第五話 新しい家族、新しい生活
エミリィとスグリは、ミラウとムルトルの家で初めての夜を迎えた。屋根を打つ雨音が静かに響き、部屋の中は暖かな灯りに包まれている。ベッドの横に置かれたすみれの花の匂いが心地いい。
「ふぁ……」
スグリが欠伸をしながら、エミリィの袖を握る。路地裏で過ごした日々の疲れが出たのか、彼女はすっかり眠たそうだった。
「スグリ、眠い?」
「うん……」
エミリィはスグリの髪を撫でながら、ミラウの方を見た。
「…スグリを寝かせたいんです、どこで休ませればいいですか?」
ミラウは少し考え込んだ後、笑顔で頷いた。
「僕の部屋を使っていいよ。僕はリビングで寝るし、ルトはあまり寝ないから、そこで休んでいいよ」
「そ、そんな、悪いです!」
「気にしないで。僕は植物の世話をするのが日課だし、夜は割と眠れてないから」
ミラウがそう言うと、ムルトルもこくんと頷いた。
「……へや……つかって」
「あ、ありがとうございます!」
エミリィは頭を下げ、スグリを抱きかかえるようにして立ち上がった。ミラウに案内され、奥の部屋へと向かう。ミラウの部屋は広く、壁には乾燥させた草花の束やミラウと水色の髪をした女性の写真が吊るされていた。ベッドの上にはふかふかの毛布が広げられており、部屋の中はほのかに甘い草の香りが漂っている。
「ここなら、ゆっくり休めるよ」
エミリィはスグリを優しく寝かせると、毛布をかけた。スグリはぬくもりに包まれると、安心したように目を閉じる。
「エミ姉……おやすみ……」
「おやすみ、スグリ」
スグリが寝息を立て始めたのを確認し、エミリィはそっと部屋を出た。リビングに戻ると、ミラウが温かいハーブティーを用意して待っていた。
「どうぞ。疲れたでしょ?」
「……ありがとうございます」
エミリィは両手でカップを包み込むように持ち、一口すする。ハーブの優しい香りが鼻をくすぐり、体の芯から温まるような気がした。
「……おいしい」
「良かった。体を冷やすと風邪をひくからね」
ミラウは優しく微笑みながら、ソファに座るように促した。エミリィは少し緊張しながらも、椅子に腰を下ろす。
「ちょっと聞いてもいい?」
「はい?」
「どうして、あんなところにいたの?」
ミラウの問いに、エミリィはぎゅっとカップを握る。
「……」
「話したくないなら無理に聞かないよ。でも、君たちがあんな危ない場所にいたのが気になって」
エミリィは少し迷った後、小さく息をついた。
「……私、家を失ったんです」
「家を?」
「……唯一の家族を失って、行く場所がなくて……それで、路地裏で過ごしてました」
ミラウは悲しそうに眉を寄せた。
「……つらかったね」
「……」
エミリィは言葉に詰まった。優しい言葉をかけられることに慣れていなかった。それでも、ミラウの声が不思議と心に染み込んでいく。
「スグリちゃんとは、どうやって出会ったの?」
ミラウは微笑みながら、スグリの居る寝室へ視線を移す。エミリィもそれに気付き、寝室の方を見た。
「……路地裏に捨てられていました」
「……捨てられて?」
エミリィはぎゅっと拳を握りしめる。
「分からないんです……ただ、そこに捨てられていて……動けなくなるほど……酷く怯えていて……だから、私は彼女を助けようと思いました」
ミラウは静かに頷いた。
「君は優しいんだね」
「……そんなことないです。ただ、スグリが…かわいそうだっただけで」
エミリィは目を伏せた。ミラウは微笑みながら、そっとエミリィの頭を撫でる。
「エミリィ、君はスグリちゃんにとって、数少ない"頼れる人"になったんだよ」
「……私が?」
「うん。君がいなかったら、スグリちゃんは今もあの場所にいたかもしれない。でも、君が手を差し伸べた。それがどれほど大きなことか、スグリちゃんが一番分かってるはずだよ」
少し前までの路地裏生活を思い出す。あの時のスグリは一人きりで、私にさえ怯えきっていた。
「エミリィに、友達はいるの?」
ミラウがふと尋ねた。エミリィは少し考えてから、小さく頷く。
「……幼馴染が二人います。でも、それ以外は……」
「君が友人が少ないって言うなら、スグリちゃんはどうだい? 友人が居ない彼女にとっては君が初めての家族であり、最も大切で頼れる人なんだよ」
エミリィは驚いたようにミラウを見つめる。
「……私、スグリを守りたいです」
エミリィのその言葉に、ミラウが心底安心したように微笑んだ。
「うん。その気持ちがあれば、きっと大丈夫」
ミラウはそっとカップを傾けた。その時、ムルトルがゆっくりと近づいてきた。
「……エミ……」
「え?」
ムルトルはじっとエミリィを見つめ、そっと手を伸ばした。彼女の大きな手がエミリィの頭をぽんぽんと撫でる。
「……がんばった…ね……」
エミリィは驚いた。ムルトルの言葉はゆっくりで、ぎこちなかったが、その言葉には確かな温かさがあった。
「……ありがとう」
ムルトルはにこりと微笑む。
「……エミ、スグ……これから、いっしょ。……かぞく、ね」
その言葉に、エミリィの心がじんわりと温かくなった。
(こんなにも、優しい人たちがいるんだ……)
「……はい」
エミリィは涙をこらえながら、しっかりと頷いた。こうして、エミリィとスグリは、ミラウとムルトルの家で新しい生活を始めることになった。外では、雨が静かに降り続いていた。けれど、その音は不思議と心地よく、エミリィの心に少しずつ安らぎをもたらしていた。
(ここなら、大丈夫……)
そう思いながら、エミリィは静かに目を閉じた。
翌朝、エミリィはかすかな鳥のさえずりと、窓から差し込む柔らかな朝日に目を覚ました。しばらくぼんやりと天井を見つめていたが、隣から聞こえる静かな寝息に気づき、そっと顔を向ける。
「……スグリ」
彼女は小さく丸まって眠っていた。長い耳と白い髪がふわふわと枕に広がり、小さな胸がゆっくりと上下している。その姿があまりにも穏やかで、可愛らしくて、つい微笑んでしまった。
(ここに来て、まだ一日しか経っていないのに……なんだか随分長い時間が経った気がする)
昨日までの暮らしとはまるで違う。雨風をしのげる屋根があり、柔らかな毛布があり、優しい人たちがいる。今までの自分にとって、それは遠い夢のような存在だった。
(……もしこれが夢でも、もう少しだけ見ていたいな)
エミリィは静かにベッドから起き上がり、そっと部屋を出た。廊下を抜け、リビングに入ると、ミラウが植物の手入れをしていた。窓際には鮮やかな緑の葉を持つ鉢植えが並び、朝日に照らされて輝いている。
「おはよう、エミリィ」
ミラウが振り向き、穏やかに微笑んだ。
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「はい……とても」
エミリィは少し照れくさそうに答えた。
「良かった。ちょうど朝ごはんを作るところなんだ。よかったら手伝ってくれる?」
「……はい!」
エミリィは嬉しそうに頷いた。今まで家で料理をしたことはなかった。メイレーに手伝いを申し出ても邪魔。と突き放されるか、酷い時は叩かれたこともあった。だが、今は違う。ただの手伝いを頼まれることが、こんなにも嬉しいものなのだと初めて知った。ミラウに教えられながら、エミリィは卵を割り、パンを焼き、簡単なスープを作る。ミラウは器用に野菜を刻み、鍋の中でスープをかき混ぜながら、ふと口元に笑みを浮かべた。
「もしかして、料理するの初めて?」
「……はい」
エミリィは少し恥ずかしそうに答えた。ミラウは微笑んだ後、優しく頷いた。
「じゃあ、今日が最初の一歩だね」
エミリィは思わず目を見開いた。初めて料理をしたことを、肯定されるとは思わなかったのだ。
「最初は誰でも初心者だよ。焦らず、ゆっくり覚えていこう」
「……はい!」
エミリィは胸の奥が温かくなるのを感じながら、もう一度卵を割った。朝食ができあがるころ、ムルトルが眠そうにリビングへ入ってきた。その後ろには、目をこすりながらスグリもついてくる。
「エミ姉……」
スグリはまだ半分寝ぼけたまま、エミリィの袖を掴んだ。その仕草があまりにも可愛らしくて、エミリィはそっと彼女の頭を撫でる。
「おはよう、スグリ」
「……おはよ」
食卓には温かいスープと焼きたてのパン、ハーブティーが並べられた。ミラウがにっこりと微笑みながら、みんなの前に席を用意する。
「さ、みんなで食べよう」
「「いただきます」」
スグリはふわふわのパンをかじりながら、満足そうに目を細めた。ムルトルも黙々とスープを飲んでいる。ミラウがエミリィの方を見て、優しく笑った。
「エミリィが作ったスープ、美味しいよ」
「……!」
エミリィは驚いて、自分のスープを見つめる。確かに、味見した時は悪くなかった。でも、それを「美味しい」と言われるのはまた別の話だった。
「ありがとう……ございます」
エミリィは少し恥ずかしそうにしながらも、静かに微笑んだ。こうして、彼女たちの新しい日常が始まった。穏やかな時間と、小さな不安。食事を終えた後、スグリはムルトルと一緒に庭で遊んでいた。エミリィはミラウと片付けをしながら、ふと呟く。
「……こんなに穏やかでいいのかな」
「どうして?」
「なんだか、こんなに幸せで……少し怖いんです」
エミリィは自分の胸に手を当てる。今までの人生では、幸せな時間は必ずすぐに壊された。それが当たり前だった。だから、今の幸せがいつまで続くのか、不安になってしまう。ミラウは静かにエミリィの手に触れ、優しく語りかけた。
「大丈夫。ここは君の居場所だよ」
「……」
「どんなに不安でも、君がここにいていい理由は、ちゃんとあるんだから」
エミリィはゆっくりと頷いた。まだ完全に不安が消えたわけではない。でも、ミラウの言葉が心の支えになっていくのを感じた。こうして、彼女たちの新しい生活は、ゆっくりと始まっていった。