第18話:初陣、雪原に雪狼吼え、氷の戦術冴える
第18話:初陣、雪原に雪狼吼え、氷の戦術冴える
地平線の彼方、凍てついた大地と鉛色の空の境界線が、まるで黒い墨を滲ませたかのように揺らめき始めた。やがてそれは、無数の黒点の集合体となり、急速にこちらへ向かってくる。
黒牙族の、雪原の民とは思えぬほど統制の取れた騎馬隊が、まるで大地を覆い尽くすかのような巨大な黒い津波となって、雪煙を天高く、地平線の彼方まで巻き上げながら、雪華たちの、今や静まり返った集落へと、怒涛の、そして一切の慈悲を感じさせない勢いで迫ってきた。その数は、雪華が率いる雪狼兵の実働可能な兵力の、ゆうに数倍にも及び、その密集した隊列から放たれる、言葉にならない威圧感は凄まじく、数千の蹄が大地を叩き、揺るがす重低音の響きは、聞く者の心臓を直接掴み、恐怖で凍てつかせるかのようだった。空気がビリビリと震え、遠雷のようにも聞こえるその音は、死の足音そのものだった。
集落に残った部族の民の多くは、その圧倒的な敵の威容を遠望し、恐怖に全身を震わせ、顔面を蒼白にさせていた。雪華が事前に指示した、集落の最も奥深くにある、天然の洞窟群や、雪と氷で幾重にも補強された、最も頑丈な天幕の奥で、彼らは、まるで嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように身を寄せ合い、息を殺し、ただひたすらに、震える手で祖霊の像を握りしめ、意味をなさない神への祈りを繰り返していた。子供たちのすすり泣く声だけが、その息詰まるような静寂の中で、か細く、そして痛々しく響いていた。
雪華は、集落の入り口、両側を切り立った氷壁に挟まれた、狭く、そして足場の悪い険しい谷間に、彼女の魂そのものである雪狼兵を、まるで熟練の狩人が獲物を待ち構えるかのように、巧みに、そして冷静に布陣させた。そこは、氷月が、数日間にわたり、寝る間も惜しんで地形を詳細に調査し、風向きや雪の状態まで考慮に入れ、敵の動きをあらゆる角度から予測し、そして雪華と議論を重ねて練り上げた策に基づき、敵の騎馬隊の最大の武器である、その圧倒的な機動力と突進力を最大限に削ぎ、その数を活かした包囲戦術を不可能にするように、計算され尽くした、まさに天然の要害とも言える地形だった。谷の両側の高台には、雪で巧妙に偽装された弓兵が、息を潜めて配置されていた。一筋の風さえもが、この谷間では雪華たちの味方をするかのように、敵の進軍を阻むように吹き付けていた。
雪狼兵たちは、その多くがまだ十代後半から二十代前半の若者であり、その顔には、初陣を前にした極度の、そして隠しようのない緊張した面持ちが浮かんでいた。しかし、彼らの瞳の奥には、雪華の、いかなる状況下でも揺らぐことのない冷静沈着な指揮を、絶対的なものとして信じ、そして彼女と共に死ぬことさえも厭わないという、熱い決意の光が宿っていた。
彼らは、雪華が改良を指示した、陽光を鈍く反射する鉄製の長い槍を、まるで一本の巨大な針鼠のように、隙間なく前方に突き出し、分厚い獣皮と鉄板で補強された頑丈な盾を、隣の仲間と肩を寄せ合うようにして隙間なく構え、整然と、そしてまるで大地に根を張った古木のように、不動の密集隊列を組んでいた。彼らは、この数ヶ月間の地獄のような訓練で叩き込まれた、規律と連携の重要性を、今こそ示す時だと理解していた。
彼らの目には、もはや先の見えない恐怖の色はなく、自分たちが、この数ヶ月間の地獄のような訓練で培ってきた力を、今こそ試す時が来たのだという、どこか昂揚した、そして誇らしげな光と、何よりも、敬愛し、そして心から崇拝する雪華への、揺るぎない、そして絶対的な信頼の光が、静かに、しかし力強く燃えていた。彼らは、雪華のためならば、この命、喜んで捧げようと、固く誓っていた。
「怯むな! 我々は雪原の狼だ! 我々の牙は鋼よりも鋭く、我々の爪は氷よりも冷徹! 我々の結束は、この極寒の大地の岩盤よりも固い! 群れとなりて、押し寄せる敵の喉笛を喰い破れ! 雪狼の、誇り高き魂を、今こそ奴らに見せつけよ! 私が必ず、お前たちを生きて故郷に帰す!」
雪華の、まるで研ぎ澄まされた剣のような檄が、戦場に飛んだ。その声は、冬の、全てを凍てつかせるかのような空気を切り裂くように鋭く、そして澄み渡り、兵士たちの、緊張で張り詰めた心に、まるで燃え盛る炎のような、熱い勇気を、力強く、そして確実に灯した。最後の一言は、彼女の心の底からの願いであり、兵士たちの心を強く打った。
兵士たちは、その声に応えるかのように、一斉に雄叫びを上げた。その声は、雪原にこだまし、敵の馬蹄の音にも劣らないほどの力強さを持っていた。「ウォォォォォッ!」
ついに、黒牙族の騎馬隊が、獣のような、あるいは悪鬼のような、耳をつんざく鬨の声を上げ、まるで山が崩れ落ちるかのような、凄まじい勢いで雪狼兵の陣形へと突撃してきた。先頭の騎兵たちは、血に飢えた獣のような形相で、手に持った槍や剣を振りかざし、雪華たちの陣形を、まるで紙切れのように蹂躙しようとしていた。
雪狼兵は、しかし、雪華の、寸分の狂いもない的確な指示――それは、訓練で何度も反復した、笛の音と手信号によるものだった――に従い、密集した槍衾を、まるで鉄の壁のように形成し、その、大地を揺るがすほどの圧倒的な突撃力を、真正面から、一歩たりとも退くことなく、微動だにせずに受け止める。
激しい、金属と金属がぶつかり合う甲高い衝突音。馬が苦痛に嘶く、甲高い、そして耳障りな悲鳴。男たちの、怒りに満ちた怒号と、断末魔の、短い、しかし生々しい叫び。それらが、一斉に雪原に響き渡り、血で血を洗う、凄惨極まりない戦いの火蓋が、ついに切って落とされた。雪が、瞬く間に赤黒く染まっていく。
雪狼兵は、個々の戦闘経験や、純粋な腕力においては、戦場を駆け巡り、殺戮に慣れた百戦錬磨の黒牙族兵に、まだ劣るかもしれない。しかし、彼らには、雪華が徹底的に叩き込んだ、鉄の規律と、日々の、想像を絶するほど過酷な訓練によって培われた、寸分の狂いもない、まるで一つの生命体であるかのような精密な連携があった。
最前列の兵士が、冷静に、そして的確に、突撃してくる敵の馬の脚を、その長い槍で巧みに狙い、動きを止め、あるいは転倒させる。彼らは、馬の急所を狙うのではなく、脚を狙うことで騎兵の機動力を奪うという、雪華の教えを忠実に守っていた。
すぐ後ろの兵士が、倒れた敵兵に素早く止めを刺し、同時に、傷ついた仲間を、その頑丈な盾で庇い、後方へと退避させる。後方には、氷月の指示で臨時の救護所が設けられ、軽傷者はそこで応急処置を受けていた。
そして、雪華の合図と共に、谷の両側の、雪で滑りやすくなった高所に巧みに配置された弓兵たちが、冷静に、そして寸分の狂いもなく、敵の、鎧を身に着けていない指揮官らしき人物や、馬上で槍を振り回す敵兵の、わずかな鎧の隙間や顔面を、正確に射抜いていく。彼らが使うのは、雪華が改良した、貫通力の高い矢じりだった。
放たれた矢の雨は、まるで黒い死の使いのように空を切り、正確に、そして無慈悲に敵兵の鎧の隙間を貫き、次々と敵兵を馬から引きずり下ろしていった。黒牙族の騎馬隊は、その密集した隊形が仇となり、狭い谷間で身動きが取りにくくなったところに、予期せぬ方向からの矢の攻撃を受け、混乱に陥った。
雪華は、まるで盤上の駒を動かす名人のように、戦況全体を、その高台から冷静に、そして鳥瞰的に見渡し、的確な、そして時に大胆な指示を、身振りや伝令を通じて、各部隊に、間断なく送り続ける。彼女の脳裏には、前世で熱中した戦略シミュレーションゲームの盤面が浮かんでいたのかもしれない。その姿は、若き指導者というよりも、既に百戦錬磨の将軍のような風格さえ漂わせていた。
氷月もまた、雪華の傍らで、その怜悧な瞳を絶えず戦場全体に配り、敵の動きの僅かな変化、風向きや日差しの角度といった天候の変動、そして味方の兵士たちの消耗具合や士気の高低などを、決して見逃すことなく、的確な情報として雪華に伝え、彼女の、時に直感的とも思える判断を、論理的な分析と冷静な助言で力強く支えた。「雪華様、敵の右翼に乱れが見られます。あそこを集中して叩けば、あるいは…」二人の間には、もはや多くの言葉は必要なかった。視線と、わずかな呼吸だけで、互いの意図を正確に理解し合えていた。
雪華は、戦況が膠着し、味方の士気がわずかに下がりかけた瞬間を見計らい、時に自ら、傍らの兵士から弓を受け取り、その華奢な身体からは想像もつかないほどの力で弓を引き絞り、驚異的な、そして神業とも言える精度で、敵の、ひときわ派手な装飾を身に着けた指揮官クラスの人物や、味方を苦しめている手練れの戦士を、次々と射倒し、雪狼兵の士気を、まるで乾いた薪に火を放つように、再び高めた。その、銀色の髪を雪風になびかせ、凛として弓を構える姿は、まさに雪原に舞い降りた、美しくも勇壮な戦女神のようであり、兵士たちは、その神々しいまでの姿に、新たな勇気と力を得た。「雪華様が、我々と共にある!」その思いが、彼らを奮い立たせた。
雪狼兵の、初めての、そしてあまりにも過酷な戦いは、まだ始まったばかりだったが、彼らは、自分たちの指導者の下、必ずや勝利を掴み取ることができると、固く信じていた。
雪原に響き渡る雪狼の咆哮は、新たな時代の始まりを告げる、力強い産声でもあった。