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ふと、スマホから着信音が鳴り出し、私は手を止めた。
「………千春?」
画面には、ちょっと久しぶりな友人の名前。
私は迷わず電話に出た。
「もしもし?千春?」
《あ、芽衣?ごめん、今平気だった?》
「うん、大丈夫」
《ピアノの練習の邪魔になってたりしない?》
「ピアノは弾いてたけど、ちょうど休憩しようと思ってたところだから」
《本当に?まあ、それならよかったんだけど》
「本当に大丈夫だよ。でも、こんな時間に電話なんて珍しいよね。この時間って、講義中じゃないの?」
《なんかね、急に休講になったの。入試がどうのって言ってたから、教室の関係じゃないかな。で、さっきまでみんなでカフェにいて、今私ひとりでバイト先に向かってるんだけど、芽衣、今外の様子って見られる?》
「え?外?」
《でもピアノ弾いてたんなら、今防音室にいるんだよね?窓はないのかな》
「窓はないけど、ちょっと待ってね、今部屋の外出るから……」
《なんかごめんね》
「全然。でも、外に何があるの?」
《見たらわかるから》
「本当に?見たらわかるって言っても………………わあ、雪だ!」
居間から縁側の窓を見やった私は、電話中であることも忘れて声をあげていた。
「……あ、ごめん、大きな声出しちゃって」
すぐに謝ると、電話越しに千春のクスクス笑いが聞こえた。
《いいよいいよ。でも、見たらすぐにわかったでしょ?ちょっと前に降り出したんだけど、初雪だな……と思ったら、なんだか芽衣に教えたくなっちゃったんだ》
「そうなんだ。ありがとう」
私はスマホを耳に当てながら、縁側の窓を開いた。
「寒っ……」
とたんに入り込んできた外気の冷たさに、思わず悲鳴がこぼれる。
すると通話の向こうからは友人の声が心配げに変わった。
《芽衣、まさか窓開けたの?ちゃんと暖かい格好してる?受験前のこの時期に風邪なんかひいたりしたら大変だよ?》
「大丈夫だって。でも心配してくれてありがとう」
私のまわりには本当に心配性が多い。
でもそれだけ、みんな優しいということだ。
私はこれ以上優しい友人を心配させないように、窓を静かに閉めた。
《そりゃ心配するわよ。だってそのために大学を中退までして頑張ってるんでしょう?試験がはじまるのは年明けだっけ?》
「うん、そうだよ」
私は千春に答えながら、ひらひら舞い落ちる雪を眺めていた。
もう、十二月。
音弥との二度目のさよならから、約半年が過ぎようとしていた。
あの日、私は夜が明けるまで涙を枯らすことはなかった。
窓のないピアノ室に朝日が差し込むことはなかったけれど、誰かがそろそろ夜明けだと言ったのをきっかけに、私はふと顔を上げたのだ。
そして次にしたことは、音弥からの最後の贈り物を探すことだった。
まっすぐに二階の音弥の部屋に行き、CDが並んでいる棚のフォトフレームの前に立った。
引っ越してきた日の夜、私が不在の音弥に代わり荷解きし、ここに飾った、家族全員が映っている写真だ。
そして音弥に言われた通り、その後ろを見やると――――――
《――――衣?芽衣ってば、聞いてる?》
ついあの日に心を飛ばしてしまっていると、スマホからは心配そうに友人が何度も呼びかけていた。
「あ………ごめんごめん、ちょっと雪に見惚れちゃってて……」
慌てる私に、千春が《しょうがないな》と笑う。
「ごめん、何て言ってたの?」
《だから、今度受験とか落ち着いたら、芽衣のピアノを聴かせてねって言ったの。私、まだ一度も聴かせてもらってないから》
「ああ、そうだね。でも、ブランクが長すぎてまだとても人に聴いてもらえるレベルじゃないと思うんだけど……」
《でも入試はピアノ演奏もあるんでしょ?》
「そりゃあるけど、それはあくまで試験だし、それに、今年は端から受かるとも思ってないし……」
《え?受験する前から諦めてるの?》
「だってもう何年もピアノに触ってないんだよ?音大や芸大受ける人なんて、子供の頃からず――――っとレッスンしてきた人達ばかりなんだから。何年かぶりに弾きはじめた人間が半年かそこらのレッスンで受かるわけないのよ」
《そういうものなの?でも、じゃあなんで受けるの?今年はパスして、来年受ければいいのに》
「そうかもしれないけど、場慣らしも必要だから。ずっと何年も弾いてなかったんだから、当然誰かの前で弾くのも久々なのよ。それで緊張するなって言うのが無理でしょ?だから慣れるためにも、」
《じゃあ、私の前で弾けばいいじゃない》
「あ………」
電話の向こうでニッとほくそ笑む友人が浮かんだ。
《芽衣は人前で弾く練習になるし、私は芽衣のピアノを聴かせてもらえて満足だし、一挙両得じゃない?》
「それは、まあ………確かに」
《じゃあ決まり。今年はもうあまり時間がないから、来年、もしまた受験するようなことになったら、そのときは私が人前で弾く練習に付き合ってあげるわね》
冗談たっぷりの上から目線の口ぶりに、私達は二人揃ってプッと吹き出した。
「そのときはぜひ試験官役をお願いします」
《任せて。………でも、なんか受かりそうな気もするけどね》
「ありがとう。お世辞でも嬉しい」
《お世辞じゃなくて………なんて言ったらいいのかな、芽衣を見てたら、本気でそう思うのよ》
「そうかな……?」
《だって芽衣、四月に出会った頃とは全然違う人みたいなんだもん》
「え?」
《夏休み前にさ、大学辞めて音大受験するって話してくれたじゃない?》
「うん」
《今だから言うと、そのとき、はじめて芽衣を知れた気がするのよね。それまでの芽衣って、どこか周りと線を引いてるみたいな感じがしてたから。私の勘違いだったらごめんね。でも、私はそう感じてたの。それが、音大受験を打ち明けてくれたあたりからちょっと変わってきたなと思って。みんなびっくりしてたけどさ、でも、芽衣がなんだか生き生きして見えたんだ。だから寂しいけど応援したいと思ったし、芽衣ならきっと上手くいくに違いないと思った》
「千春………」
《芽衣、頑張ってね!》
千春は力強くそう言うと、受験生の時間をこれ以上奪えないわねと笑って通話を切った。
私は窓の外をまだ舞い続けている雪を見つめながら、もしかしたら ”初雪” は、優しい友人の口実だったのかもしれないと思った。
大学で、いい友達に出会えた。
ピアノから遠ざかっていた時間だって、決して無意味じゃなかったんだと実感できる瞬間だった。




