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第一話 夜に誘われ夜に堕ち

静かな寝息が、闇に溶けていた。狭い部屋の隅、私たちとは違う綺麗な布団の上で、メイレーが眠っている。瓶の転がる音が小さく響いたが、彼女が目を覚ます気配はない。エミリィは息を殺したまま、震える手で姉の手を握りしめる。


「……行こう、エミ」


レーヴェの小さな声。エミリィは、強く頷いた。軋む床板の音さえも恐ろしく感じながら、そっと部屋を抜け出す。ドアが閉まる瞬間、メイレーが寝返りを打った。二人の足が一瞬止まる。


――大丈夫、起きてない。


安堵を飲み込み、二人はそっと家を後にした。冷たい夜の空気が肌を刺す。暗い道を、二人はただひたすらに走った。


「エミ、もう少しだけ頑張って!」


レーヴェの声が先を行く。エミリィは息を切らしながら、それでも姉の手を離さぬようにと懸命に走る。母が起きる前に、もっと遠くへと。


曲がり角を抜け、細い路地へと飛び込んだ瞬間、レーヴェが突如立ち止まった。


「っ……!」


目の前に広がる、車のヘッドライト。鋭いブレーキ音。その一瞬の中で、レーヴェは迷わずエミリィの手を離し、力いっぱい突き飛ばした。


「エミッ!!」


悲痛な叫びと共に、エミリィの体は地面を転がる。次の瞬間、鈍い衝撃音が響いた。


「っ……お、お姉ちゃん?」


エミリィの視界が揺れる。起き上がるのも忘れ、震える足でレーヴェの元へと駆け寄る。

そこにいたのは、割れたガラスと血だまりの中、崩れた棚の下敷きになった姉の姿だった。


「っ……!」


エミリィの喉がひきつる。レーヴェの下半身、そこには何もなかった。膝から先が、まるでちぎれたようになくなっている。飛び散る血が、ガラスの破片に絡みつき、赤く光っていた。


「おねえ……ちゃん……?」


声を絞り出し、震える手を伸ばす。レーヴェの顔は苦痛に歪みながらも、妹を安心させようと必死に微笑んでいた。


「……エミ……無事……?」


血の気の引いた唇が、かすかに動く。エミリィの喉からは、かすれた嗚咽しか漏れなかった。


「おねえちゃん……っ、おねえちゃん……!」


何度呼んでも、返ってくる声は弱々しい。エミリィは震える手でレーヴェの体に触れようとするが、触れるたびに姉の血が手に絡みついてくる。それがまるで、命の終わりを突きつけるようで、恐ろしくて、苦しくて、どうしようもなく目の前が滲む。寒い夜の空気が肌を刺しているはずなのに、体の中が燃えるように熱い。頭の中が真っ白になりそうなその時――


「助けてやろうか?」


静寂を裂くような、甘やかな声が響いた。ビクリと体を震わせる。エミリィは咄嗟に顔を上げた。でも、そこには誰もいない。店の割れたガラスの向こうも、街灯の薄明かりの下も、人影は見当たらなかった。


「……誰?」


小さな声が震える。しかし、返事はない。その代わりに、再び囁くような声が響いた。


「お前の姉を、救ってやる」


ぞくり、と背筋が粟立つ。何かが、いる。見えないのに、確かに感じる。まるで、夜そのもののような気配。エミリィの呼吸が詰まる。静寂を裂くように響いたその声は、夜気に溶けるように甘く、どこか冷たいものだった。エミリィは震える手でレーヴェの肩に触れたまま、恐る恐る声のした方を見た。しかし、そこには誰の姿もない。路地裏に伸びる長い影、割れたガラスに映る自分の青ざめた顔だけが見える。


「……誰……?」


震える声が夜の中に消えていく。


「私のことは、知らなくていい」


再び、囁くような声。その響きに、エミリィは思わず喉を詰まらせる。見えないのに、そこにいるのがわかる。影の中に潜む何者か。


「お姉ちゃんを、助けてくれるの……?」


縋るように問いかけるが、返事はない。ただ、風が静かに吹き抜ける。


「ここにいたら、お前も危ない」


突き放すような言葉だった。でも、その声の奥には、どこか優しさのようなものが滲んでいる気がした。


「お前が生きたければ、ここを離れろ。……私のところへ来い」


「……っ!」


レーヴェを置いて行くなんてできない。そう思った瞬間、エミリィの足が震えた。今、彼女にできることは何か? 何もできず、ただ震えるだけの自分に、ここで何ができる?


「……お姉ちゃんを……」


助けたい。エミリィは唇を噛み、顔を伏せた。その刹那、影の気配が微かに揺らめいた。


「行くぞ」


その一言とともに、エミリィの体がふっと宙に浮くような感覚に包まれた。強制的に足が動かされたわけではない。ただ、不思議と吸い寄せられるように、彼女の足は自然と影の方へと向かっていた。暗闇の奥へ。光の届かない、路地裏の中へ。背後で、誰かの足音が近づいてくるのを感じた。遠くから、叫び声のようなものも聞こえる。でも、エミリィの足は止まらない。導かれるままに、彼女は影の奥へと消えていった。気がつけば、エミリィは冷たい石畳の上に立っていた。細く曲がりくねった路地。行き場を失った風がうねり、腐った木箱の匂いが漂う。


「ここで過ごせ」


闇の中から声がした。


「お前が生きる場所だ」


エミリィはぼんやりと、その言葉の意味を考える。ここが、生きる場所? ここで、どうやって? でも、答えを聞くより先に、その声の気配はすっと消えてしまった。ひとり、闇の中に取り残される。


「……お姉ちゃん……」


呟いた声は、誰にも届かず、闇に溶けた。それでも、エミリィは歩き出すしかなかった。


___


遠く、夜空を見上げる月が、淡い光を落としていた。その光は、血に染まった路地裏の片隅にも、微かに降り注いでいた。そして、その場所に、新たな存在が現れる。それは冷たい月の光を纏いながら、彼は血に染まった少女の身体を見下ろす。


「……可哀想に」


その言葉とともに、月光が少女の体に降り注いだ。彼女の命を、再び燃え上がらせるために。


それが、彼の愛し子へと繋がる、2度目の祝福だった。

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