第三話 ふたりぼっち
冷たい風が吹き抜けるたびに、エミリィの小さな体が震えた。埃っぽい石畳に座り込んだまま、彼女はじっと目の前の少女を見つめる。白い髪、白い耳、そして赤い瞳。汚れた布に包まれたその小さな体は、まるで壊れそうなほどに細い。スグリ、そう名付けたばかりの少女は、慎重にパンを口に運びながら、何度も何度もエミリィの方をちらりと見た。そのたびに、警戒するように耳がぴくりと動く。
「……おいしい?」
そう問いかけると、スグリは少しだけ肩をすくめ、戸惑ったように頷いた。
「……うん」
たった一言だった。だが、その声にはどこか震えが混じっている。
(……この子は、今まで誰かに食べ物をもらったことがあるのかな)
そう思った途端、胸の奥がひどく痛んだ。スグリの小さな手が、今にも消えてしまいそうなほど弱々しく見える。
「……もっと、食べてもいいんだよ?」
そう促しても、スグリは慎重にパンを口に運び続ける。まるで、これが最後の食事かもしれないとでも思っているかのように。その様子を見ているうちに、エミリィはあることに気が付いた。
(……この子、手が震えてる)
寒さのせいだけじゃない。ずっと空腹だったから、体がまともに動かないんだ。エミリィは思わず自分の腕をさすった。自分も寒いし、お腹は空いているはずなのに、なぜかそれを感じる余裕がなかった。
「……ここには、ずっといるの?」
静かに問いかけると、スグリはピタリと動きを止めた。
「……だって、行く場所なんて、ないから」
小さな声だった。だが、その言葉の奥には、深い絶望が滲んでいた。エミリィは唇を噛んだ。
(わたしも、行く場所がない……)
レーヴェはもういない。帰るべき家もない。それどころか、母はわたしを愛してくれなかった。
「……スグリ」
そっと名前を呼ぶ。スグリはわずかに耳を動かしながら、エミリィを見た。
「わたしも、ひとりぼっちなんだ」
ぽつりと、そう呟くと、スグリの瞳がかすかに揺れた。
「だから……」
言いかけて、エミリィは少し息をつく。
「一緒にいよう?」
スグリの瞳が、驚いたように見開かれる。
「……いいの?」
「うん」
即答だった。迷いはなかった。
「スグリが、いやじゃなければ……」
スグリはじっとエミリィを見つめた。長い沈黙が落ちる。
「……エミ姉は、わたしを食べない?」
唐突な問いだった。
「食べる?」
「……獣人の子供は、売られたり……食べられたりするって、聞いた」
その言葉に、エミリィは目を見開いた。
「そんなの……しないよ」
必死に首を振る。スグリの表情は読めなかった。ただ、彼女はしばらくエミリィの瞳を見つめ、それから小さく息をついた。
「……わかった」
それだけ言うと、スグリはそっとエミリィのそばに寄ってきた。
「……ありがとう」
掠れた声で、そう呟く。エミリィは、スグリの体がそっと寄り添ってくるのを感じた。
(……小さい、あたたかい)
この世界で、はじめて触れるぬくもりだった。エミリィは、そっとスグリの頭を撫でた。最初は少し驚いたように身をこわばらせたスグリだったが、しばらくすると、そっと目を閉じる。
「エミ姉……」
くぐもった声が聞こえる。エミリィは少し笑った。
「ふたりぼっちだけど、もう寂しくないね」
スグリがこくんと頷いた。その小さな動きが、ひどく愛おしかった。ふと、耳元で風が鳴る。
エミリィははっと顔を上げる。しかし、何も聞こえない。ただ、暗がりの奥で、何かがじっとこちらを見ている気配だけがあった。
「エミ姉……?」
不安そうなスグリの声に、エミリィはゆっくりと首を横に振る。
「ううん……なんでもない」
今は、それよりも。
「スグリ、眠くない?」
「……すこし」
「じゃあ、少し休もうか」
スグリは戸惑ったようにエミリィを見た。
「でも、寒いよ」
「大丈夫、ぎゅってしてれば、あったかいよ」
そう言って、エミリィはスグリの肩を抱き寄せた。スグリは少し驚いたようだったが、やがて静かに目を閉じる。
「……おやすみ、スグリ」
「……おやすみ、エミ姉」
そうして、ふたりは寄り添うように眠りについた。夜の闇の中、どこからか笑う声が聞こえた気がした。
___
エミリィは微睡みの中で、かすかな気配を感じた。眠りの境界が揺らぎ、背筋をかすめるような冷たい視線が闇の奥から届く。
「……っ」
ふと目を開けると、そこは黒い霧が渦巻く不気味な空間だった。地面もなく、ただ暗闇が広がっている。隣で眠っていたはずのスグリの姿はない。
(スグリ……?)
名前を呼ぼうとしたが、声にならなかった。そのとき、闇の奥から低く囁くような声が聞こえた。
「お前は、弱い」
ぞくりとする。背筋を冷たい刃でなぞられたような感覚だった。
「守る力もないまま、大切なものを失う」
「……やめて」
エミリィは苦しげに呟いた。
「レーヴェも、お前は守れなかった」
その言葉に、エミリィの胸がぎゅっと締めつけられる。レーヴェの姿が脳裏に浮かぶ。優しくて、いつも自分をかばってくれた姉。だが、もう彼女はいない。
「スグリも、いずれ同じ運命を辿る」
闇の中に、ぼんやりと映し出される光景。スグリがひとり、冷たい路地裏で倒れている。小さな体は細く、今にも消えてしまいそうだ。
「……いや」
エミリィは首を振った。
「いや……いやだ……」
スグリが苦しむ姿なんて、見たくない。独りぼっちだった彼女を、もう二度とひとりにさせたくない。私も、1人になりたくなんかない。
「守りたいか?」
「……守りたい」
そう答えた瞬間、エミリィの胸の奥で何かが弾けた。冷たい闇が一瞬で弾け飛び、景色がぐにゃりと歪む。
___
「エミ姉!!」
スグリの声が聞こえた。はっと目を開けると、彼女が不安そうに覗き込んでいた。
「エミ姉、怖い夢見たの……?」
エミリィは荒い息を整えながら、スグリを見つめた。小さな手、細い体、赤い瞳――こんなにも儚く、弱々しいのに、彼女は生きようとしている。
「……スグリ」
「なぁに……?」
エミリィはぎゅっとスグリの手を握った。
「もう、ひとりにはしないから」
スグリの目が大きく見開かれる。
「わたしが、守るから」
自分には何の力もないかもしれない。でも、それでもいい。何があっても、スグリを守る。そう、心の底から強く思った。スグリは一瞬きょとんとしていたが、やがて小さく微笑んだ。
「……うん」
その笑顔が、エミリィの胸に温かく広がっていった。
冷たい夜が明け、ぼんやりとした灰色の空が路地裏を照らし始める。エミリィはうっすらと目を開け、隣に寄り添うスグリの体温を感じた。彼女はまだ眠っている。小さな体を丸め、かすかに震えながらエミリィにしがみつくようにしている。
(……寒いのかな)
エミリィはそっとスグリの肩を抱き直した。自分の体も冷えているはずなのに、それよりもスグリのことが気になった。昨夜の夢の余韻がまだ残っている。何者かに囁かれた言葉。胸を締めつけるような不安。
「スグリも、いずれ同じ運命を辿る」
その言葉が頭の中で何度も繰り返される。スグリが独りぼっちで倒れている光景ーー考えるだけで胸が痛んだ。
(絶対に、そんなことにはさせない)
ぎゅっとスグリの手を握る。細くて、冷たい小さな手。それなのに、一生懸命にエミリィの服を握り返してくる。まるで、この繋がりだけが彼女を支えているかのようだった。
「ん……」
スグリがかすかに身じろぎすると、ゆっくりと瞼を開いた。まだ少し眠たそうに瞬きを繰り返し、ぼんやりとエミリィを見つめる。
「……エミ姉」
小さな声が、朝の静けさの中で響いた。その声を聞くだけで、エミリィの心がじんわりと温かくなる。
「おはよう、スグリ」
「……おはよう」
スグリは目をこすりながら、少しずつ意識をはっきりさせていく。昨夜よりも少しだけ柔らかい表情になっているのがわかった。
「寒くない?」
「……ちょっと」
「じゃあ、もう少しこうしてようか」
エミリィはスグリを包み込むように抱きしめた。スグリは一瞬驚いたように肩をこわばらせたが、すぐにその中にすっぽりと収まった。
「……エミ姉、あったかい」
くぐもった声が聞こえる。エミリィはくすぐったいような気持ちになりながら、小さく笑った。
「スグリも、あったかいよ」
しばらくそうしていると、スグリがぽつりと呟いた。
「エミ姉……これから、どうするの?」
エミリィは息を呑んだ。今まで考えていなかったわけじゃない。でも、レーヴェを失い、帰る場所もなくなった今、どこへ行けばいいのかなんて、全くわからなかった。
「……わからない」
正直に答えると、スグリは少しだけ寂しそうな顔をした。
「そっか……」
「でもね」
エミリィはスグリの手をぎゅっと握った。
「スグリをひとりにはしないよ」
その言葉に、スグリの耳がぴくんと動いた。
「……ほんと?」
「うん」
迷いはなかった。スグリの細い指が、ぎゅっとエミリィの手を握り返す。
「わたしも……エミ姉と一緒がいい」
それだけの言葉なのに、どうしようもなく胸が熱くなった。
「じゃあ、一緒に行こう」
「……うん!」
スグリが小さく笑う。その笑顔が、エミリィの胸に深く刻まれる。
(わたしが、守る)
そう強く心に誓った。二人は、まだ薄暗い路地裏の中、手を繋いで立ち上がった。これから先、どこへ行くのかはわからない。でも、二人なら、きっと大丈夫。
エミリィは夜の終わりを感じながら、初めて少しだけ前を向いた。