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『あらやだ、冷えると思ったら、雪が降りはじめたのね』
通話を切っても窓越しの雪景色から目を離せないでいると、どこからか軍服マントが現れた。
「………冷える?」
『あら、なあに?アタシが寒さを感じないとでも言いたいの?』
「………感じるの?」
『やだ、感じるわけないじゃない。アタシ、こう見えてゴーストよ?』
「………」
『そのクールな視線はどういう意味かしら?言っておくけどアタシ、ゴーストであると同時に、元役者でもあるの。寒くないのに寒いフリなんか、朝飯前よ』
「………じゃあ、実際には寒くはないのね?」
『当り前じゃない。ゴーストなんだから』
目と目を合わせて、私は深いため息を吐き、軍服マントはにっこりと微笑んだそのとき、
『うううう、えらいごっつ寒なってきたなあ』
『イグザクトリーです。ソーコールドですね』
いつもの二人組、袴三つ編みと烏帽子男がヌッと廊下から壁を抜けて縁側に入ってきた。
ご丁寧にも、二人とも自分の腕をさすりながら、いかにも冬の寒さを痛感してる素振りで。
「………」
『あら、あの二人も役者の素質があるみたいね』
フフフと楽し気にマントを揺らす軍服マントに、私は最早何も突っ込むまいと諦めた。
『でも今年はちょっと初雪早いんとちゃう?』
『そうですねえ……ラストイヤーはクリスマスのあとでしたでしょうか?』
『でももっと早い年もあったんじゃないかしら?』
『Oh……サウザントイヤーズ以上生きてますと、いろいろありますからね。なかったとは I can not say です』
「………生きてるって………」
『あ!馬鹿にしたらアカンで?うちらはゴーストとして立派に生きてるんやからね!』
『ザッツライト!We are alive です!』
「アア、ソウデスネ………」
『フフッ、お嬢ちゃんのその面倒くさそうなお顔、アタシ大好きよ』
ふわりと破顔した軍服マントは、まさしく完璧なイケメン俳優だった。
「それはどうも」
『やだお嬢ちゃん、照れちゃってるのかしら?』
「はいはい、もうそれでいいですよ」
「何が、それでもいいんだい?」
「――――っ?!」
彼らといつもの応酬をしていたつもりの私は、突然割って入ってきた問いかけにギクリと振り返った。
「あ……………お父さん」
仕事部屋に籠っていたはずの父が、カーディガンを羽織りながら居間を横切ってこちらにやって来るところだったのだ。
「おや、とうとう降り出したんだね」
道理で寒いはずだと思ったよと、心底寒さで震えそうに言いながら、父は居間と縁側の境目で窓越しの庭を眺めた。
父の登場に、軍服マント、烏帽子男、袴三つ編みはそそくさと壁の中に入っていった。
”私一人のとき以外は姿を見せない、話しかけない” というルールを守ってくれているのだ。
もっとも、このルールは ”私が文哉、天乃くん、南先生以外の人と一緒にいるときは姿を見せない、話しかけない” と改訂されていた。
さらに言うなら、最近は彼らのうちの誰かと出かけることもあったりして、そんなときはこのルールの適応外となっていた。
どうやら、音弥に頼まれていたらしく、私の帰りが遅くなるときなんかは決まって誰かがついて来たり迎えに来たりしていたのだ。
心配性なのは彼ら共通だった。
けれど父には彼らの姿が見えていないはずで、今の私は、雪を見ながらひとりで喋っているように見えたのだろう。
それについて下手に追及されてもややこしいので、私は話が戻らないうちに強制的に会話を進行させた。
「仕事、ひと段落ついたんだったら、お茶でも淹れようか?」
「いや、ちょっとお手洗いに行くだけだから。部屋を出たらあまりに寒くて羽織るものを取りに戻りかけたんだけど、ふとピアノの音が聞こえてないのに気付いてね。なんとなくこっちを見まわしたら芽衣がいたから、何してるのかと思って。芽衣は寒くないかい?」
「さっき窓を開けたときはさすがに寒かったけど、今は平気」
「それならいいけど、僕はちょっと寒いかな」
父は大げさに肩を震えさせて、ストーブの前に屈んだ。
ジジジジ……ボッ、と鳴ったあと、暖かい空気がゆらりと漂いはじめる。
「私、この音結構好きなんだよね」
雪景色観賞は小休止して、私は父の隣に膝をつきストーブに両手をかざした。
「僕もだよ。……ああでも、家の中で流れてるピアノの音にもいつも癒されてるよ」
いくら防音してあるといっても、家の中には幾らかは漏れるのだ。
あの日、音弥と二度目のさよならをした私は、改めて自分がピアノを好きだということを思い知った。
決して音弥に促されたせいではなく、本当にただ自分の気持ちに従って、またピアノを弾きたいと願ったのだ。
そう伝えたとき、父も母も大賛成してくれた。
母は少し涙ぐんでいたかもしれない。
文哉も大喜びしてくれて、私は家族全員の応援を受け、自分の将来を見据えることができた。
そして、自分の心と向き合った末、大学中退という選択に至ったのだった。
とは言え、それはネガティブなものではなくて。
ピアノにしっかり取り組むためには必要な選択だったのだ。
趣味の範囲でいいから弾いてほしい、音弥は私にそう言い残したけれど、私は自分自身の意志で、もっともっとピアノと関わりたいと思ったから。
だけど、自分に演奏家としての才能がないことはすでに承知しているし、目指そうとも思わなかった。
ただ、音弥が私のピアノは人を楽しませると言ってくれたから、私は、ピアノが、音楽が楽しいものなんだということを人に伝える仕事がしたいと思ったのだ。
特に、私が音弥と比べて自分には才能がないと逃げてしまったように、物事の分別がつきはじめた時期の子供たちに、上手い下手は関係なく、ピアノや音楽の素晴らしさを教えたかった。




