第51話:雪原の狼姫、南へ牙を剥く刻、河北の巨人と相対す
第51話:雪原の狼姫、南へ牙を剥く刻、河北の巨人と相対す
雪華(凛)は、公孫瓚を破り幽州全土を完全にその支配下に収めた後、数年の歳月をかけて北方の統治基盤を盤石なものとし、その国力を着実に増強させていた。彼女の厳格かつ公正な統治――それは、前世の歴史で学んだ法治国家の理念や、天文部の部室にあった社会契約論の書籍から得たヒントを、この世界の現実に合わせて応用したものだった――は、長年の戦乱に疲弊した民衆の生活を着実に安定させ、雪狼兵は氷月や、新たに加わった張郃ら元公孫瓚配下の優秀な将兵たちの下で、絶え間ない訓練と実戦経験を重ね、さらに精強かつ組織的な大軍隊へと成長を遂げていた。
しかし、雪華の鋭い視線は常に南、広大で混沌とした中原の心臓部へと鋭く向けられていた。特に、河北四州に巨大な勢力を誇り、当代随一の名門と謳われる袁紹の存在は、彼女が中原進出を果たし、そして何よりも生き別れた幼馴染・大地との再会を果たす上で、避けては通れない、そしておそらくはこれまでのどの敵よりも強大で困難な障壁であった。袁紹を打倒し、河北を制圧すれば、中原の北半分を手中に収めることになり、南方への道が大きく開ける。
袁紹は、四世三公という比類なき家柄の威光と、顔良・文醜といった、中原にその名を轟かせる当代きっての勇猛な将軍たち、そして田豊・沮授・審配・逢紀といった多士済々な、しかしそれぞれが異なる思惑を抱える参謀たちを擁し、当時の中原において許都の曹操と並び立つ、あるいはそれ以上の最大勢力の一つと目されていた。彼は、雪華の急速な台頭を「北の蛮族を束ねる、成り上がりの小娘風情。女が天下を語るなど片腹痛いわ」と公然と見下しつつも、その得体の知れない勢いの強さと、百戦錬磨の公孫瓚を鮮やかに破った戦術の巧みさを内心では警戒し、国境付近に大軍を集結させ、雪華の南下を牽制し、河北の覇者としての威厳を保とうとしていた。袁紹は、雪華が公孫瓚の旧領を併合し、さらに北方遊牧民とも連携を強めているという情報――特に、雪華が烏桓の蹋頓と同盟を結び、彼らの騎馬隊を雪狼兵に組み込んでいるという噂――に、内心穏やかではなかった。
雪華は、氷月と共に袁紹軍に関するあらゆる情報を、数ヶ月にわたり徹底的に分析する。兵力では、動員可能な総兵力において圧倒的に袁紹が有利であり、その装備の質においても袁紹軍は中原随一と噂される。単純な正面からの決戦は、雪狼兵の精強さを以てしても、多大な犠牲を強いられるか、最悪の場合は全軍壊滅という致命的な敗北を喫する可能性が高い。
氷月は、袁紹自身の性格――名門意識が異常に強く、見栄っ張りで虚栄心が強く、一度思い込むと他者の忠告(特に耳の痛いもの)に全く耳を傾けない短絡的な面がある――と、彼の配下の参謀たちの間に存在する深刻な確執(現実的で剛直な戦略眼を持つ田豊・沮授らと、袁紹の意を迎えることに長け、甘言を弄する逢紀・郭図らとの根深い派閥対立)に、攻略の糸口を見出す。
「雪華様、袁紹は確かに強大ですが、その巨体は数多の矛盾と、いつ崩壊してもおかしくないほどの深刻な亀裂を内包しております。彼の傲慢さと猜疑心、そして家臣団の絶え間ない不和は、我々にとって最大の武器となりえましょう。我々は、その一点を執拗に突き、彼の力を内側から、静かに、しかし確実に切り崩していくべきです。直接的な軍事衝突は、彼らが内側から十分に弱体化し、我々が戦わずして勝てる状況を作り出した後でも、決して遅くはありますまい。袁紹の息子たちの間にも、後継者を巡る不穏な動きがあるとの情報もございます」
氷月の冷徹なまでに的確な献策を受け、雪華は、袁紹との全面対決の前に、まず情報戦と心理戦、そして調略を最大限に駆使し、巨大な敵の足元を揺るがし、内部から崩壊させることを決意する。河北の民衆や、袁紹配下の不満を持つ者たち、そして袁紹の複数の息子たちの間で囁かれる、血なまぐさい後継者問題などを巧みに利用し、内応や離反を誘うための緻密かつ多角的な工作を、秘密裏に、そして大胆に開始するのだった。それは、武力だけではない、雪華と氷月の真の戦いの始まりであった。
「袁紹、あなたという巨象も、足元から崩せば倒れるわ。そして、その先には必ず…」雪華は静かに、しかし強い決意を込めて呟いた。彼女の脳裏には、遥か南の、まだ見ぬ「太陽王」の姿が浮かんでいた。




