第二話 白い影
冷たい風が吹き抜ける。埃っぽい石畳の感触が、エミリィの指先にじかに伝わってきた。ぼんやりとした意識の中で、彼女はゆっくりと顔を上げる。そこは見たこともない場所だった。狭く、湿った路地裏。木箱や古びた袋が無造作に積まれ、壁はひび割れている。
「……ここ、どこ……?」
呟いた声はかすれて、自分の耳にすらはっきり届かなかった。喉が渇いている。寒さのせいか、体が震えてうまく動かない。
――お姉ちゃんは?
その思いが頭をよぎった瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。姉の姿を探そうと、手をついて立ち上がろうとしたときだった。かすかな、かすかな息遣い。すぐそば、積まれた木箱の影。誰かがいる。
「……っ!」
一瞬、全身がこわばる。暗がりに目を凝らすと、そこには、小さな白い塊がうずくまっていた。
(人……?)
いや、違う。白い髪。白い耳。震える細い肩に、傷だらけの手足。汚れた布にくるまれた小さな体が、じっと動かないまま、エミリィを見ていた。
「……あなた、は……?」
恐る恐る声をかける。すると、白い少女が小さく息を呑んだ。そして、ゆっくりと身を縮めるように後ずさった。
「……こないで」
掠れた声だった。怯えた赤い瞳が、わずかにエミリィを映す。
「わ、わたし……何もしない……」
必死に言葉を紡ぐが、少女はさらに身を引く。
「だめ、近づかないで……お腹、すいてるなら……わたしじゃなくて、ほかを探して……」
その言葉に、エミリィは息を飲んだ。食べられる、と思った?思わず、自分の手を見つめる。小さな指、青白い肌。そんなこと、できるはずがない。でも、この子は、本気でそう思っている。
「……違うよ」
震える声で言った。
「わたし、そんなつもりじゃ……」
少女の赤い瞳が、じっとエミリィを見つめる。その瞳の奥には、疑いと恐れ、そして――希望の欠片すらない。まるで、最初から世界に見捨てられたような、そんな目。エミリィの胸が、きゅっと締めつけられる。
「……おなか、すいてる?」
ぽつりと、言葉がこぼれた。 少女の耳が、ぴくりと揺れる。
「……わたしなら、大丈夫」
かすれた声で、白い少女が呟いた。
「ずっと、ここにいるから。だから……放っておいて」
「そんなの……」
できない。そう思ったのに、エミリィの足は、無意識に一歩、後ずさった。
(……怖いの?)
違う。でも、自分がこの子を助けられるのか、わからなかった。お姉ちゃんすら守れなかった自分に、この子の何を救える?ふと、冷たい声が頭上から降る。
「諦めるのか?」
エミリィは息を呑んだ。影の奥、そこに誰かがいる。姿は見えない。でも、その声は確かに自分を見ていた。
「……あの子を助けたいなら、やってみれば?」
挑発するような響きだった。だが、そこには嘲りではなく、むしろ淡い期待のようなものが滲んでいる気がした。
「お前がここにいる理由があるとすれば、それしかないだろう?」
「わたしが……?」
呟いた瞬間、胸の奥がざわりと波立つ。エミリィは、もう一度、白い少女を見た。小さく震える肩。かすかに揺れる耳。このまま放っておけば、たぶん彼女は死ぬ。それが当然のように思っているのなら、なおさら。エミリィは一度、視線を落とした。
「……待ってて」
小さく呟いて、踵を返す。どこへ行くのかはわからなかった。ただ、このままここにいても、何も変えられない。路地裏を抜けると、古びた店の前に出た。窓の隙間から、まだ残るパンの切れ端が見える。
(……食べ物……!)
エミリィは躊躇いながらも、そっと手を伸ばした。指先がパンに触れた瞬間、背後で小さな物音がする。
「誰だ?」
慌てて身を縮める。
「……誰も、いない……?」
幸い、店の人間は気のせいだと思ったのか、すぐに奥へ引っ込んだ。エミリィは震える指で、そっとパンを掴み、急いで路地裏へと戻る。白い少女は、まだそこにいた。
「……これ、食べられる?」
差し出されたパンを見て、少女はわずかに目を見開いた。
「……わたしに?」
「うん」
小さな手が、そっと伸びる。少しだけためらった後、その手が震えながらパンを受け取った。
「……ありがとう」
消え入りそうな声だった。でも、確かにそれは、感謝の言葉だった。その瞬間、背後の影がわずかに揺らめいた。
「……いい選択だ」
誰かが、そう囁いた気がした。白い少女が、そっとパンを口に運ぶ。咀嚼するたびに、赤い瞳がわずかに潤んでいく。やがて、少女は震える手で口元を覆った。
「……おいしい」
涙のような声だった。エミリィは、静かに彼女を見つめる。
「ゆっくり、食べていいんだよ」
少女はこくりと頷き、小さくちぎりながらパンを食べ続けた。その様子に、エミリィは安堵しつつも、自分の手を見つめる。
(……私も、お腹すいてるはずなのに)
不思議と、それを感じなかった。ただ、目の前の少女がお腹を満たせていることに、ほっとしていた。ふと、耳元で風が鳴る。
――ふたりとも、その調子じゃすぐに動けなくなるぞ。
影の奥から、声がした。まるで呆れたような声。エミリィは、はっとして顔を上げた。だが、もう何も聞こえない。エミリィは、パンを食べ終えたばかりの少女に向き直る。
「……ねえ、名前は?」
白い少女は、エミリィを見つめた。
「……ない」
ひどく寂しげな声だった。エミリィは少し考えて、ゆっくりと口を開く。
「じゃあ、私がつけてもいい?」
少女の耳が、ぴくりと揺れる。
「……いいの?」
「うん」
静かに、考える。
(白くて、小さくて……そして赤い)
そして、ふとひとつの名前が浮かんだ。
「……スグリ」
少女の赤い瞳が、大きく揺れた。
「スグリ……?」
「うん。小さくて、でもしっかり生きてる果実の名前」
少女はそっと、自分の胸に手を当てた。
「……スグリ」
繰り返す声は、どこか嬉しそうで、どこか戸惑っていた。でも、それが自分のものになっていくのを、確かめるように呟く。スグリは、ゆっくりと目を伏せる。
「……ありがとう」
その言葉が、影の奥へと溶けていく。エミリィはふと、誰かが微笑んだ気がした。少しだけ、静寂が流れた後、エミリィは顔を上げる。
「私、エミリィ。エミリィ・レーリック」
その名前を口にした瞬間、胸がちくりと痛んだ。そうだ、これは私の名前だ。まだ、この世界で生きている証だと、感じられるような気がした。
「エミリィ……」
スグリはその名前を繰り返し、じっとエミリィを見つめた。その瞳には、まだどこか不安げな色が浮かんでいたが、少しずつその温かさが滲み出てきたように感じた。
「ありがとう、エミ姉」
その言葉を最後に、スグリは再び目を伏せた。エミリィは黙ってその小さな背を見つめ、ふたりの間に流れる、温かい時間を感じた。