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第1話 星空の夜、運命の転換

第1話:星空の夜、運命の転換

茜色の光が、古い校舎の窓ガラスをゆっくりと、そしてどこか物悲しく染め上げていた。それは、一日の終わりを告げる太陽の最後の挨拶のようだった。また、これから訪れる夜の神秘を予感させた。放課後の生徒たちの賑やかな声や、運動部の掛け声といった喧騒は、もう遠くに去り、今は聞こえない。天文部の部室は、まるで世界から切り離されたかのように、特別な静けさに満ちていた。

埃っぽさと古い木の匂いが微かに漂うその空間には、使い込まれた望遠鏡や、壁一面に貼られた星座図、そして天井から吊るされた惑星の模型などが、静かにその存在を主張している。書棚には専門的な天文書に混じって、顧問の趣味なのか、あるいは歴代の部員が置いていったのか、古びた歴史書や難解な哲学書、果てはサバイバル術や戦術論の本までが無造作に並んでいた。凛も大地も、観測の合間や雨の日には、それらの本を手に取ることが少なくなかった。

窓際には、高校生の凛と大地の二つの影が、夕焼けの最後の名残を惜しむように、寄り添うように並んでいた。

文化祭の準備――今年のテーマは「遥かなる異星の神話」――に追われる日々は、図らずも彼らに、こうして二人きりで過ごす時間を、普段よりもずっと多く与えてくれていた。凛はテーマ設定の段階から特に熱心で、神話の背景となる古代文明の社会構造や、時に非情なまでに合理的な統治のあり方について、専門書を読み解いては大地にその面白さを語って聞かせることもあった。

床には模造紙の切れ端が散らばり、壁には宇宙を思わせる黒い布地が仮止めされている。大地は持ち前の器用さで、惑星の模型や神話の小道具作りに精を出していた。彼の手にかかれば、ありふれた素材も見事な造形物に変わる。彼はまた、星空の下でのキャンプや、自然の中で生き抜く術を紹介するドキュメンタリー番組を好んで見ており、凛が語る壮大な話を聞きながらも、心のどこかではもっと現実的な「生きる力」のようなものに憧れを抱いていた。星座早見盤や、神話に関する分厚く難解そうな資料、使いかけの絵の具チューブなどが散らかった長机の上が、彼らの真剣な、そして少しばかりの苦労と奮闘を静かに物語っていた。

どこか甘酸っぱく、それでいて心地よい沈黙。お互いの呼吸の音すら聞こえそうな、そんな穏やかな静寂。

それを破るのは、いつも少しだけ積極的で、好奇心旺盛な凛の方だった。

ふわりと窓の外、茜から藍へと移り変わる空に視線を移し、彼女は吐息のような小さな声で、しかし確かな期待を込めて呟いた。

「……綺麗ね、星が。今日は一段と輝いて見えるわ。なんだか、いつもより空気が澄んでいる気がしない?」

その声は、静寂に慣れた部室の空気を優しく震わせた。

その声に、隣で作業をしていた大地は、一瞬動きを止め、短く「うん……」と応えた。

文化祭の出し物で使う予定の、宇宙を模した黒い模造紙から顔を上げ、彼もまた、凛の視線を追うように窓の外へと目を向けた。言葉を探すように、その実直な視線は、宵の明星の淡く儚い光から、ゆっくりと凛の横顔へと移る。

夕闇に溶け込むような、彼女の静かな佇まい。長く艶やかな黒髪が、窓から差し込む最後の光を浴びて、微かにきらめいている。その美しい姿に、彼の胸は小さく、しかし確かに、トクンと脈打った。

幼い頃からずっと変わらない、淡く切ない、けれど温かい想い。それを言葉にして伝える勇気は、まだ彼にはなかった。ただ、この穏やかで、かけがえのない時間が、少しでも長く、ほんの少しでも長く続けばいいと、心の奥底で密かに願うばかりだった。

凛は、そんな大地の少し不器用で、朴訥とした優しさを、いつものように微笑ましく感じていた。彼が自分に向けてくれる、言葉にはならないけれど確かに感じる温かい眼差しを、心地よく受け止めていた。けれど同時に、この穏やかな、友達以上恋人未満のような、曖昧で心地よい関係が、自分の言葉一つ、あるいは彼の言葉一つで、硝子細工のように脆く変わってしまうことへの、ほんの少しの怖れも、心の隅に抱いていた。だから、彼女もまた、その境界線の先へ踏み出すための言葉を、慎重に、そして無意識に選びあぐねていた。

ふと、窓の外、藍色に深まり始めた夜空を、一際明るい光の筋が、まるで天を引き裂くように音もなく走り抜けた。それは、天が何かを告げるように、鮮やかな光の軌跡を描き、夜空を瞬時に切り裂いた。

流れ星が消えた後も、窓の外の星々が、まるで意思を持ったように異常なほど激しく瞬き始めた。部室の空気が奇妙な緊張感を帯び、肌をピリピリと刺すような静電気が満ちてくる。不快な金属臭さえ漂い始めた。

「あっ、流れ星!」

大地の声が、珍しく弾んでいた。いつもは少し低く落ち着いた彼の声が、まるで幼い子供のような無邪気な響きを帯びる。その声には、純粋な驚きと喜びが満ちていた。

「本当だ……綺麗……」

凛も思わず息をのむ。星々の瞬きが、今夜は一層強く、そして不思議なほど近く感じられる。まるで、手を伸ばせれば触れられそうな場所で、無数の星々が囁きかけてくるかのようだ。

微かな耳鳴りに似た、高周波のような不思議な感覚が、二人をふわりと包み込んだ。周囲の音が遠のき、世界から自分たちだけが取り残されたような、奇妙な浮遊感。それは、決して不快なものではなく、むしろどこか心地よい、夢の中にいるような感覚だった。

「何かお願い事、しないと!」

大地は慌てて、ぎゅっと目を閉じ、両手を胸の前で固く、祈るように握りしめる。その真剣な横顔に、凛の口元が自然と緩んだ。彼らしい純粋で真面目な仕草に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。

(何を願っているのかな……)

そんなことを思いながら、凛もそっと目を閉じた。

しばしの静寂の後、ゆっくりと目を開けた大地が、少し照れたように頬を掻き、そして期待を込めた真摯な眼差しで凛に尋ねた。

「……凛は、何を願ったの?」

その声は、まだ少し興奮の余韻を残していた。

「そうね……」

凛は、再び夜空の彼方に視線を戻し、言葉を選ぶようにゆっくりと、そしてどこか遠くを見つめるように、夢見るような声で紡いだ。

「もし別の世界があるなら、みんなが心から笑って、穏やかに暮らせる優しい世界がいいな。そして…もし私たちにそこで何かできることがあるのならって…そんなことを願ったの」

それは、普段の冷静で論理的な凛からは少し意外な、どこか感傷的で、ロマンチックな響きを帯びた願いだった。文化祭のテーマである「遥かなる異星の神話」のために読み解いた、様々な文明の興亡や、理想を掲げた為政者たちの苦悩に、知らず知らずのうちに心が影響されていたのかもしれない。あるいは、心の奥底にずっと秘めていた、純粋な理想だったのかもしれない。

大地は、その凛の言葉に一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに力強く、そして深く頷いた。彼の大きな瞳は、真摯な共感の色をたたえ、キラキラと輝いていた。

「それ、すごくいい! 僕も、そう思うよ! もし……もし、僕たち二人で、そんな世界を作れたら、最高だよね! 凛となら、きっとできる! 絶対に!」

大地の言葉は、一点の曇りもなく、確信に満ちていた。彼にとって、凛はそれほどまでに信頼できる、かけがえのない存在だったのだ。

その言葉が、まるで夜空に響き渡り、星々に届いたかのように、突如として周囲の空気が重く、そして粘性を帯びたように歪んだ。ビリビリとした静電気のようなものが肌を刺し、焦げ付くような異臭が鼻をつく。

窓の外の星々が、まるで意思を持ったように激しく、禍々しく渦を巻き始め、形容しがたいほどの眩い、目が眩むような純白の光が、部室全体を、そして二人を包み込む。

立っていることもままならないほどの強烈な衝撃と、まるで魂が身体から引き剥がされるような、抗えぬ強大な浮遊感。世界が反転するような、激しいめまい。

「……大地っ!」

「凛っ……!」

悲鳴にも似た互いの名を呼ぶ声も、その圧倒的な光の奔流と、鼓膜を破らんばかりの衝撃音の中に、無残にも掻き消されていく。伸ばした手は、空しく宙を掻いた。

そして、凛と大地の意識は、深い深い、底なしの闇の中へと、抗う術もなく、ただただ沈んでいった。

遠のく意識の片隅で、大地の「凛となら、きっとできる!」という、あの力強く、そして温かい言葉だけが、まるで壊れたレコードのように、繰り返し、繰り返し、こだましていた。

それは、暗闇の中で唯一掴める、希望の光のようでもあった。

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