第10話:北と南、遥かなる空の下で
第10話:北と南、遥かなる空の下で
雪華は、病床に伏す父である族長の、苦渋に満ちた、そして最後の望みを託すかのような許しを得て、ようやく試みることができた、部族の古い慣習に挑むかのような新しい試み――それは、彼女が「祖霊の導き」として提案した、より効率的な狩猟方法や、改良された武具の導入だった。それらが驚くべき、そして決定的な成果を上げ、かろうじてではあったが、部族を厳しい状況から救い出すことができた。しかし、その輝かしい成果にも関わらず、部族内に深く根を張る、長年染み付いた古い慣習や祖霊の教えに頑なに固執する保守的な長老たちを中心とした勢力からの風当たりは、依然として氷のように冷たく、そして厳しかった。彼女が目指す、部族全体の意識を変革し、より合理的で持続可能な生活様式を確立するという本格的な改革には、まだ分厚く、そして高くそびえ立つ壁が、幾重にも立ちはだかっているかのようだった。
彼女は、この骨の髄まで凍てつくような、どこまでも白い雪と氷に閉ざされた北方の荒涼とした地で、若き、そして経験の浅い指導者としての確固たる地位を確立し、部族の心を一つに束ね、未来へと導くための求心力を高めるため、まず内政の安定――それは、限られた資源の公平な分配、内部の不平不満の解消、そして何よりも冬を越すための食糧と燃料の確保――と、毎年のように襲い来る厳しい自然の猛威、そしていつまた繰り返されるやもしれぬ、より大きな困難に備えた確かな力の蓄積に、日々苦心し、その類まれな知恵と、前世で培った知識の断片――天文部の部室で読んだ歴史書や、文化祭の準備で調べた古代文明の統治術の記憶――を、必死に絞り出していた。
彼女の、吸い込まれるように深く、そして美しい、しかし今は心労と睡眠不足からか、少し疲れた色の見える瞳の奥には常に、大地の、あの屈託のない、まるで真夏の太陽そのもののような温かい面影と、彼との再会への、心の奥深くで静かに、しかし決して消えることなく燃える続ける炎のような、そして時には、胸が張り裂けんばかりに締め付けるほどの切ない渇望が、息を潜めるようにして、しかし確かに息づいていた。その想いが、彼女を突き動かす力の源泉の一つであった。
夜ごと、獣の毛皮を重ねて作られた粗末な天幕の、わずかな隙間から見上げる、この異郷の夜空。そこには、遠い、遠い故郷の日本の空とは星々の配置こそ異なるものの、しかし同じように凛として、そしてどこまでも冷たく澄み切った大気の中で、鋭く輝く北斗七星の、どこか寂しげで、しかし道を示すかのように力強い輝きがあった。彼女は、その星々を見上げながら、その遥か彼方、想像もつかないほど遠い場所にいるかもしれない大地に想いを馳せ、ただひたすらに、彼の無事と、そしていつか再び巡り会える奇跡を、毎晩のように祈り続ける日々だった。
彼女は、数少ない、命懸けでこの極北の危険な地まで交易にやって来る商人たちが、酒の席などで時折もたらす、遠い中原の地で巻き起こっているという、血生臭い戦乱の噂や、さらに南方の、地図にも載らない、熱帯の緑に覆われた未知の島々の話に、万に一つの、いや、億に一つの、途方もなく小さな可能性を信じて、微かな、しかし希望を繋ぐための手がかりを、必死に、そして切実に探し求めていた。
ある時、南から来たという珍しい毛皮を扱う商人が、「南海の果てには、太陽のように明るい髪を持ち、動物たちと心を通わせる不思議な力を持つ若き王が、争いを好まず、豊かな国を築いている」という、まるで夢物語のような話をしていたのを小耳に挟んだ。雪華は、その「太陽」という言葉に心臓が跳ね上がるのを感じたが、あまりに荒唐無稽な噂だと自分に言い聞かせ、しかし心のどこかで、その商人の言葉を忘れられずにいた。
(大地……あなたは今、どこで、どんな空の下で、何を考え、何をしているの……? 私の声は、この胸を焦がすほどの想いは、風に乗って、星を伝って、あなたのもとに届いている……? どうか、どうか無事でいて……そして、いつか、必ず……)
その声にならない問いと願いは、いつも答えのないまま、凍てつく夜空の闇へと、静かに吸い込まれていった。
一方、遥か南の島で暮らす太陽もまた、先の、まさに絶体絶命の危機であった隣接部族との激しい戦いにおいて、まるで天が彼に味方したかのような、誰もが信じられないほどの奇跡的な勝利によって部族を救ったことにより、その人望は、もはや天をも動かし、自然さえも従わせる力を持つとまで言われるほどに高まり、部族民からの絶対的な、そして揺るぎない信頼を勝ち得ていた。
彼は、これまで互いに疑心暗鬼となり、小さな争いを繰り返してきた周辺の、力に訴えることしか知らず、常に生存の危機に晒されている弱小な部族との間に、武力による一方的な支配や、恐怖による威圧ではなく、粘り強い対話と、互いの文化や歴史、そして立場を心から尊重し合う相互理解による、真に平和的で、持続可能な友好関係を築こうと、精力的に、そして何よりも誠実に努力を始めていた。彼が心に描く、全ての民が、民族や肌の色、そして生まれ育った出自の違いを超えて、大きな家族のように手を取り合い、共に汗を流し、共に繁栄し、誰もが心からの屈託のない笑顔で安心して暮らせる、壮大で、そして光り輝く理想に満ちた国家像は、まだほんの小さな、生まれたばかりの、頼りない萌芽の段階ではあった。しかし、彼の言葉には、聞く者の心を動かす不思議な力があり、その太陽のように温かく、どこまでも澄んだ人柄と、どんな困難にも決して諦めない真摯な態度は、少しずつではあるが、最初は警戒心を隠そうとしなかった他の部族の長老たちの、長年の経験で凝り固まった心をも、春の陽光が雪を溶かすように、ゆっくりと、しかし確実に溶かし始めていた。
彼の途方もない、そして誰もが不可能だと嘲笑うような夢の実現は、決して容易ではないと、彼自身も痛いほど理解していた。それでも、彼の周りには、その崇高な理想に心からの共感を覚え、自らの危険を顧みずに力を貸そうとする者たちが、一人、また一人と、まるで光に吸い寄せられる虫のように、自然と集まり始めていた。
しかし、そんな太陽の心の中にも、常に凛の、あの凛とした、それでいて誰よりも優しく、そして全てを見透かすような澄んだ瞳を持つ彼女の笑顔が、どれだけ多くの季節が流れ、どれだけ多くの出来事が起ころうとも、まるで昨日のことのように、色褪せることなく鮮やかに息づいていた。それは、彼の心の奥底にある、最も柔らかく、そして最も大切な場所だった。
夜空に、まるで宝石を散りばめたかのように燦然と輝く南十字星の、どこか故郷の日本の星々とは異なる、しかし同じように心を慰め、孤独を癒し、そして明日への勇気を与えてくれる美しい輝きを見上げ、彼女の無事を、ただひたすらに、心を込めて祈り、いつか必ず、どんな想像を絶する困難が待ち受けていようとも、必ずや再会できる日が来ると、固く、固く信じて疑わなかった。
時折、遠く北からやってくるという渡りの鳥の群れを見るたびに、彼はその鳥たちが凛のいる地にまで届くのではないかと考え、彼女への想いを託すように、その姿が見えなくなるまで見送ることがあった。また、交易で手に入れたという、北方の部族が使うという粗末な作りの、しかし鋭い石の矢じりなどを見ると、凛がそんな厳しい環境で生きているのではないかと胸を痛め、彼女の身を案じずにはいられなかった。
彼は、いつも胸に下げている、凛とのたった一つの、そしてかけがえのない大切な思い出の詰まった、あの古びた小さな白い貝殻のペンダントを、まるで彼女の温もりを、その小さな手の感触を感じるかのように、お守りのように強く、強く握りしめ、いつか必ず再会し、今度こそ彼女を全力で支え、彼女の涙を拭い、そして共にあの日の、二人で見た儚くも美しい夢を追いかけるという、心の底からの熱い、そして決して揺らぐことのない誓いを、毎夜のように新たにした。
(凛、待っていてくれ。必ず、必ず君を見つけ出す。この広い世界のどこにいようとも、僕の心はいつも、いつも君と共にある。そして、もう二度と君の手を離さない。この命に代えても)
北と南、灼熱の太陽が照りつける南海の島と、極寒の風雪が吹き荒れる極北の大地。地理的には遥か遠く、想像もつかないほど隔たれた二人だった。しかし、彼らの心は、同じ一つの、どこまでも果てしなく広がる大きな空の下で、結びつきが確かに存在していた。魂の奥深くでの共鳴は、時に鮮明な夢の中で、あるいはふとした瞬間に感じる、説明のつかない胸の高鳴りや切なさとして、互いの存在を、言葉なくとも微かに、しかし確かに感じさせていたのかもしれない。
その頃、大陸の中央部、中原と呼ばれる広大な、そして豊かな大地では、長きにわたり、絶対的な権威として君臨してきた旧王朝の力は完全に地に落ち、その威光はもはや見る影もなかった。各地で、己の力を頼みとする群雄が、まるで雨後の筍のように次々と名乗りを上げ、それぞれの領地を広げ、戦乱の嵐が、日増しに、そして容赦なく激しさを増していた。名だたる武将たちが、それぞれの胸に秘めた野望と、信じる大義、そして決して誰にも譲ることのできない理想を、血染めの旗印に掲げ、天下の覇権を競い合うであろう、血で血を洗う、先の見えない激動の時代が、まさにその重い幕を開けようとしていた。それは、古い、淀んだ秩序が力ずくで破壊され、新たな、まだ見ぬ秩序が生まれるための、避けられない、そして壮大な産みの苦しみでもあった。
この情報は、雪華の元へは北方の交易商人を通じて、太陽の元へは南海を訪れる大陸の船乗りを通じて、断片的にではあるが、それぞれの形で伝えられていた。そして二人とも、この中原の動乱が、自分たちの運命、そして再会の可能性に、何らかの形で関わってくることを、漠然とではあるが予感していた。
雪華と太陽が、それぞれの過酷な、そして数奇な運命の糸に手繰り寄せられるようにして導かれ、この広大な、そして戦火に包まれようとしている中原という、巨大な歴史の舞台の上で、誰も予想だにしなかった、劇的な、そして世界の歴史そのものを、根底から大きく揺るがすほどの邂逅を果たす日は、まだほんの少しだけ、未来の、深い霧の中に隠されていた。