第4話 孤独と適応、雪華の戦い
第4話:孤独と適応、雪華の戦い
雪華(凛)は、それから数日間、身を焼くような高熱と、現実と、遥か彼方となった前世の記憶が混沌と混濁し、支離滅裂で色彩豊かな、しかし悪夢のような映像となって脳裏に絶え間なく押し寄せる苦しみに、ただひたすらうなされ続けた。それは、意識の境界が曖昧になり、二つの世界が彼女の中で激しく衝突し合う、耐え難い時間だった。
夢の中では、アスファルトが夏の陽射しに焼ける独特の匂いが立ち込める、故郷の日本の街角が鮮明に蘇る。学校帰りに友達と立ち寄った、賑やかで活気に満ちた商店街の喧騒、色とりどりの商品、飛び交う客引きの声。気心の知れた友人たちとの、他愛もない、しかし温かい笑いに満ちた会話の断片が、耳元で囁かれるように聞こえてくる。
そして何よりも、天文部の、あの少し埃っぽくて、でも宇宙の神秘に満ちた静謐な部室で見た、大地の屈託のない、まるで真夏の太陽そのもののような明るい笑顔が、万華鏡の模様のように目まぐるしく現れては消え、彼女の心を激しく揺さぶり、混乱させた。その笑顔を見るたびに、胸が締め付けられるような愛おしさと、同時に鋭い痛みが走るのだった。あの頃、大地が何気なく話していた、サバイバル番組で見たという「どんな状況でも生き抜く知恵」や、彼が熱心に作っていた文化祭の小道具の精密な作りの記憶が、なぜか今の彼女の頭の中で妙に鮮明に思い出された。
はっと目覚めるたびに、現実の過酷さが、冷たい鉄槌のように彼女の意識を打ちのめす。獣の毛皮の、硬くゴワゴワとした、肌に擦れる不快な感触。天幕の内部に深く染み付いた、獣脂と煙の、鼻をつくような独特の匂い。そして、周囲で飛び交う、全く理解不能な、時には獣の咆哮にも似た荒々しい言葉の洪水。その異様な空間――そこは、彼女の知る世界とはあまりにもかけ離れた、原始の息吹が色濃く残る場所だった。
その、埋めがたい、そして残酷なほどのギャップに、胸が内側から張り裂けるような、言葉にできないほどの絶望感と喪失感に襲われた。その度に、熱い涙が、誰に気づかれることもなく静かに頬を伝い、荒々しい毛皮の寝具に染み込んでいった。
自分が「雪華」という、全く見ず知らずの、この極北の地に生きる部族の族長の娘として、文明の光も届かぬような、原始的ともいえる過酷な世界に、どういうわけか存在しているという事実は、到底受け入れがたい、悪夢以外の何物でもなかった。何度も、何度も、これはただの質の悪い夢なのだと、早くこの悪夢から覚めてほしいと、必死に自分に言い聞かせようとした。
しかし、身体を容赦なく襲う、骨の芯まで響くような激しい節々の痛み。何日もまともな食事をとれていないことからくる、胃の不快な収縮感と、めまいを伴う空腹。そして、周囲の人々の、汗と土と獣の匂いが混じり合った生々しい生活の匂いや、彼らが立てる、遠慮のない、時には暴力的とさえ思える荒々しい物音。それら全てが、これが紛れもない、残酷なまでの現実であることを、彼女に容赦なく、そして執拗に突きつけていた。
彼女は、いつまでも底なしの絶望と、過去への悲嘆に浸っているわけにはいかなかった。それは、元来の彼女の、凛とした、困難に立ち向かう性分ではなかったし、何よりも、そうしていては未来などあるはずもなかった。もし、この想像を絶するほど過酷な世界で生き延び、そして万に一つの、いや、億に一つの、天文学的な確率だとしても、必ず大地を探し出すという、今はまだか細く、頼りない一縷の望みを繋ぐには、まず、自分がこの部族の族長の娘「雪華」として、この地で生きることを正面から受け入れなければならない。
そして、この荒々しくも力強い部族の言葉を一つでも多く覚え、彼らの価値観や、厳しい自然の中で培われた生き方を深く理解し、自分が置かれた状況を正確に把握すること。さらに何よりも、この厳しい自然環境の中で、自分の足で立ち、生き抜くための術を、自らの力で身につけなければならない。そう、彼女は心の奥底で、静かに、しかし固く決意した。その決意は、凍てつく大地に打ち込まれた楔のように、揺るぎないものだった。
大地もきっと、どこかで見知らぬ、もしかしたら自分以上に過酷な世界で、同じように想像を絶する孤独と不安の中で、必死に戦っているはずだ。そう思うと、不思議と心の奥底から、じわりと熱い勇気と、生きるための力が湧いてくる気がした。あの、普段は少し頼りないところもあるけれど、いざという時には誰よりも強く、そして優しい彼が、今頃どんな想像を絶する困難に、たった一人で立ち向かっているのだろうか。それを思うと、自分がここで弱音を吐き、挫けているわけにはいかないと、強く、強く感じた。私たちは、二人でならきっとできると、そう誓い合ったじゃないか。その言葉が、彼女の胸を熱くした。
彼女は、身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる老婆――皺だらけの顔に優しい眼差しを宿した老婆だった――や、時折、心配そうに、しかし多くを語らずに様子を見舞いに訪れる、父であり族長である、威厳に満ちた厳格な男の言葉に、全神経を集中させて耳を傾けた。その言葉の一つ一つの響き、抑揚、そしてそれが発せられる時の表情や身振り、前後の文脈から、必死にその意味を推測し、何度も何度も頭の中で反芻し、まるでパズルのピースを組み合わせるように、懸命に記憶しようと努めた。
彼女が元々持っていた、一度見聞きしたものは滅多に忘れない驚異的な記憶力と、複雑な事象の中から法則性を見つけ出し、論理的に分析する能力――それは、天文観測で培われた根気強さと、文化祭の準備で多種多様な資料を読み解いた経験が、この異世界でも図らずも活かされていたのかもしれない――は、この過酷な世界で彼女が持つ、唯一にして最大の武器だった。
数週間もすると、驚くべき速さで、簡単な日常会話の断片なら、おぼろげながらもその意味を理解できるようになり、片言ながらも自分の意思を、まだぎこちない、しかし懸命な身振りを交えながら伝えられるまでになっていた。言葉が少しずつ通じ始めると、周囲の人々の彼女に対する、どこか異物を警戒するような視線も、春の陽光に照らされた硬い氷がゆっくりと解けるように、少しずつ和らいでいくのが感じられた。彼らが彼女を、かつての、少し奔放だった「雪華」とは少し違う、何か不思議な、そしてどこか聡明な雰囲気を持つ存在として、しかし同時に紛れもない族長の娘として、改めて認識し始めているのを、肌で感じ取ることができた。その変化は、彼女にとって大きな励みとなった。
この部族の生活は、雪華が前世で得た、書物や映像からの知識で想像していた以上に、原始的で、過酷を極め、厳しい自然環境との絶え間ない、文字通りの死闘の連続だった。彼らの主食は、男たちが数日がかりで、命懸けで雪原を追って狩ってくるトナカイや、時には獰猛なオオカミなどの獣の肉と、女子供が凍てつく大地を掘り起こし、雪の中から辛うじて見つけ出してくる僅かな根菜や、凍ったままの木の実。農耕という概念はほとんど存在せず、気まぐれな天候に大きく左右される不安定な食糧事情は、常に部族の存亡を脅かす、目に見えない重圧となっていた。特に、長く、暗く、そして容赦のない厳しい冬の、骨身に染みる寒さと、じわじわと体力を奪う飢えは、体の弱い者や老人にとっては、常に死と隣り合わせの、乗り越えがたい脅威であり続けた。毎年のように、冬を越せずに命を落とす者が出るという。
雪華は、前世で得た、天文部の部室の本棚で見つけた雑多な知識の断片――例えば、文化祭で「異星の神話」を創作する際に参考にした古代農耕文明の資料にあった、作物の種を選び、土地を適度に休ませながら計画的に作物を育てる初歩的な農耕の概念。あるいは、サバイバル術の本で読んだ、より効率的に、そして安全に獲物を捕らえるための、巧妙な罠の仕掛け方の原理や、既存の道具を少し改良するだけで格段に性能が上がるヒント。そして何よりも、歴史ドキュメンタリーで見た、乏しい食料を無駄にせず、腐敗から守り、長期間保存するための方法(燻製や乾燥、塩蔵といった基本的な技術から、あるいは偶然の発見から生まれる発酵といった、より高度な技術まで)――が、この世界で、この貧しくも誇り高い部族の生活を、少しでも改善するために役立つのではないか、と静かに考え始めるようになった。それは、彼女にとっての、この世界で生きる上での最初の、そして具体的な目標となった。大地を探し出すという大きな目的の、小さな一歩となるかもしれない。しかし、これらの知識はあくまで断片的であり、この世界の素材や環境でそのまま通用するとは限らない。試行錯誤が必要になるだろう。
しかし、それを、長年培われてきた伝統と慣習に凝り固まった部族の人々に理解させ、受け入れさせるのは、言葉の壁以上に、遥かに困難なことだった。部族の長老たちは、雪華の提案を聞くと、眉をひそめ、「祖霊の聖なる怒りに触れることになる」「古き良き伝統を変えることは、必ずや災いを招く元となる」と囁き合い、雪華の言葉に真摯に耳を傾けようとはしなかった。若く、しかも「一度死にかけ、魂がどこか別のものと入れ替わったのではないか」とすら、一部では怪訝な目で見られている族長の娘の、突飛とも思える提案は、彼らにとっては理解不能で、危険極まりないものにしか映らなかったのだ。彼女の切実な提案は、しばしば冷笑と共に一笑に付されるか、あるいはあからさまな不信と、時には侮蔑の色を浮かべた目で見られるばかりだった。その度に、雪華の胸は痛んだが、諦めるわけにはいかなかった。彼女は、まず彼らに「結果」を示す必要があると感じていた。
雪華は、焦る気持ち、今すぐにでも彼らの助けになりたいという逸る心をぐっと抑え、まずは周囲からの信頼を、一歩一歩着実に得ることから始めようと決意する。焦りは禁物だ、急いては事を仕損じる、と自分に何度も言い聞かせた。
彼女は、族長の娘という、ある意味で特権的な立場に決して甘えるのではなく、自ら率先して部族の仕事――凍えるような冷たい、肌を刺すような川での過酷な水汲み。身を切るような寒風が吹きすさぶ中での、重い薪拾い。そして時には、見分けのつきにくい毒を持つものと隣り合わせの、危険な薬草採集――を、文句一つ言わず、黙々と、そして真摯に手伝った。時には、まだおぼつかない、雪に足を取られそうになる足取りで、男たちの狩りに同行し、その持ち前の鋭い観察眼と、前世で培った論理的な思考力、そして僅かなサバイバル知識を活かして、小さな獲物を得るための巧妙な罠のアイデアを提案したり、獲物の痕跡を見つける手助けをすることもあった。それは、華奢な彼女の身体にとっては、想像を絶するほど過酷な肉体労働だったが、奥歯をギリリと食いしばって耐え抜いた。その類稀なる知恵と、決して諦めない粘り強さ、そして何よりも、誰に対しても真摯で献身的な彼女の行動は、ゆっくりと、しかし確実に、人々の彼女を見る目を変えていこうとしていた。日々、小さな信頼が積み重ねられていくのを感じた。
夜ごと、粗末な獣皮の天幕の隙間から見上げる、この異郷の空。そこには、日本の夜空とは星々の配置こそ異なるものの、やはりどこか懐かしさを感じさせる、無数の星々が、凍てつく大気の中で鋭く、そして静かに輝いていた。
雪華は、その吸い込まれそうなほど深く、そして冷たく澄み渡った星空を見上げながら、遠く離れた場所にいるであろう大地への想いを、切なく募らせた。いつか必ず、必ず再会できる日が来ると、強く、強く夢見た。その夢だけが、彼女を支えていた。
「大地、私はここで、何とか生きているわ。必ず、必ずあなたを見つけ出して、あの時の約束を果たすから……。だから、あなたも……どうか、どうか無事でいて。そして、もしもこの声が届くのなら、私を待っていて」
その、声にならない、しかし魂からの熱い想いだけが、彼女の孤独で、時に凍えそうになる厳しい心を支える唯一の、そして決して消えることのない、確かな光だった。それは、どんな激しい吹雪の中でも、決してかき消されることのない、彼女の魂の奥深くで燃える続ける、小さくも力強い灯火だった。