8
タタタン、タンタン
タタタン、タンタン
タタタン、タン、タン、タン、タン、タンタン
お馴染みの主旋律を弾く私の手先とぎりぎりぶつからないところでは、もうさすがとしか言いようのない音弥の即興対旋律がすらすらと生まれてくる。
でもテンポは完全に私主導で、音弥は有言実行、あくまでも私に合わせる演奏だ。
ピアノを習っていなくても弾ける人が多い、ごく単純な指使いの私とは違い、音弥の指は連符やトリル、ターンにアルペッジョ、細かな音を次々に奏でていく。
2周目からはその頻度が格段に増し、高音の主旋の私を邪魔しないように強弱をつけながらも、ポイントポイントでは主役を奪われかけてしまう。
連弾は競争ではないのに、私は音弥に負けてばかりではいられないと徐々にテンポをあげていった。
自分と音弥が比べものにならないことなど、とっくにわかりきっているのに、いざ弾きはじめると微かに自尊心がよみがえってくるようだった。
けれどテンポをあげただけではまだまだ足りなくて、今度は親指と小指を目一杯広げオクターブにしてみる。
何年も鍵盤を触っていないので指が硬くなっててオクターブに届くか不安はあったけれど、いざとなると体が覚えていた。
どんどんどんどんスピードをあげる。
私は、所々オクターブが上手く弾けずに隣の音と混ざってしまうけれど、音弥は一音だって遅れずに、さらに高難度の弾き方をこれでもかと披露してきた。
まるで私に見せつけるように。
私の記憶に焼き付かせるように。
それでいて、決して必死感は伝わってこない。
平然と、表情はいつも通りのクールだ。
でも音は華やかに跳ねて、くるくる動きまわる。
かと思えば、音弥はサッと立ち上がり、左手を鍵盤に残したまま私の後ろをまわって右手を高音に持ってきたのだ。
てっきりポジションチェンジだと思ったものの、左手が高音に移動する間際、指先の仕草でポジションキープを示される。
私は主旋律を弾き続けつつも少しテンポを落とし、音弥の出方を窺った。
けれどそんな配慮は無用だと言わんばかりに音弥はまた超絶テクニックで高音を鳴らしはじめる。
それは全く別の曲をアレンジしたもので、私の主旋律と意外なほどマッチした。
「―――っ!」
びっくりして指はそのままに音弥を見ると、音弥も私を見て、フッと唇が上がった。
楽し気に、嬉しそうな音弥。
ピアノの前では一度も見たことがないような、明るい表情だ。
私は子供の頃からの記憶のアルバムをフルスピードで捲ったけれど、こんな風に楽しそうにピアノを弾く音弥は、はじめて見るかもしれない。
年齢に見合わない技術と音をいとも簡単に奏でていた弟は、音色は情感たっぷりでも、常にいたって冷静な表情だったから。
その容姿と音のギャップがファンには支持されていたようだし、さっきまでは確かにそんないつもの音弥だった。
でも今の音弥は、全然違っていたのだ。
すると、
「ああ、やっぱり姉さんのピアノは楽しいな」
しみじみと、心底そう感じている面持ちで漏らしたのだった。
「うん。私も楽しい」
私は音弥にそう伝えるために、さらにテンポを落とした。
音弥みたいに高速を保ったままでのおしゃべりは難しかったから。
そして当然、音弥の指も動きが遅くなる。
音弥は速度だけでなく、高音からまた低音に戻ると、弾き方もゆるやかなものに変えていった。
私の主旋律は変わらないのに、曲調ががらりと変わる。
私主導だったはずが、いつの間にか私はメトロノーム役で、指揮者は音弥に成り変わっていたのだ。
でもそれが、不思議と心地良くなっていた。
音弥のテクニックに負けてられないという思いが消えたわけではないけれど、それ以上に、音弥のピアノに翻弄されるのは気持ちよかったのだ。
ああ、私はこんなにも楽しい瞬間を、ずっと見逃してきたんだな………
今になって気付いても遅いけれど、一度も味わうことなく永遠の別れを迎えずに済んで、本当によかった。
「姉さんの音、はじめはずいぶん硬かったけど、だんだん姉さんの本来の音になってきたよね。俺が憧れてた、聴いてる人を楽しくさせる音だ」
「それはちょっと身内贔屓が過ぎると思うけど」
「そんなことない。子供のときに習ってたピアノの先生も言ってたし、発表会を聴きに来てた保護者が言ってたのも聞いたことるよ?」
「………初耳だけど」
「そりゃ、姉さんには言わなかったからね。姉さんは褒めると照れて意識してしまうところがあるから、先生も母さんもあまり伝えなかったみたいだけど。でも、姉さんは楽しそうにピアノを弾く、姉さんのピアノを聴くとなんだか明るい気分になれるって言ってたよ」
「そう……なんだ……?」
「だから、姉さん」
「うん?」
「続けてよ、ピアノ」
「え………」
「俺の分まで弾いてとかは言わないけど、姉さんだって、ピアノが好きなんだろ?別にピアノの仕事をしてほしいとかそういうんじゃなくて、趣味でいいし、暇なときだけでもいいからさ、たまにはその棚にいる俺に聴かせてよ」
「音弥………」
「今みたいに ”猫ふんじゃった” でいいからさ」
「音弥………」
「泣かないで、姉さん」
「泣いてなんかないよ」
「そう?あ、そうだ、姉さん、あの傘、もらっていっていい?」
「傘?」
「そう。姉さんが持たせてくれた、紺色の傘。姉さんがくれた最後の物だから」
「それは構わないけど、もっと他に欲しい物とか、ないの?」
「あれでじゅうぶんだよ。そのお返しっていうわけじゃないんだけど、実は俺からも姉さんに渡したい物があるんだ」
「何?」
「それは見てからのお楽しみ。二階の俺の部屋の写真立ての後ろに置いてあるから、また後で見てみて」
「いつの間にそんなとこに隠したの?」
「はじめてこの家で姉さんに会ったときの帰り際だよ。俺一人で二階に行ったことがあっただろ?」
「そういえば………」
「本当は、もっと早く姉さんに渡したかったけど、ちょっと勇気が出なかったんだ」
「そんな重要な物なの?」
「もしかしたら、姉さんにこれを渡すために、俺はこの世界に残ったのかもしれない」
「そんな………」
「ああ、だめだよ、姉さん。ほら、笑って?姉さんが教えてくれたんじゃないか。笑うと、怖さも寂しさも悲しさも減っていくんだって。だから笑おうって」
「それは、子供の頃の話で……」
「同じだよ。今も、あの頃も。俺が姉さんのピアノを大好きなのも、24時間365日俺が姉さんを尊敬してるのも」
「音弥………」
「でもね姉さん、忘れないで。俺は姉さんのピアノが大好きで憧れてるけど、もし姉さんがこの先一生ピアノを弾くことがなくても、俺が24時間365日姉さんを尊敬してるのは変わらないんだからね。子供の頃から家族のために頑張ってた姉さんは、いつだって俺の目標だったんだから」
「――――っ!」
「ほら、姉さん、弾き続けて」
「音弥、音弥………」
「俺はこの家族の一員になれて、本当に幸せだった。姉さん、こんなの言わなくてもわかってると思うけど、父さんと母さんと、文哉を、よろしくお願いします」
「そんなの……そんなの当り前だよ」
「うん、そう言うと思った。姉さん、もし姉さんの心が不安定になったり、寂しくなったり、自信をなくしたときは、またここに来て ”猫ふんじゃった” 弾いてよ。超高速の。それで、今俺が言ったことを蘇らせて。俺が、姉さんを尊敬してるってことを、思い出して」
「音弥……っ」
「姉さんの弟として生きられた時間は、俺にとって大切な宝物なんだ」
「音弥、音弥っ!」
「ありがとう、姉さん。俺の、姉さんになってくれて………」
「そんなの、私だって!」
「姉さん、どうか………生きて………………………
突如、眩しい光が音弥を包み込む。
その次の瞬間には、ピアノの音が私一人分になっていて。
そしてそう気付いたと同時に、頭の中で音弥の声が響いた気がした。
姉さん、もういいよ――――――と。
私は気配がなくなった左側を見ることはできず、ただぴたりと手を止めた。
「………音弥?」
嘘だ、信じたくない、そんな想いで、恐る恐る顔だけを横向かせて。
だけどやっぱり、そこにはいなくて。
「音弥……………やだ、音弥、音弥……っ音弥ぁぁぁぁ―――――っっ!!!!!!!!」
絶叫と、堪えに堪えた涙が洪水となって、鍵盤の上で雫が踊り狂うのを、彼らも南先生も天乃くんも、黙って見守るばかりだった。
こうして、タイムリミットの夜明けを待たずして、私の弟、西島 音弥は、私の前から完全に姿を消したのだった。




