第2話 雪原の目覚め、異邦の少女「雪華」
第2話:雪原の目覚め、異邦の少女「雪華」
骨を刺すような冷気。いや、それ以上に、凍てつく刃で身を削がれるようだ。耐え難い冷たさが、容赦なく凛の意識を現実へと引き戻していく。それは、無数の氷の針が皮膚の直下を絶え間なく突き刺すような、鋭く執拗な感覚だった。深い眠りの底から、無理やり乱暴に引きずり出されるかのような、不快な覚醒。
重く、鉄の重しでも乗せられたかのように固く閉ざされた瞼を、ありったけの意志を振り絞って、ようやくわずかにこじ開ける。
最初にぼやけた視界に映り込んだのは、粗末な、しかし厚手でごわごわとした手触りの獣の毛皮で覆われた、見慣れぬ天幕の天井だった。薄暗く、染み付いた獣の脂を燃やす独特の、燻されたような、そして鼻の奥を刺激する生臭い匂いが、重く淀んだ空気と共に天幕の内部に充満している。それは、彼女の知るどんな匂いとも異なり、原始的な生活の息吹を濃密に感じさせた。
身体は、まるで自分のものではないように、鉛を飲み込んだかのように重く、だるく、指一本動かすことすら億劫だった。全身の節々が、錆びついた機械のように軋み、鈍い痛みを訴えている。頭の奥深くでは、ズキン、ズキンと脈打つたびに、大きな鐘が内側から打ち鳴らされているかのように、鈍重な痛みがガンガンと鳴り響き、思考を妨げた。
自分が一体何故、こんな場所に横たわっているのか。直前の記憶すら、霧の中に霞んで曖昧で、まるで悪夢の続きを見ているかのような、ひどい混乱が脳髄を掻き乱す。胃の底からは、不快なものが込み上げてくるような、生々しい吐き気がじわじわと迫っていた。
(ここはどこ…? 何があったの…? 私、確かに大地と…あの部室にいたはずなのに…白い光…それから…何も、思い出せない…どうして…)
混乱し、千切れ飛んだフィルムのように繋がらない思考の中、ふと、すぐ傍らでこくりこくりと舟を漕いでいたらしい、顔中を深い皺で埋め尽くされた、異様な風貌の老婆が、凛の微かな目覚めの気配に気づいた。
老婆は、枯れ木のような細い首をゆっくりと持ち上げ、皺でほとんど隠れてしまったような小さな目を瞬かせた。そして、凛がかろうじて目を開いたことを確認すると、か細く、それでいて甲高い、鳥の鳴き声にも似た掠れた声を上げた。その声色には、安堵と、それ以上に信じられないものを見たかのような驚愕の色が、隠しようもなく滲んでいた。
老婆が発した言葉は、凛の知る世界のどの言語とも全く異なっていた。それは、風が葦の原を吹き抜ける音か、あるいは遠くで獣が低く唸る声のようにも聞こえ、全く理解できないという冷厳な事実が、彼女の胸に宿る恐怖と、先の見えない不安を、さらに深く、そして暗く掻き立てる。言葉が通じない。このたった一つの事実が、見えない壁となって彼女を世界から隔絶するかのようだった。
老婆は、驚いたようにカッと目を見開くと、乾いた唇をわななかせ、慌てふためいた様子で、幾重にも重ねられた毛皮で作られた天幕の入り口から、よろよろと、しかし必死の形相で外へ飛び出していった。外の冷気が一瞬、天幕の中に流れ込み、獣の匂いに混じって、雪と氷の鋭く清冽な香りをもたらした。
すぐに、老婆は同じように獣の毛皮を無造作に、しかし体に馴染むように纏った、岩のように屈強な体躯の男たちを数人、ぞろぞろと引き連れて戻ってきた。彼らの体からは、雪原の厳しさを物語る冷気と、わずかに汗と獣の匂いが混じった、力強い生命の匂いがした。
彼らもまた、凛の知らない言葉で何かを口々に、早口で、しかしどこか抑えた声で話し合っている。その視線は、複雑だった。彼女を案ずるような温かさと、同時に、まるで見たこともない珍しい生き物でも値踏みするかのような鋭さ、そして何よりも、理解しがたい状況に対する戸惑いの色が濃く混じり合っていた。その眼差しは、彼女の心をさらにかき乱し、自分がまるで異物であるかのような疎外感を抱かせた。
凛は、彼らの大げさとも言える身振り手振りや、時折、その言葉の中に混じる、聞き覚えのない響きの単語、そして何よりも、彼らの切迫した、真剣な表情から、信じられないような事実を、徐々に、そして断片的に理解していった。
自分が、この雪と氷に閉ざされた世界の、小さな部族の長の娘であるということ。そして、数日前に獲物を追う厳しい狩りの最中に、雪に覆われた険しい崖から滑落し、頭を強く打ちつけて意識を失っていたらしいということ。その事実が、まるで遠い世界の出来事のように、しかし否定しようのない現実として、彼女の心に重くのしかかってきた。
彼らは、彼女のことを「雪華」と、独特の抑揚で呼んでいるようだった。その響きは、どこか硬質で、それでいて雪の結晶の儚さを思わせる。なぜそう呼ばれるのか、今の凛にはまだ分からなかったが、この部族の人々の多くが持つであろう黒や褐色の髪とは明らかに異なる、彼女自身の、まるで降り積もったばかりの新雪のように白い、あるいは月光を吸い込んだかのように輝く、色素の薄い髪の色が関係しているのかもしれないと、熱に浮かされた頭でぼんやりと思った。
この部族は、見渡す限り果てしなく、白一色の雪と、青白い氷に閉ざされた、厳しい自然と常に隣り合わせに生きる、狩猟を生業とする小さな集団らしかった。天幕の隙間から垣間見える外の景色は、太陽の光さえも冷たく反射する、どこまでも続く絶望的なまでの雪原。風が唸りを上げ、雪煙が視界を奪う、生存そのものが闘いである土地。そんな過酷な環境が、彼らの屈強な肉体と、厳しい眼差しを育んだのだろう。
連れてこられた男たちの中で、ひときわ体格が大きく、その顔には幾多の戦いを潜り抜けてきたことを物語る深い傷跡が刻まれた、威厳のある壮年の男――その佇まい、周囲の者たちの彼に対する敬意のこもった態度から、おそらく、この世界の自分の父親なのだろうと凛は直感した――が、ゆっくりと彼女の寝床に近づいてきた。
男は、心配そうに眉を寄せ、そのゴツゴツとした、岩のように硬く、それでいて不器用な優しさを宿した大きな手を、そっと凛の額に当てた。何かを、低く、しかし慈しむような声で語りかけている。その言葉の意味は依然として理解できないが、地響きのような低い声の響きには、娘の奇跡的な目覚めを心から喜ぶ父親の深い安堵と、言葉にできないほどの慈しみが、確かに感じられた。その手の温もりが、わずかながら凛の心の凍てつきを和らげるかのようだった。
しかし、その断片的な理解と、父親らしき男の温情は、皮肉にも彼女を更なる混乱の渦と、底知れない絶望の淵へと突き落とすことになった。理解すればするほど、自分の知る現実とのあまりの乖離が鮮明になり、足元が崩れ落ちるような、めまいにも似た感覚に襲われる。
(族長の娘…? 雪華…ですって…? 私が…凛じゃなくて…? そんな…そんなこと、ありえない…絶対にありえないわ…! なら、大地は…? 私の大切な大地はどこなの…!? 大地は無事なの!? ねぇ、誰か教えて! お願いだから、誰か!)
心の内で、魂からの叫びがこだまする。
必死に大地の名を叫ぼうとしても、喉からは意味をなさない、かすれた息のような音しか出てこない。声帯が凍り付いたように、あるいは意思の疎通を拒むように、言葉にならない。叫びたいのに叫べない、この上ない焦燥感が胸を締め付ける。
高熱に浮かされた身体は、まるで借り物の器のように意思を受け付けず、指一本ですら思うように動かせなかった。熱い靄の中に閉じ込められたように、身体の輪郭さえ曖昧に感じる。
見慣れない、獣の匂いと人いきれの混じった空気が充満する薄暗い天幕の中、雪華――いや、凛は、言いようのない孤独と、未知への恐怖、そして何よりも大切な、自分の半身ともいえる幼馴染を失ったかもしれないという、魂を内側から鋭い刃物で抉り取られるような激しい絶望に襲われた。言葉の通じない異形の者たちに囲まれ、たった一人でこの未知の世界に放り出されたような、絶対的な孤独感。
ただただ熱い涙が、次から次へととめどなく頬を伝い、荒々しい毛皮の寝具に吸い込まれていく。声を殺し、嗚咽を噛み殺し、身を震わせながら泣くことしか、今の彼女にはできなかった。毛皮の硬くごわごわした感触だけが、この悪夢のような現実を生々しく伝えてくる。
自分が今、何者で、ここが一体どこで、そして何故、あれほどまでに大切な、片時も離れたことのなかった幼馴染の姿がどこにも見当たらないのか。その問いに対する答えは、今の彼女には到底見つけられそうになかった。思考はまとまらず、ただただ暗い感情の渦に飲み込まれていく。
ただ、最後に聞いた大地の、あの太陽のように明るく、どこまでも力強い声。
「二人でそんな世界を作れたら、最高だよね! 凛となら、きっとできる!」
その言葉だけが、この悪夢のような現実の中で唯一輝く、遠い、遠い星のように、しかし同時に、あまりにも微かで、今にも消え入りそうな脆い希望の欠片として、熱に浮かされた彼女の脳内で、繰り返し、繰り返し、木霊し続けていた。
暗闇の中で唯一灯る蝋燭の炎のように、その言葉だけが、砕け散りそうになる彼女の心を繋ぎとめる、最後の、そして唯一の糸だった。
あまりにも遠く、あまりにもか細い光。それでも、それに縋るしかないのだと、凛は涙の中でぼんやりと思っていた。