第6話:雪原の試練、孤独な灯火と心の壁
第6話:雪原の試練、孤独な灯火と心の壁
雪華(凛)が、この骨の髄まで凍てつくような極寒の地で、見知らぬ雪原の部族長の娘「雪華」として、新たな、そして過酷な生を受け入れてから、幾度目かの厳しい、そして終わりが見えないほどに長い冬が、ようやくその終焉を告げようとしていた。雪解けの微かな兆しが、硬く閉ざされた大地にようやく訪れ、微かな春の息吹が風に乗って運ばれてくる。しかし、その春の訪れは、彼女がこの異世界で過ごした時間の長さを容赦なく突きつけ、故郷への焦がれるような想いと、大地との再会への切なる願いを、一層強く、深くさせた。
彼女の、決して見返りを求めない献身的な努力と、時折、ふとした瞬間に垣間見える、この原始的な部族の常識からはかけ離れた前世の知識の片鱗――例えば、前世で読んだサバイバル技術の本に載っていた、従来の罠よりも格段に効率的に、そして安全に獲物を捕らえるための、巧妙な罠の構造の改良案。あるいは、文化祭の準備で「異星の神話」と共に調べた古代の薬草学の資料の記憶からくる、様々な薬草の正確な効能に関する、まるで古文書を読み解くかのような詳細な知識。さらには、この部族の者たちが神の怒りや呪いとしか捉えられないような、簡単な病や、狩りの最中に負った深い傷への、驚くほど的確で、時には劇的な効果を示す適切な対処法――それは、彼女が天文部の部室で時折手に取っていた、古い医学の入門書や救急処置の本からの断片的な記憶に基づいていた――は、部族の一部の、特に若い世代の者たちの間では、次第に囁きの対象となっていた。
「雪華様は、何か我々には計り知れない特別なもの、先祖代々伝わる知恵とは異なる、新しい知恵を持っているのではないか」
「彼女の言うことには、最初は突飛に聞こえるが、よくよく考えてみると、確かに一理あるのかもしれない」と。
そうして、少しずつではあるが、彼女の言葉に耳を傾ける者が現れ始め、確かな評価と、揺るぎない信頼を得始めていた。特に、彼女の献身的な治療によって九死に一生を得た者や、彼女の的確な助言によって、それまで不猟続きだった狩りの成果が目に見えて上がった者たちは、彼女に対して、まるで生き神様を見るかのような、深い感謝と尊敬の念を抱いていた。
しかし、部族全体、特に、古くから伝わる慣習や、祖霊からの教えとされる伝統を絶対のものと頑なに信じ込み、いかなる些細な変化をも、まるで世界の終わりであるかのように何よりも恐れる、凝り固まった考えを持つ長老たちを動かすには、それはまだ程遠い、大海の一滴にも満たない微々たる影響力でしかなかった。彼らの心は、何十年、何百年と降り積もった雪のように、分厚く、そして固く凍り付いており、雪華の言葉は、その表面をかすめることすら難しいようだった。彼らにとって、雪華の知識は理解不能なものであり、その源泉が不明であることも不信感を増幅させていた。
彼らは、雪華が提唱する、部族の未来を見据えた新たな試み――例えば、前世の記憶にある燻製や塩蔵の技術を、この地の気候や手に入る素材に合わせて改良し、より長期の食糧備蓄を可能にし、毎年のように訪れる厳しい冬の飢饉に備えるという、彼女にとってはごく当たり前の提案。あるいは、狩りの際の連携を見直し、個々の勇猛さに頼るのではなく、役割分担と合図によって、より少ない犠牲で安定した成果を上げるための工夫といった、彼らにとっては馴染みのない考え方に対し、激しい拒否反応を示した。
「それは、偉大なる祖先の知恵と、神聖なる祖霊の教えに背く、危険極まりない、冒涜的な考えだ!」
「まだ若い女子供の、どこで聞きかじったかも分からぬ浅知恵で、我ら誇り高き雪狼部族の、古来より続く伝統を乱すつもりか!必ずや、神々の怒りを買い、災いを招くぞ!」と、集会の度に公然と、そして感情的に声を荒らげ、彼女の提案を一方的に退け、その立場を意図的に危うくし、時には、彼女を部族の中で孤立させようとするような、陰湿な動きすら見せた。その彼らの、雪華を見つめる視線は氷のように冷たく、底知れない猜疑心に満ちており、彼女の、部族を思う真摯な言葉に、冷静に耳を傾けようとする者は、長老たちの中には、残念ながらほとんどいなかった。
父であり、この雪狼部族の族長である厳格な男も、娘の中に眠る、常人離れした非凡な才と、誰よりも強く部族の未来を思う純粋な心を感じ取り、密かに期待を寄せてはいたものの、部族の重鎮である長老たちの、あまりにも頑なで強い反対の声には、正面から抗しきれなかった。彼は、雪華の提案する新しい知識がどこから来るのか、その源泉について時折問いかけることもあったが、雪華は「夢で祖霊が教えてくださった」などと、この世界の人々にも受け入れられやすいように、しかし曖昧に答えるしかなかった。族長は、その言葉の全てを信じているわけではないだろうが、娘の聡明さと、部族を思う心の真摯さは疑っていなかった。しかし、部族内の調和と結束を何よりも重んじる族長としての立場から、雪華の画期的な提案が、実際に実行に移されることは、ごく稀で、その多くは時期尚早として見送られるか、あるいは骨抜きにされてしまうのが常だった。その度に、雪華は無力感に打ちのめされた。
雪華は、部族の中で感じる、目には見えないが確かに存在する、冷たい疎外感と、自分の持つ知識や、部族を救いたいという切実な想いを、十分に伝えられないもどかしさ、そして、どれだけ努力しても変えられない現実に対する自らの無力さに、しばしば深い、暗い孤独と、胸を掻きむしられるような焦燥にさいなまれた。特に、しんしんと雪が降り積もる長い冬の夜、一人になると、そのどうしようもない感情が、まるで抑えきれない津波のように、彼女の心に激しく押し寄せてくることもあった。
そんな彼女の、唯一無二と言っていいほどの心の支えは、遠い、遠い故郷、日本の四季折々の、鮮やかで美しい記憶と、何よりも、大地との再会への、日に日に強く、そして切なくなるばかりの、魂からの願いだけだった。彼の、あの太陽のような屈託のない笑顔を思い浮かべるだけで、不思議と心の奥底から、生きるための力が、再び湧いてくる気がした。彼もきっと、どこかで自分を想ってくれているはずだと、そう信じたかった。
彼女は、この部族の誰にも、おそらく永遠に理解されることはないであろう、前世で培った科学的な知識や、未来のより良い社会に対する漠然としたビジョン、そして、言葉にすればするほど陳腐になってしまいそうな、大地への募る、焦がれるような想いを、夜ごと一人、天幕の薄暗い、獣脂のランプの揺らめく灯りの下で、苦労して手に入れた羊皮紙の貴重な切れ端に、誰にも読めぬよう故郷の文字――日本語で、震える手で細々と書き留めては、それを大切に、まるで宝物のように胸に抱いて眠りについた。それは、彼女にとっての秘密の日記であり、この孤独な世界での唯一の慰めであり、そして、自分自身を見失わないための、最後の砦だった。時折、前世で大地と交わした何気ない会話や、共に過ごした天文部の風景を、まるで映画のワンシーンのように詳細に書き記し、その記憶が薄れないように必死に繋ぎとめていた。
そんな雪華の姿を、集落の隅で、誰にも気づかれずに見つめる者がいた。氷月と名乗る、雪華とほぼ同年代の女性だった。彼女の切れ長の瞳は、同年代の娘たちが浮かべるような柔らかな光ではなく、鋭く、そしてどこか氷のような冷たさを湛えていた。部族の中でも抜きん出て聡明で、一度見聞きしたことは決して忘れず、複雑な状況や人間関係を瞬時に、そして的確に分析する驚異的な能力を持つと囁かれていたが、その鋭すぎる洞察力と、物事をあまりにも率直に、時には相手の痛いところを容赦なく、冷徹に指摘する厳しい言動ゆえに、周囲から敬遠されがちだった。彼女もまた、雪華とは異なる種類の、しかし同様に深い孤立感を、その怜悧な表情の奥に抱えているように見えた。
氷月は、雪華が時折見せる、この部族の常識では考えられないような行動や、その言葉の端々に現れる論理的な思考、そして彼女が夜な夜な何かを書き留めているらしい謎めいた行動に、強い興味を抱いていた。彼女は、雪華が他の者とは明らかに違う「何か」を持っていることを見抜き、それが部族に吉と出るか凶と出るか、冷静に見極めようとしていた。雪華は、氷月のその全てを見透かすような瞳の奥に、自分とどこか通じる、言葉にできない孤独や葛藤のようなものを時折感じることがあったが、まだお互いに深く言葉を交わし、心を通わせる機会は訪れていなかった。氷月もまた、雪華の型破りな行動や、彼女が時折見せる、この原始的な部族の者とは思えぬ深い思考の片鱗に、密かな、しかし鋭い関心と、ある種の共感を寄せているようではあったが、それを決して表に出すことはなかった。二人の間には、まだ目に見えない、厚く、そして冷たい氷の壁が存在しているかのようだった。
雪華の心の中では、病の床に伏し、日に日にその生命の灯火が弱々しくなっていく父の、自分に託された期待に応えたいという切実な想いと、この部族の、旧態依然とした、まるで淀んだ水のように停滞した状況を変革し、皆が少しでも豊かに、そして安全に暮らせるようにしたいという強い焦り、そして何よりも、大地に会いたい、彼の温もりに、もう一度だけでいいから触れたいという、魂からの、渇望にも似た願いが、常に激しく、そして複雑に渦巻いていた。しかし、その燃えるように熱く、そして複雑に絡み合った想いを、心から分かち合い、共有できる相手は、まだこの広大で、どこまでも続く厳しい雪原には、一人としていなかった。
彼女の戦いは、まだ始まったばかりの、出口の見えない、暗く長いトンネルの中を、たった一人で手探りで進むような、孤独な、そして先の見えない戦いだった。それでも、彼女は決して諦めなかった。その瞳の奥には、どんな困難にも屈しない、強い意志の光が、孤独な灯火のように、静かに、しかし力強く燃え続けていた。