目を合わせるときの柔らかさ、気遣うような言葉の端々。
……そして、あの贈り物。
「それにそのアクセサリー、殿下からの贈り物ですよね」
「……ええ、そうです」
何よりカイルは言動だけではなく、少し前にヨルミリアに贈り物をしてきた。
カイルは『婚約者にプレゼントのひとつもしない奴だと思われても、困るからな』なんて軽い声で言っていたけれど。
だが渡された品は“面倒を避ける”どころか、あまりにも高価で洗練されていた。
そのせいでヨルミリアの心は徐々にかき乱され、混乱しているのだ。
「なんだか殿下にお会いするの、憂鬱だわ……」
心の内が、思わず漏れ出る。
そうしている内に訓練の時間は近づき、ヨルミリアは重い足取りで神殿へと向かった。
* * *
訓練のあと手持ち無沙汰に王宮の図書館を訪れたヨルミリアは、「婚約解消」に関する記録を探していた。
しかし思ったような成果は得られず、軽くため息をつく。
「……はぁ」
予想外に大きく響いた自分の声に、慌てて口元を手で押さえる。
周囲を見回すが、咎める人はいなかった。
ホッと胸を撫でおろした、その時――――
「……ここにいたのか」
「殿下」
聞き覚えのある声に、顔を上げる。
視界に入るのは鮮やかな金髪と、アイスブルーの瞳だった。
「殿下……どうしてこちらに?」
「思っていたよりも早く用事が済んだから神殿まで迎えに行ったんだが……見当たらなくてな」
「それは、探させてしまったようですみません」
「いや、いい」
カイルはふと、机の上に積まれた本に目を落とす。
それに気づいたヨルミリアは、同じように視線を本のほうへ向けた。
「何を調べていた?」
「過去に婚約解消をした記録がないか、探していました」
「……そうか」
「でもよく考えたら、誰でも見られる場所にほいほい置いてあるわけないですよね」
よく考えたら、そういう重要そうな書物は誰でも見れるところには置いておらず、王族だけが入れる場所などがあるのかもしれない。
つまりその場合、婚約解消を実行に移すには、カイルにだいぶ頑張ってもらわないといけない可能性があるのだ。
そんなことを考えながら、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
なんて浅はかだったのだろうと、ヨルミリアは思わず小さく肩を落とした。
「……そのことについて、話があるんだ」
「話……ですか?」
思わぬ言葉に、ヨルミリアは不思議そうな顔をする。
やはりヨルミリアでは見られないような記録や書物の中に、手掛かりが隠されていたのだろうか。
「あぁ。少し歩かないか? 温室なら人も少ない。話すにはちょうどいい」
「温室……」
「今日は天気もいいし、王宮の温室はなかなかのものだぞ」
そう言って、カイルは手を差し出してきた。
一見無表情だが、わずかに指先が緊張しているように見えた。
その手をヨルミリアはじっと見つめる。
握手をしたことはあるけれど、手を差し伸べられたのは初めてのことだった。
「……はい」
少し考えた後、ヨルミリアはそっとカイルの手の上に指先を添えた。
王宮の南にある温室は陽をたっぷりと取り込みながらも、人の気配は少ない静かな空間だった。
周囲には香草や果樹、鮮やかな花々が咲き誇り、季節を少し先取りした空気が漂っていた。
「殿下、お花とか興味あったんですね……少し意外です」
「騒がしい宮廷より、ずっと落ち着く。君も、こういう場所が好きだろう?」
「……どうしてわかったんですか?」
「図書館での君を見て、なんとなく思った」
2人の間に流れる空気はどこか穏やかで、けれどほんのりとした緊張も混ざっている。
春先の曖昧な空気のように境界がはっきりしないまま、心を包み込む。
「……私、そんなにわかりやすいですか?」
「似た者同士だって思っただけだよ」
そう言って、カイルは柔らかに笑った。
しばらく温室の中を2人で歩いていたが、何かを見つけたらしいカイルが顔を上げた。
カイルは一輪の白い花を摘んでから、ヨルミリアの隣に戻ってくる。
「これは“カレントの誓花”。王族の婚約式にも使われる」
「誓花……」
「ただ、使われるのは咲いて3日目のものだけだ。4日目には散るからな」
そう言って、カイルはヨルミリアに花を手渡した。
微かに指先が触れて、心臓がドキリと跳ねる。
ヨルミリアの手の中にある白い花―――カレントの誓花と呼ばれるそれは、硝子細工のように儚いものだった。
花弁の縁は朝露を閉じ込めたようにかすかに光を宿し、風のない温室の空気の中でさえどこか淡く揺れているように見えた。
「この区画の花は、式典で使わなかった余りだ。もうすぐ手入れで落とされる」
「あの、これって摘んでもいいんですか……?」
ヨルミリアの問いに、カイルはふっと笑う。
「ここは、王族だけが自由に手を触れていい場所なんだ。余計な規則もない、俺のの逃げ場のひとつだ」
「逃げ場……」
「王太子とはいえ、将来を決められていたことに……時折、嫌気がさすことがあったんだ」
カイルが胸の内を吐露するのは、初めてのことだったように思う。
心の柔らかいところに触れさせてもらえたようで、ヨルミリアはなんだかたまらない気持ちになった。
カイルが先に、自分のことを教えてくれたからだろうか。
思っていたよりもするりと、ヨルミリアの口からは言葉が出てきた。
「私も、聖女というだけで何もかも決まってしまうのが、苦しくなることがありました」
「……」
「でも同じような気持ちの人が側にいると、少し元気になれますね」
「……そうだな」
その声にはいつもの冷静さの奥に、どこか遠くを見るような響きがあった。
この場所が彼にとってただの庭ではなく、“心を置ける場所”なのだと、言葉の端々が語っていた。
「綺麗ですね、誓花。たった3日しか咲かなくても」
白く小さな花を見つめたヨルミリアは、柔らかく微笑んだ。
ヨルミリアの横顔を、カイルはじっと見つめていた。
「殿下? どうかしましたか?」
「……ヨルミリアは、白が似合うな」
「え? あ、ありがとうございます……?」
不意に告げられた言葉に、頬がかすかに熱を帯びる。
うつむくヨルミリアの指先が、誓花の茎をきゅっと握り直す。
けれど不思議とその胸の奥は、柔らかくあたたかかった。
「なぁ、ヨルミリア」
――そういえば話ってなんですか?
ヨルミリアがそう問いかけるよりも早く、柔らかな声で名前を呼ばれた。
顔を上げると、カイルの視線が真っ直ぐに自分を捉えていた。
先ほどまでとは少し違う、何かを決意したような目の色に、自然と胸の奥がざわつく。
「今は婚約解消をする気はない、と言ったら、君は困るか?」
「……はい?」
一瞬、意味が理解できなかった。
けれどカイルの切実で真剣な視線が、本気で言っているということを痛いくらいに伝えてくる。
「え、えっ? 私たちは、婚約解消のために協力し合う関係でしたよね?」
自分の声がどこか浮いて聞こえる。
カイルは頷いたが、その表情にはどこか迷いの影が差していた。
まるで、自分の中の何かが変わったことを認めるような声音だった。
「……でも今は、婚約解消する気はないってことですか?」
「そうだ」
「どっ、どうしてですか?」
問いかけた声は、自分でも驚くほど震えていた。
戸惑いと期待と恐れが、ぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
「君といる時間が、思ったよりも……心地良かったんだ」
その言葉は飾り気がなく、しかし真っ直ぐに胸に突き刺さった。
温室に差し込む光が、カイルの横顔を柔らかく照らしている。
それがあまりにも綺麗で、ヨルミリアの心はぐらぐらと揺れてしまう。
「居心地、ですか……?」
「あぁ。君の前では、なぜだか肩の力を抜いていられるんだ」
「でも……」
何かを言おうとした言葉を、カイルの低い声が静かに遮る。
「―――じゃあ、逆に聞くが」
「え?」
思わず顔を上げると、カイルの目が真っ直ぐにこちらを見ていた。
その視線に射抜かれたように、思考が一瞬止まる。
返す言葉に迷い視線を揺らすヨルミリアに、さらに畳み掛けるように言葉が続く。
「君は俺が、誰にでもこんなふうに優しくしてると思ってるのか?」
「え、っと……」
「俺が誰にでも声をかけて、誰にでもこんな顔をすると?」
不意を突かれたように、ヨルミリアは言葉を失う。
違う。わかっている。自分を「特別」だなんて思ってはいけない。
あくまで神託をきっかけに出会っただけの関係だ。
そう思おうとするのに、心は勝手に熱を帯びていく。
その隙をついて、カイルはふっと目を細めた。
「君は、俺にとって特別だ」
「……特別、ですか? どうして?」
驚きのあまり、思わず問い返してしまう。けれど、カイルはゆっくりと口を開いた。
「きっかけは――――あの晩餐会だった」
あの夜の記憶が、ふと蘇る。
人々の笑い声と煌びやかな照明に包まれたあの夜。
カイルは一見平然としていたけれど、どこか不自然な様子にヨルミリアは気づいていた。
「誰も気づかなかった俺の不調に気づいて、誰よりも先に気遣ってくれた」
「そんな……たまたま気づいただけです」
小さな声で否定する。
けれど、カイルはゆっくり首を振った。
「いや。気づいても、言わない奴がほとんどだった」
「……殿下の体が第一なんじゃないんですか?」
ヨルミリアの言葉に、カイルは自嘲気味の笑みを浮かべた。
「スケジュールはいつも詰まっているのだから、多少の体調不良では休めないさ。俺自身、隠すのも年々上手くなった」
「そうなんですか……」
その言葉には重みがあった。
どれほどの責任を背負い、どれほど孤独だったのだろう。
カイルの背にのしかかるものの一端を、初めて理解した気がした。
「だからあの時も気づかれないと思っていたが……君は違うようだな」
「えっと……」
何かを言おうとして、言葉が喉につかえる。
言葉の奥にある何かが、ヨルミリアの胸を締めつけていた。
「……ヨルミリアは、俺のことは嫌いか?」
「その質問は、ずるいのでは?」
精一杯の反論は、掠れ気味だった。
どうしてそんな答えにくいことを、平然と聞くのだろう。
だけど一番わからないのは、カイルの言葉に顔が熱くなる自分だった。
「ずるいことをして君が手に入るなら、いくらでもやるさ」
「……っ!」
耳まで熱くなっていく。
それでも、カイルの瞳は真剣だった。
「君の傍は居心地が良くて、呼吸がしやすい。叶うなら、これからも側にいてほしい」
柔らかな声に心がじんわりと温かくなる。
静かな空間に、鼓動の音がやけに大きく響いた。
言葉を探してしばらく黙り込んでいたヨルミリアは、一度ぎゅっと唇を噛み締めた後、そっと言葉を紡いだ。
「……わかりました。もうしばらく婚約を続けてもいいです」
まだ『永遠』ではない。けれど、その一歩は確かなものだった。
小さな決意をこめて答えると、カイルの顔が僅かに和らいだ。
「この誓花に誓うか?」
「え、えっ? それはちょっと展開が早くないですか?」
まさか、そこに繋がるとは思わなかった。
思わず花を取り落としかけたヨルミリアは、慌てて指先に力を入れる。
けれどカイルの目は、本気そのものだった。
カイルの目の中に映る自分は、困ったような顔をしている。
確かにヨルミリアは、困っていた。
だけどそれは、カイルの申し出自体が嫌だったわけではない。
思っていたよりも嫌な気持ちにならない自分に、気持ちの変化を自覚してしまった自分に、困っていたのだ。
「……永遠はまだ、誓えません。あくまで『もうしばらく』です」
「しばらく、な」
カイルは、どこか愉しそうにその言葉を繰り返す。
「わ、私も、この国で過ごす日々は悪くないと思っていたので。それだけです」
「わかった。じゃあ……その間に、永遠を誓わせてやる」
「なんですかその宣言!?」
思わず大きな声が出てしまう。
カイルは驚きに目を丸くするヨルミリアを見て、小さく笑っていた。
「俺1人が誓う分には、別に問題ないだろう?」
「殿下、やっぱりずるいです……!」
拗ねたような口調で言いながら、ヨルミリアはカイルを見上げた。
文句の一つでも言ってやろうと思っていたのに、カイルがあまりにも嬉しそうな表情をしているものだから、ヨルミリアは何も言えなくなってしまう。
そういうところが、ずるいです。
俯いて小さく呟けば、カイルはまた笑った。
「そんなに言うなら、まだ永遠は誓ってませんけどもう少しだけ傍にいてあげます。感謝してくださいね」
ツンとした態度でそう言えば、ふわりと笑ったカイルはヨルミリアの手を取る。
恩着せがましい物言いをしたのに、どうしてこんなに柔らかな表情をしているのか。ヨルミリアにはわからない。
だけどカイルは未来を確信しているかのような顔をして、ヨルミリアのことを見つめていた。
「ちょっと、まだ永遠は誓ってないですからね! 先走らないでくださいね!」
「わかったわかった」
「絶対わかってないですよね?」
わかったと言いつつしれっと指を絡めてくるカイルに、ヨルミリアはむうっと唇を尖らせる。
そのくせまんまと心臓は跳ねているので、もう自分で自分がわからなくなってしまう。
「ずっと傍にいてもらえるよう、努力するよ」
「……じゃあ、あともう少しだけあなたのことを見ててあげますよ――――王子様」
もう少しだけ、彼の傍にいたい。
芽生え始めている気持ちの存在に、本当は気づいている。
だけどヨルミリアは、カイルのように素直に言葉に出せなくて。
囁いてから、カイルの手をぎゅっと握り返す。
手のひらに感じる温かさは、心地良いものだった。
手を握り返してきたヨルミリアに、カイルは僅かに驚いたような顔をする。
だけど何も言わずに、目を細めて笑っていた。
音もなく、運命の歯車がゆっくりと動いたような気がした。
終
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【6/6お知らせ】こちらの長編版の投稿を開始しました。
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(一応URL貼りますが、マイページから飛んだ方が早いかもです。しばらく毎日投稿予定ですので、お時間ある時に是非!)